7. 金曜日、グラスの底で会いましょう


 落ち着いた灯りに照らされた店内には食器の触れ合う音が上品に響いていた。ソムリエの手から注がれたフランス産の白ワインは、前菜の特徴的な苦味に合わせて選ばれたものだという。ペアリングなんて初めてお願いしたけれど、趣があってなかなか楽しい。
 反対側の壁面は一面に洋書が飾られ、頭上の鈴蘭のような形のシーリングライトから暖かみのある光が広がる。適度にカジュアルな接客に、おいしい料理とワイン。全てが上質な居心地のよい空間で、私なんかを連れてくるにはもったいなく思う。

「こんなにいい店じゃなくてよかったのに」
「お世話になってるお返しなんで、遠慮しないでください。俺もこういうところ来てみたかったし」

 「賞与が出るからご馳走します!」となんだか張り切った佐藤くんに案内されてやってきたけれど、本当に張り切ったお店で驚いた。背伸びしている実感は彼自身にもあるのか、ナイフとフォークを扱う手元に緊張が見える。私だってこんな洒落たお店、特別な時しか来ないし慣れてもいないけど。

「カップル多いね。デートなんてしばらくしてないなぁ」

 見渡すと恋人や夫婦の空気を醸し出しているテーブルがいくつもある。クリスマスも近いし、当日は予定があるカップルがイベントを先取りしているのかも知れない。親密な雰囲気を卓上に漂わすばかりのここで、私たちだけがどこか異質だった。

「ナマエさんて、いつから彼氏いないんですか?」
「半年くらいかな。でもすぐ別れちゃったし、付き合ったっては言えないかも」
「へぇ。なんかあったんですか?」

 タイミングを見逃さずにやってきたテーブル担当者が、空になったばかりの前菜の皿を攫っていく。真っ白なテーブルクロスと飲み掛けのワインだけを残されてしまうと、どこに目線をやっていいかわからなくなって、ワイングラスのプレートを指で無意味にいじる。佐藤くんもまだ店内の雰囲気に飲まれているのか、緊張がこっちにまで伝わってくる。流れのまま恋愛話でもすれば、少しは空気が解けるかもしれない。

「ずっと片想いしてる人がいて…」

 半年前の恋人はとてもいい人だった。嫌なところは何もなかった。好意も感じていた。だから今はしっくりきていなくても、時間をかければ好きになれると思った。けれど私は浅はかだった。彼と一緒にいるほど三ツ谷くんを思ってしまう。いよいよキスされるという時に明確に拒絶をしてしまい、これ以上お付き合いはできないとお別れした。相手にはとても失礼なことをしたと思う。

「その、好きな人とはダメそうなんですか?ナマエさん、素敵なのに」
「その人の家でふたりきりになっても何もなかったの。多分、私はそういう対象じゃないんだよ」

 軽率な期待で一夜を過ごしたことを笑ってもらおうとしたけれど、佐藤くんはずっと複雑そうに唇を引き結んでいた。先輩がこんな愚かな女だと知ってがっかりしたのかもしれない。今後の関係性への影響を考慮すると、これを話題にするのは迂闊だっただろうか。

「実は俺も片想い中なんですよね。ダメそうだけど」

 「カップルばっかでヤダヤダ」と頬杖をつくおちゃらけた様子とは裏腹に、いつもは快活な口角に切なさが乗るのがわかった。快適なもてなしの為に設られた空間はお互いの哀しみを慰めあうには余る。訪れた沈黙を埋めるため、魚料理に合わせて新しく注がれた白ワインを口にすると、辛口だと説明された通りキレある味が喉を洗っていく。景気付けして新しい話題に入れ替えようとしたけれど萎んだ空気は完全には膨らまず、飲み直すこともせずに帰路に着いた。
 電車のホームに吹き込む風が、ワイングラスをあけた分だけ浮遊していた足取りを落ち着けていく。かわいい後輩に心を尽くしてもらったというのに、想い人の顔が浮かんで消えてくれない。彼は今頃なにをしているのかな。そんなことを思うばかでいじらしい自分が冷気に晒されないよう、コートの奥にしまい込んだ。





 定時で帰宅したとしても夕飯を作る気が起きない日もある。料理の出来上がりを待てないくらい空腹だったり、単純に疲れていたり。まさに今夜はそういう日で、近所のスーパーの惣菜を晩餐にした。手抜き加減と缶のハイボールが週末にふさわしい。今頃きっと、ミョウジも週末にふさわしい食事を楽しんでいるだろう。俺とは似ても似つかない内容だろうが。

『ごめん。佐藤くんと食事に行くの』

 俺の誘いは後輩との先約を理由に断られた。お互い別の日を提案したが、年末に差し掛かったこの時期は何かと予定が合わず、結局仕事納めの忘年会でということになってしまった。水に落ちたインクのようなモヤは少し前から胸中に広がっていたのに、それに名前がついたそばから焦りだしている。今まではただ澄んだ気持ちでミョウジに接していたのに。

 一体いつからだったのか。内定式で出会った時は特に強い印象もなく、大人しい子だったのを覚えている。同じ部署に配属され、仕事への姿勢や人柄に触れるうちに信頼や尊敬を感じるようになった。元カノとの関係が軋みはじめた頃の俺には、ただひたむきに駆け抜ける彼女の姿が眩しく見えていた。
 ひとりになってからは自然とミョウジとの時間が増え、しなやかなばかりだと思っていた彼女の弱さに触れた。ひとりで踏ん張ってなんとか耐えようとするくらいなら俺を頼ってほしい。他の誰かではなく、俺を。たぶん、はじまりはその時だ。
 火がつけば噴き上がる花火のような恋を元カノとしていた一方で、ミョウジはキャンドルのようにそっと隣で炎を揺らし続けていた。派手な炎が少しの余韻を残して消え、ようやく小さな灯りに照らされていたと気づく。そんな感じだと思う。

 しかし、気づいた今となってはライバルと言えそうな存在がいる状況だ。時間をかけてしまった分出遅れている気がする。こと恋愛に関してはそこそこ上手くやってきたという自負があるのに、今回はあまり自信が持てなかった。
 華金だと言うのにパッとしない。さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。そう思ってベッドに潜り込んだはいいが、瞼の裏にミョウジの寝顔がチラついて寝つけそうにない。あれはまだ俺が前の恋の残り滓に吹かれていた頃だった。あの時ミョウジを好きだと思っていたら、今頃はどうなっていたのか。女々しいタラレバにまとわりつかれて、眠りに沈めたのはしばらく経ってからだった。

 年内に終わらせたい業務をこなしている間に、師走は文字通り走り抜けようとしている。今日のタスクを終わらせる頃には残っているのは佐藤と俺の二人だけになっていた。もう帰るぞと声をかけると佐藤も切り上げてパソコンを閉じる。いつかの宣言通りミョウジを先に帰して仕事をこなしていたらしい。大したもんだ。
 週明けから佐藤とミョウジの様子を気にしていた。俺には今まで通りにしか見えないが、これまでだって彼らはそれなりに親密だった。二人の間にもし何かあったなら、悔しいが身を引かねばならない。

「賞与でたじゃないですか。ナマエさんにご馳走してきたんです」

 電車の到着を告げるアナウンスにかき消されそうになりつつも、佐藤の口が確かにその形に動いた。オフィスを出た辺りから何か喋りたそうにはしていたが、気にしていた事が当事者から飛び出て驚く。佐藤がどういう心情までかは読めないが、あくまで平常心を装いつつ探りを入れる。

「へぇ、やるじゃん。どうだった?」
「張り切っていい店にしたら緊張して。恋バナとか、よくわかんない話しちゃいました」
「なんだそれ」
「周りカップルばっかりなのに、ウケますよね」

 ホームドアにピッタリと停止した電車に乗り込み、並んで吊革に捕まる。電車が発車すると同時に佐藤が中断した話を再開させた。身体の前に抱えたリュックのキーホルダーを所在なさげに弄っている。

「片想い仲間だって分かったんですけど、ナマエさんの方が一歩リードですね」
「ミョウジの方はいい感じっつーこと?」

 彼女が彼氏と別れたと何かの折に聞いたのは、確か半年ほど前だった。本人からの言及はなかったが、それからいい人に出会って関係もいくらか進展しているのだろうか。だったら残念ながら俺は邪魔者だ。

「聞いた感じそうですね。『家に泊まったけど何もなかった』って落ち込んでましたけど」

 落胆を表に出さないように飲み込んだため息が、肺を巡って小さな鼓動に変わる。ミョウジを落ち込ませたその事件には俺も身に覚えがあった。アイツはそう何度も同じことをするような人間じゃないだろう。言葉を飲み込むほどに鼓動は段々と大きくなって、ひとつ打つ度に指先まで轍が広がっていくようだった。

「俺はダメそうなんで当面は仕事できる男を目指します」
「それは心配ねぇな。今のところ順調だろ」
「本当ですか?仕事できてモテる男になれますかね」
「動機が不純なんだよ」

 電車に揺られた佐藤から、しょぼくれとあっけらかんの二つを響かせて乾いた笑いが転がり落ちた。茶化しはしたが、コイツがそんな男になる日もそう遠くはなさそうだ。その日になっても負てやる気は全くないが。
 佐藤が降車し繕う必要もなくなってから、ミョウジとの事をゆっくりと反芻する。自惚れかもしれない。でも、鮮やかに塗り変わっていく記憶が確信めいたものを押し付けてくる。負け戦を認めつつあったが、この確信が思い違いじゃなければ勝算はある。ただ急いだ方が良さそうだ。チンラタしていたらきっと逃してしまう。

 最寄駅の改札を出るとしんと静かな風が囁くように頬を刺す。硝子のように澄み渡った空気は丸裸にされそうなほどに冷え切っていたが、心を決めた今はそれが心地よかった。





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