3. そこ以外を撫でてほしい


 十三時を過ぎた定食屋は、昼休みの騒めきを残しながらも穏やかな時間を迎えつつあった。目の前に鎮座するトレーにはいくつも皿が載っているのに、ひとつの崩れも見つからない。なんとも器用に運ぶものだといつも思う。黒い大きなトレーの中央でアジフライと刺身が主役を争い、周りでは小鉢がアンサンブルのごとく賑やかしている。約三ヶ月ぶりの対面だ。

「嬉しそうですね」
「へへ。楽しみにしてたから」

 取引先の近くにあるこの定食屋がお気に入りだった。先方へは年に数度しか訪れないので、その際は毎度食べに来ることにしている。今日は訪問ついでに佐藤くんを顔合わせに連れてきていた。基本的に社外の人間と会うことがないので彼にとっては初めての経験となり、相当緊張したらしい。解放されリラックスした様子で煮魚をつついている。歳の割に渋いチョイスだ。

「そういえば、ナマエさんと三ツ谷さんて仲良いですよね」
「そうかな。まぁ同期だしね」

 会話の流れを一切無視していたから言葉を受け取るのに時間がかかった。仲は良いと思うけれど二年半も同じ部署にいたらこんなものだと思う。新入社員でうちに配属になったのは佐藤くんだけだから、私達に比べたらあまり親睦が深まっていないのかもしれない。

「よく喋ってるし、飲み行ったりしてるじゃないですか。よく行くんですか?」
「先月くらいからかな」
「ふぅん。なんで急に?」

 彼女と別れたから飲みに行けるようになったんだよ。とは流石に言えないので適当にお茶を濁す。

「三ツ谷くんにも色々あるんだよ。あ、もし相談事なら取り持とうか?」
「いや、大丈夫です」

 話題の変え方を少々強引に思ったからそういう事かなと思ったけれど、首を横に振られる。なんだかいつもの彼らしくない歯切れの悪い返事だった。いくら私が指導役だからといって、話したくないことのひとつやふたつあるはずだ。誰だってそういうものだと思う。あまり世話を焼きすぎるのも良くないだろう。

「ところで帰社してからの打合せだけど…」

 これも少し強引かな、と思いつつも帰社後の打合せについてへ舵を切った。「割とタフだよ」と脅すと「ウッ」と声が上がる。成長していると言え彼もまだまだだ。先輩から後輩へのエールとして、この場はご馳走させてもらうことにした。

 予言通りのタフな打合せをこなした後、無性にコーヒーが飲みたくなって鞄から財布を引っ張り出す。取引先でも打合せでも気を張っていたので少々疲れた。ご褒美に今日はコンビニじゃなくてあのカフェのコーヒーにしよう。

「コーヒー?俺も行く」

 外出の気配を察した三ツ谷くんも財布をポケットに突っ込んでいる。先に出てるよと声をかけ、オフィスを出てからエレベーターを呼ぶ。エレベーターの到着とほぼ同時に三ツ谷くんが追いついてきた。
 通りに出て目的地のカフェへ向け横断歩道をひとつ渡る。ここからあと三分ほど歩いた先に、部署内のコーヒー派に人気の個人経営のカフェがある。テイクアウト用のスタンドがあるので店内に入ったことはないけれど、ジャズの流れる昔ながらの空間はとても居心地がよさそうだ。

「ついでに買ってきたのに」
「いや、俺も息抜きに外出たかったし」

 何も羽織らずに出てきてしまったから体が冷えていた。紙カップ越しにホットコーヒーの温かさで指先を温める。日陰に差し掛かるとより一層寒いけれど、もう少しふたりでいたいから我慢してわざとゆっくり歩く。単純な理由が我ながらいじらしい。
 あれからもう二度ほど金曜日の残業後に飲みに行った。仕事以外の接点が増えたからか、以前よりも三ツ谷くんとの仲も深まった様に思う。何よりここ最近は元恋人についての話題が上がっていない。彼女の存在が彼の中から消えつつあるようで、内心嬉しく思っていた。

「あのさ、ちょっと変なこと聞いて良いか?」
「いいよ。なになに?」

 これが何でもない休日の散歩だったらいいのに。別に私が次のお相手になれるなんて思っていないけど、少しくらい夢をみたい。もしそうなったらどうでもいい質問でも、なんでも大歓迎だ。

「ミョウジさ、ヨリ戻すのってどう思う?」

 自分でもびっくりするほど体がこわばって、危うくコーヒーを落とすところだった。





 玄関を閉めた瞬間、深いため息が出た。せっかくの休日だというのにどっと疲れている。幾分か物が少なくなった部屋のソファに腰掛けてやっと一息つく。こんな事なら会わなければよかった。

 元カノが家に残していたものを返そうと連絡したら、うちまで取りに来るというのでそうしてもらった。予定通りに訪れた彼女を家に招き入れるも、一向に作業を始めないので不思議に思っていると、『ヨリを戻さないか』と提案されて困惑してしまった。
 正直顔を合わせたら揺らぐかと思っていたのに、全く提案に乗る気が起きなくて驚いた。付き合ったなりの情はあるがもう終わった恋愛だ。ヨリを戻したとしてまた同じ事になるだろう。丁重にハッキリと断ると、数回の押し問答の末に渋々持ち物を回収して帰って行った。

 お互いに納得しての結論だったはずなのに、最後の最後で後味の悪いものになってしまった。「もうワガママ言わないから」と訴えられたが、「そんな訳ねぇだろ」と思う。一方で残っていた情が「信じてやるべきだったか」と思わせてくる。

(ミョウジだったらどう言うかな)

 気分転換にいれたコーヒーの香りのせいか、ミョウジの顔が浮かんだ。彼女の恋愛観を詳しく聞いたことはないが、元カノとは正反対のように思う。ミョウジは一体、どんな男を好きになるんだろうか。

「ミョウジさ、ヨリ戻すのってどう思う?」

 それから数日後、コーヒーを買った帰りに何気なく疑問をぶつけた。寒そうに紙カップを握りしめる姿に、上着を取ってきてやればよかったと思う。

「私は…あんまりよくないと思うな。うまくいかなさそうだし」

 少し身体をこわばらせ、その拍子で紙カップを握る手が震えていた。あんな風に動揺する姿は今まで見たことがなかった。

「この前元カノが荷物取りにきたんだけど、『ヨリ戻したい』って言われてさ。ムリっつったんだけど」
「そうなんだ。うん、私もムリだと思う」
「だよなぁ。『ワガママ言わないから』って言うんだけど、信らんねぇよ」
「まぁ、なかなか変われないよねぇ…」

 穏やかな笑顔が一瞬だけ悲しげに曇る。過去にヨリを戻して失敗でもしているんだろうか。相手はどんな男で、どういう経緯だったのか。ミョウジは今そいつに対してどんな気持ちなんだろう。なんにせよ嫌なことを思い出させていたら悪いのですぐに話題を差し替える。はじめて見たミョウジの表情に、何故か俺も動揺していた。
 
 その日、帰宅して何気なくあけた引き出しの中に元カノの忘れ物を見つけた。手のひらに収まるくらいの小さなハンドクリームは未開封の様で、たっぷりと中身が入っている。勿体無いから連絡してやろうかとよぎるも、休日のあの問答を思い出してゴミ箱へ投げた。どうせ忘れていったことすら覚えていないだろう。的を外れずに収まってスカッとする。
 スッキリしない終わりになってしまったが、これでよかったと思う。元カノもそのうち俺を忘れて、幸せになれる男を見つけ出すだろう。俺も当分は仕事に精を出す事にする。

 迫り来る繁忙期に備えて早めに布団をかぶる。しばらくは飲みにも行けないだろう。心底嬉しそうに酒と食事を楽しむミョウジを思い出して、少し寂しくなった。





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