4. 今朝の顔は覚えていない


 金曜日、終電間近、人身事故。三つの要因が重なり電車は文字通り満員状態だった。車掌さんの手で何とか扉を閉めて出発したが、他人と密着せざるを得ないこの状況に車内はどことなくピリついている。連日残業を続けた心身には堪えるが、一刻も早く帰りたいし我慢するしかない。乗り込むまでは三ツ谷くんとあーだこーだとお喋りしていたが今はお互い黙っている。彼も流石に疲弊しているようだ。揺れで寄りかかってしまわない様、両足を踏ん張った。
 どこが列かも分からないくらいホームには人が溢れていた。そのほとんど全てを乗せきったわけだから、どんなに頑張っても他人と触れてしまう。だからしょうがないかもしれない。けれど、気のせいかさっきから太腿を触られている様な感触がある。厚手の生地のスカート越しで確かではないが、鞄やその他の荷物ではなく体温があるように感じられた。不鮮明だったその感触が段々と確かな物になってきて、途端に怖くなる。

「なぁミョウジ、今日相談した件だけど…」

 不意に話しかけられて身体がビクリと震える。少し高い位置にある彼の顔を見上げると、怪訝そうな表情と目があった。

「どうした?」
「あ、いや…なんでもない……」

 痴漢されてるかもしれない。なんて、恐怖で固まったままでは口にできない。あと数駅で降りるし我慢すればいい。そう思いながら身を縮めていたら、三ツ谷くんにぐいと背中を押されて袖仕切の前へと押しやられた。そのままドア横の手すりを掴むと私を囲む様な形になる。

「ムリすんな」
「あ、ありがとう…」

 三ツ谷くんのシャツのネイビーで視界がいっぱいになる。微かな香水の匂いと体温がほんのりと伝わって、助けてくれて嬉しいのに甦る苦い思い出で胸が痛い。背反する二つの感情に押し込めた恋心を呼び起こされて、息をするのも苦しかった。

 展示会を控えたオフィスは月曜から忙しない。対してオフィスから廊下を挟んだ書庫はいつも静かで、仕事中でも一息つける空間のひとつだった。目的の書類を探してロッカーを開ける。三ツ谷くんによるとこの辺りにあるはずだ。
 朝からタスクをこなしているうちに、あっという間に夕方になっていた。今の時期はやることはいくらでもあるし、不慮の事態も起きる。でも、同じ『振り回される』でも、多少コントロールできる仕事の方が楽だし、時間が過ぎるのも早い。気持ちの浮き沈みを忘れたくて、今まで以上に精を出していた。

 当たりをつけていた場所に書類が見つからず、ロッカーをしらみ潰しに開けていくもどこにも見当たらない。

(どうしよう。三ツ谷くんに手伝ってもらおうかな)

 その名前を思い浮かべた途端、あの電車の一件を思い出してしまった。彼の一挙手一投足に振り回される自分が情けなくて、繁忙期であるのをいい事に朝から晩まで仕事をこなして忘れようとする。それなのに、ふとした事で押しやった恋心が何食わぬ顔で胸の真ん中に帰ってくる。それをまた仕事で押し込める。イタチごっこだった。
 私、一体何やってるんだろう。ひとりきりの静かな空間で気が緩んだのか、視界がじわりと歪む。瞬きした拍子にぽろりと一粒こぼれて、それが次の一粒の呼水になってしまう。こぼれ続ける涙を拭っていたら不意に扉が開いた。

「なぁ、書類みつかっ……」

 ぎょっとした顔の三ツ谷くんがそこに居た。中々戻ってこないから様子を見にきてくれたらしいけれど、タイミングが悪すぎる。泣いてるところなんて誰にも見られたくないのに、よりにもよって一番見られたくない人だなんて。咄嗟に顔を背けた。

「全然見つからないよ。展示会終わったら整理した方がいいかも」
「いや、それよりお前……」

 顔を覗き込まれて思わず身体を引く。

「あくび出ちゃった。恥ずかし。書類見当たらないし、サーバーに残ってないか探してみる。ありがとう」
「あ、おい!」

 下手くそすぎる言い訳に内心苦笑いしつつ、三ツ谷くんの横をすり抜けて書庫を出る。ちょうどオフィスから出てきた佐藤くんとも鉢合わせになり、彼も驚いた顔をしている。運が悪い事に、特に見られたくない二人に出会ってしまった。そのまま席に戻る気にはなれなくて化粧室へ向かう。鏡にはおよそあくびしただけとは思えない自分が映っていた。
 気分を変えないといけない。化粧を直してから給湯室でコーヒーを淹れた。ドリップパックにお湯を注ぐと芳ばしい香りが立ち込める。少しずつ抽出されていく様子を見て気持ちを落ちつけていると、控えめにドアが開いた。佐藤くんだった。

「ナマエさん、これよかったら」

 個包装のクッキーが差し出される。輸入品店でよく見るシナモン味のものだ。

「あの、大丈夫ですか?」
「…ちょっとだけ疲れちゃったかな」

 彼の気遣いに思わず本音がぽろりと漏れてしまった。後輩にこんな事言ってしまうなんて、自覚してる以上に疲れているのかもしれない。

「やるしかないんだけどね。気を使わせてごめん。お菓子、ありがと」
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。あともうちょいだし頑張ろ!」

 自分にも発破をかけたつもりだったのに、上司から定時で帰宅を命令された。三ツ谷くんか佐藤くんのどちらかが上司に進言したのかもしれない。まだ騒がしいオフィスを出て、罪悪感と少しの安堵を抱えて帰路に着く。電車に揺られるうちに眠りにつき、乗換駅を数駅乗り過ごしてしまった。





 昔から機械が苦手とはいえ、もう何年も触っていれば日常的なパソコンの操作はできるようになっていた。ただタイピングだけはずっと不得手で、文章の作成は人より時間がかかってしまう。長めのメールをやっと送信し終えて席を立った。炭酸かなにか、スッキリするものが飲みたい。
 休憩スペースの自販機の前で佐藤が突っ立っていた。俺に気づいて「お疲れ様です」と挨拶する。コイツこそだいぶお疲れに見えたので奢ってやる事にした。

「三ツ谷さんとナマエさんって、ずっと一緒なんですよね」
「まぁな」

 せっかくだし息抜きしようと壁際に設置されたハイテーブルに佐藤を誘った。疲労した身体に炭酸が沁みる。天板によりかかる俺とは対照的に、佐藤は背中を伸ばしてしゃんと立っていた。俺と一対一でしっかり話をするのは初めてだからかもしれない。別に適当にしてていいのに。

「ナマエさんが弱音言ってるのって、聞いたことあります?」

 夕方、ミョウジを追いかけて書庫から出たら佐藤と鉢合わせた。無言で俺に目配せをしたのを思うとコイツも見たらしい。「あくびした」なんて明るく振舞っていたが明らかに嘘だ。痛々しく濡れた瞳と震える声が脳裏に焼き付いている。
 
「いや、ねぇな」

 ここ最近、ミョウジの様子が気になっていた。何度も修羅場を体験してきたが、彼女があれほど気を張っている所を今まで見たことがないし、まるで何かを振り切るように没頭している。一見前向きな様子だが、俺には空元気に見えていた。
 金曜の夜、電車内に詰め放題にされた時、縋るような怯えた瞳をした彼女を人混みから匿った。野暮だと思って何も聞かなかったが、そのショックを引きずっているんだろうか。疲れで弱っているところにあんな目に遭えば、泣きたくなるのも納得できる。上司に早く帰るように言ってもらったが、これで少しでもミョウジの心身は休まっただろうか。

「様子見に行ったら『疲れた』って言ってて。俺が足引っ張ってるんですかね」
「ミョウジがそんな事言うと思うか?」
「いえ…」
「だろ?そんなんで悩むより、アイツが休んでる間にちょっとでも仕事進めといてやれよ」
「そうですね。俺そろそろ戻ります。カフェオレありがとうございました」
「おー、頑張れよ」

 良い先輩の顔で元気付けたが胸中は穏やかじゃなかった。佐藤が出ていき静かになった休憩所で一人ごちる。

「俺だろ。佐藤じゃなくて」

 一体何が彼女をあんなになるまで駆り立てているのか、正直わからない。わからないが、俺には見え見えの嘘で誤魔化したくせに、後輩には弱音を漏らしていたのがどうも面白くない。「アイツはそんな奴じゃない」なんて、慰める振りした「俺の方がミョウジの事をよく知っている」という対抗心だ。後輩相手に何してるんだか。情けない。
 妙な気分にさせられつつも、まだ負けてやる気はさらさらない。俺ももうひと頑張りしよう。景気付けに炭酸飲料を一気に飲み干すと、人工的な甘さがやけに喉にまとわりつく。そのスッキリしない感覚を眠りにつくまで抱えていた。





- ナノ -