9. おなじ色のアイラブユー


 川幅を覆うように迫り出した桜並木は、冬が洗い流した青空の向こうまで続いていた。春、平日の午前中を絵に描いたような穏やかな陽気の中、ちらちらと舞い落ちる花びらが微かな風の流れを教えてくれる。少し葉の混ざりはじめた桜色を丁寧になぞりながら、ふたり肩を並べて歩いていた。

「いいね。人が少なくてゆっくり見れる」
「早起きした甲斐あったな」
「三文の得を実感できるなぁ」

 「平日に休みをとって桜を見にいこう」そう誘われて休暇をとった。職場にはこの関係を秘密にしているから同じ日に休むことを少しためらったけど、こんなに贅沢で穏やかな時間を一緒に過ごせて、今日という日には既に満足気味だ。三ツ谷くんにだいぶ押されてようやく取った休みだけど、思い切ってよかった。

「ねぇ、下見て。きれいだよ」

 上ばかり見ていて気づかなかったけれど、散った桜が川を染めていた。川面を覆った花びらが流れに運ばれて集まり離れ、ゆるりと表情を変えていく。一時も同じ顔を見せない花筏は美しく、並んで柵に身を預けたまま言葉もなくその変化を眺めていた。満開でも散ってからもこんなに目を楽しませてくれるから、人々はこの花を愛しているんだろうな。夢中になっていると不意に髪の上を指が滑っていく感覚がして、その犯人へと視線をあげる。

「花びらついてる」

 ふ、と微笑んで私の前髪のあたりを優しく払う。絶え間なく舞い散るその下にいるから、三ツ谷くんの肩や髪にもいくつかひっそりと着地していた。

「三ツ谷くんもついてるよ」

 手を伸ばして髪に乗った花びらを払う。その下の薄紫の双瞳が陽を受けて、台座にはまったアメジストみたいにチラリと光る。視線が交わるとその色が変わったように見えた。
 するりと頬を撫でた指にそっと顎を支えられ、そのままゆっくりと埋まる距離を受け入れるように自然と瞼を閉じる。花びら一枚をやっと捕まえられるくらいの、ささやかな触れ合いだった。離れていった唇が柔らかく口角を上げると、残った感触が鮮やかになって途端に顔が熱くなる。

「ここ、外だよ」
「ワリ、可愛くてつい。怒った?」
「怒ってはない、けど…」

 つい咎める言い方をしたけど怒ってなんていない。むしろ幸せだけど、ほんの少しだけ複雑だった。開いた手帳の中、衣替えしたセーターの袖、削れたパンプスの踵。まだそこかしこに片想いしていた自分の面影を見つける。その度にこうして『恋人』という関係に収まっていることが不思議で、あまりに幸せで、いつかまた迎えるであろう変化の時を思って怖くなる。
 私のためらいに根気強く付き合って、丁寧に気持ちを伝えてくれた。そんな三ツ谷くんのことを信じてる。でも永遠に続くことなんてない。この幸せも一時のことで、桜のようにいつの間にか儚く消えていくかもしれない。諸行が無常であることくらい、まだ若造の私でも理解しているつもりだ。

「桜、ずっと咲いててほしいな」
「そうだな」
「でも散っちゃうんだよね」

 嬉しくて、幸せで、でも切ない。そんな胸の内をどう伝えていいか分からない。このまま知られたくないような気もする。でも、でも。
 水面の薄いピンクが描くマーブル模様のように心が落ち着かなくて、縋るように三ツ谷くんのジャケットの裾を握った。その側から指が解かれて、代わりに固い指の節が滑り込んで絡まる。

「来年も見に来ようぜ。俺はそのつもりだから」

 空いた方の手で頭をぽんと撫でる、その仕草には確かに愛しさが滲んでいた。ずっと三ツ谷くんを見てきたからわかる。未来の話をする彼に嘘はひとつもない、心からの言葉だ。

「来年も一緒に休んだらバレるかな」
「それより前にバレんだろ。つーか社内恋愛禁止じゃねェし」
「そうだけど、バレたら異動になりそうだからイヤ」
「しゃーねぇ。早く独立すっかな」
「そのために?」
「理由のいっこにはなるな」

 不安に苛まれることもまだある。だけど強く私を包むこの手を離したくない。それはちゃんと伝わってほしくて、ぎゅっと握り返した。

 もうすぐ頭上を濃い緑が飾るようになる。そのうち桜紅葉となって、やがて冬枯れが葉を落としていく。季節がひと回りして再び迎えた春の中を寄り添って歩く。そんなふたりの姿を対岸で見た気がした。





 ソファで寄り添って距離の近さを楽しむ間に、テーブルにふたつ並んだマグカップの紅茶は碌に手をつけられないまま、湯気を吐くのをやめていた。つけっぱなしにしたテレビの中では、アナウンサーがニューヨークの街を散策している。様々な分野において世界の中心となるあの街が彼女の故郷だという。

「ニューヨーク産まれか。かっけェな」
「自分の力で行った方がかっこよくない?」

 セリフの力強さとは裏腹に眠気の混じる声色だ。薄い腰に回した右腕の先で握った手が温かい。早起きをしたから、きっと眠気に襲われているんだろう。寝かしつけるような気持ちで更に身を寄せると、素直に肩口に頭が収まった。初めの頃はすこし触れるだけで身を固くしてことを思うと、すっかり俺を受け入れてくれているのを実感する。
 胸の内を明かしあったのは年を越す前だったが、この関係に収まったのはその少し後だった。いつから俺を好きでいたのかは教えてくれなかったが、それなりに長い片思い期間は彼女から自信を奪い、変わることへの戸惑いを植え付けていた。付き合いが始まってからも垣間見える不安をどうにか解消したくて、言葉や態度で惜しみなく好意を伝えてきた。その甲斐あってここ最近は恋人らしい雰囲気に落ち着いている。

「確かに。お前のそういうとこ好きだわ」
「うん」

 うとうとしつつも一応返事をするのが愛らしい。いつかの俺のやらかしのせいか、中々隣で寝てくれなかったのを思い返すと一層のこと。気持ちを明け渡すたび少しずつ隙を見せてくれるのが、今までとは違う意味で俺を信頼してくれているようでたまらない。困ったことに気持ちは大きくてなっていくばかりだ。
 
 テレビの中ではアナウンサーがチョコレートを頬張っている。こういうの好きそうだな。そう思って覗き込んだまつ毛が、今まさに夢路へ迷い込もうとしていた。

「ナマエ」

 眠るならベッドへ行こうと呼びかける。柔らかな頬を軽くつつくと、そろそろと瞼が持ち上がった。

「たかしくん」

 とろりとした響きに胸が熱くなる。名前を呼ばれたくらいで、思春期のガキじゃあるまいし。そんなことを思いつつも頭に広がる熱に逆らわず、俺を呼んだままの無防備な唇に噛み付いた。
 本当は今朝、花見の最中にキスした時からもっと触れたかった。不安を刺激したくなくてナマエの様子に合わせていたが、もうそろそろいいだろう。だんだんと見えてきた隙に、もっとつけ入りたい。

「ん…ふ………」

 今まで遠慮していた深い口づけの合間に、柔らかな唇から吐息が漏れる。調子に乗って差し入れた舌にも緩い反応が返ってくることに満たされて、ひとまずは下唇を軽く食んで終わりにした。そろりと開いた黒目の中に浮かぶまどろみさえも煽情的だ。

「寝る?」
「ん、ねる」
「ホントに寝んの?」
「きょうは、もうねむい…」

 眠りの誘いに逆らえないらしく、長いまつ毛に飾られた瞼がゆっくりと開いては閉じてを繰り返す。仕方ない、今日はお預けされてやろう。ソファから抱き起こしてやるとよろよろと歩いてベッドに上がるのに続く。背を向けられるのだけは許せなくて、ころりと身体を自分の方へ転がした。

「ねぇ、イヤなんじゃないよ」
「眠ィんだろ?わかってる」
「うん…あした……」
「明日?」
「……」

 人が眠りに落ちる瞬間を初めて見た。明日に期待していいのか、それとも全く別の話か。返事の代わりの寝息が忌々しいが、あどけない寝顔を見るとどうでもよくなってくる。本人にそんなつもりはないだろうが、今となってはすっかり主導権を握られていた。けど、満更でもない。その健気な片想いの分だけ、俺も口説いてやるさ。

 だからこの先もずっと、俺を好きでいてほしい。


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