8. 閃光は柔く瞬く


 束の間の自由のはじまりを祝うかのように、仕事納めの会は弾みに弾んでいた。去りゆく事はなんでも惜しまれるもので、皆頭の中のカレンダーを捲りながら今年についてを語っている。その輪から外れたところで、ミョウジは先輩と何やら楽しそうな話をしていた。

 少し離れた場所でも多少騒がしくても、ミョウジの声は探し出せる。気づけばいつからかそうなっていた。聞こえてくるのが俺の話題とくれば尚更敏感に捕まえられる。先輩はミョウジをからかっていたが、終いには話を振られた俺までそれに乗っかったのもあって、少々ご機嫌斜めになってしまった。ほんの少し唇を尖らせていじけた様子が可愛らしい。ご機嫌をとりたい俺は空席だった隣へ移り、白い手の中のビールグラスを小突いた。

「ずっとビール飲んでんの?」
「余っちゃってたから。これ飲んだら違うのにする」
「貸して」

 薄いブルーが飾られた指先からグラスを奪って一気に飲み干した。余り物の琥珀は冷たさも炭酸もいくらか失っていたけれど、期待通りに俺の渇きと火照りを潤す。

「自分で飲めたのに…」
「全然進んでなかったじゃねぇか。どうせ飽きてたんだろ」
「へへ、実は。お礼に三ツ谷くんの分も頼んであげよう」

 店員を呼び止めて注文をする小さく整った横顔に図らずも心臓をくすぐられる。安らぎ、嫉妬、喜び、焦り、その他様々な感情。全てひっくるめて恋という名前に変わったときから、見えてくる景色も体感も何もかもが違う。先程飲み干したビールだって、ミョウジの物だから他より美味しそうに見えた。

「佐藤とメシ、どうだった?」
「んー、なんか、すごくいいお店だった」
「デートじゃん。妬けるわ」
「違うよ、もう」

 既に佐藤から聞いているくせに、白々しく何も知らない振りを決め込んだ。自分の意地の悪さに閉口もするが、佐藤とはそういうんじゃないってミョウジの口から聞きたい。来る決戦の時には、そういう小さい確信で勢いをつけてから臨みたかった。

「先越されて残念だったワ。ミョウジに話したい事あったのに」
「いつでも聞くけど、会社じゃ話せないこと?」
「それは厳しいな」
「あっ………て、転職したいとか?」

 深刻そうに全く的外れな予想をそっと耳打ちしてくるミョウジの声がくすぐったい。無防備に近寄って耳に直接喋りかけて、そういう仕草で簡単に男が喜ぶこと、ちゃんと分かってんのかな。相手が俺だからか知らないが、何の気なしにやっていそうなところに腹が立つ。俺以外にはするなと言っても許される間柄に、早くなりたい。

「違ェけどそんくらい重要。しかもミョウジにしか解決できない」
「なんか、悪いことの片棒担がせようとしてる?」
「そうだな。勝手にデザート頼むとか、そういうこと」
「悪い〜けど乗った!」

 何も気づいていなかったのは俺だった。その立場が逆転した今は、少し気を起こせばどうにでもできそうな距離にいるのに、触れることすら許されない関係性が憎い。傍らでワルイコトに興じる無邪気な笑顔を手に入れて、早くこの数センチを埋めてしまいたい。
 こんな焦燥に駆られつつポーカーフェイスを張り付けていると知ったら、ミョウジはなんて言うだろうか。『良き同僚』なんて言って、ミョウジとの関係性を決めつけていた俺が。でも、たぶんお前も同じだったんだろ?待たせちまったみてぇだから、とっととお互い素直になろうぜ。

 俺の願いは天に届いたらしい。すぐにチャンスはやってきた。





 年の暮れの雰囲気が好きだ。浮かれているようで、それでいて去りゆく年を惜しんでいるような。かくいう私も仕事を納めた解放感に浸りつつ、今年の出来事を懐かしんでいた。皆が遠慮なく飲み食べながら、一年の総括で大いに盛り上がっている。どんな苦労も喉元を過ぎていけばツマミになるいい思い出だ。

「トレーニングして展示会やって。ナマエちゃん、今年は大活躍だったよねぇ」
「そんな、大袈裟ですよ」

 まさしく「宴もたけなわ」の中、端の方に陣取った先輩と私は比較的静かに飲んでいた。先輩は私の新入社員時代のトレーナーで、ちょっと小悪魔というか悪戯なところがあるけれど優しくて信頼できる女性だ。私が新人だった当時からよくしてくれている彼女を、今でも姉のように慕っている。

「ところでさ、三ツ谷と佐藤どっちにするの?」
「んっ!?…ごほっ、」

 空いたグラスに手酌をしていたら、つるりとした真紅を指先に乗せた手にビール瓶を奪われた。先輩の旺盛なサービス精神のせいで溢れそうになる泡を慌てて啜っていると、不意に耳打ちされて思わずむせてしまった。「あらら」なんて言いながら背中をさすられる。

「変なこと言わないでくださいよ…」
「んふふ。ちなみに私は三ツ谷がいいと思うな」
「話聞いてます?」
「三ツ谷といる時の方が自然な感じする。ねぇ?」

 ビールの残りを自分のグラスへ注いだ先輩は、爪と揃った色の唇で弧を描きながら三ツ谷くんへひらひらと手を振る。あちらはあちらで別の会話の輪に花を咲かせていたし、席もいくつか離れている。先輩の問いかけが一体何なのかはわかっていないだろうけど、恥ずかしいからやめてほしい。

「三ツ谷はどう思う?」
「そっスね」
「ほらぁ!」
「もう、何でもいいです」

 三ツ谷くんの適当な答えと、それを面白がる先輩。それにいじける私。こんなのどうせ飲みの場の戯れだ。そう思うのに、溶けて力の抜けたような目で微笑まれるとチリチリと皮膚が火照る。それもこれもお酒のせいだと思い込むために、注がれたビールにちびちびと口をつけた。

 会がお開きになっても、まだひとり店内に残っていた。お手洗いに寄りたくて扉の前で待っているけど、なかなか個室の扉が開かない。酔い潰れる人が出るような雰囲気のお店じゃないけれど、時期が時期だしハメを外し過ぎる人がいてもおかしくない。心配になって店員さんを呼ぼうか迷っているうちに扉が開き、遅くなったことを謝罪された。小脇に抱えたポーチと腰に巻いたカーディガンで色々と察する。そういうこと、あるある。
 順番がくれば自分の用事はささっと終わるけれど、結構時間が経ってしまった。みんなには先に出てもらうよう声をかけたけれど、もし待たせてしまっていたら悪い。そう思って足早に店外にでると、店の前の防護柵によりかかった三ツ谷くんがひとりでスマホをいじっていた。

「待っててくれたの?」
「二次会の場所見つけたっつーから行ってもらった。女ひとりでコリドー街歩きたくねぇだろ?」
「確かに…」

 ここはナンパで有名な街。少し目をやっただけでも出会ったばかりであろう男女のグループや、今まさに女の子へ声をかけている男性の二人組が目に入る。出会いを求めていない場合、女だけで歩くのは少々面倒だ。ひとりで歩く時の煩わしさを思うと、男性が一緒に歩いてくれるのはありがたい。

「行こっか。場所聞いてる?」

 みんな二次会に行ったのなら場所の連絡がきているかもしれない。コートのポケットからスマホを取り出すと、ロックが開く前に大きな指輪のはまった指に掴まれ、画面が見えなくなった。

「飲み直したいんだけど、ふたりで」

 予期しない言葉だった。てっきり一緒に二次会に向かうために待っていてくれたと思っていたのに。

「二次会、行かないの?」
「ミョウジ送ってから帰るって言った」
「なのに私と飲むの?」
「そ」

 そりゃあ私も二人になれたらうれしい。けれどわざわざ今日、三ツ谷くんがそこまでするのはピンとこない。ハテナを浮かべる私を見逃さずに畳み掛けられる。

「先輩も俺のほうがいいつってたろ?俺とにしとこ」
「え…なんで……」
「ワリ、しっかり聞いてた。で、どう?」

 いつになく強い視線に結ばれて思考回路を遮られる。予想外の事態になんでなぜの堂々巡りする私と、答えを待っている三ツ谷くん。その間を不意の着信音が切り裂いた。佐藤くんからだ。二次会についての電話だろうけど、出ようにも骨張った手がスマホを掴んだまま離してくれない。

「三ツ谷くん、電話鳴ってるから…」
「ダメ、出ないで」

 ずるい。そんな真剣な顔でお願いされたら断れないじゃないか。油が切れたゼンマイみたいに重たい瞬きを繰り返しているうちに、電話は切れてしまった。手首を掴む三ツ谷くんの手に導かれてスマホをポケットにしまう。後で連絡返さなきゃ。頭の片隅にリマインドを書き込むけれど、この後の出来事にかき消されてしまう予感がする。

「強引なことしてるって分かってんだけどサ。どうしても今年中に話しておきたくて」
「ずいぶんと急ぎの話なんだね」
「そ。俺が同期の健気な女のこと好きになったっていう、チョー急ぎの話」
「……え、」
「もっと分かりやすく言うと、こういうこと」

 スマホと共にポケットに突っ込んだままの手を柔く握られる。少しかさついた手のひらの感触や、声と瞳のとろりとした質感が私の五感を震わせる。何を言われたのか理解するその前に、刺激された脳のそこかしこに浮かんでくる無意識の海に沈みそうだ。こんなに人も車も雑音も多いのに、彼以外のことがぼやけて認識できない。

「いい?ちゃんと終電で帰すから」

 気づいた時には頷いていた。何で?とかほんとに?とか、聞きたいことがいくつも頭を埋めていく。終電までにちゃんと話し尽くせるだろうか。気になっても不安じゃないのは、今の三ツ谷くんの表情と、私が彼への恋を自覚したあの時のものとが似ているからだと思う。

 不純物の少ない冬の空気をすり抜け、真っ直ぐ届いた街灯の光が胸に飾った恋心を輝かせる。見慣れた街でさえ星が飾られたように煌めいて見えるけれど、これは本当は夢なんじゃないか。そんな私の疑いをポケットの中の人肌が溶かしていく。吹けば飛ぶような一夜が往来する通りで、私たちの行く道だけがどこかに続いているように見えた。





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