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 ガタンと電車が大きく揺れる。隣でスマホをいじっていた女性がよろめいたのにヒヤリとして、指先に引っ掛けていた紙袋を体のほうへと寄せた。紙袋の中にぴったり納まった真っ白な箱に視線を送るが、超能力者でもないのでその中の様子をうかがい知ることはできない。店員に「電車に乗るんです」と伝えたからきっと大丈夫だと思うが、繊細なものを持ち運んでいるのだから、無事に持ち帰れるのか不安でならない。わざわざ途中下車して赴いたデパ地下で購入したショートケーキとザッハトルテ。二色のか弱い三角の角を削らず家に連れて帰れるかは、私の指先にかかっているのだ。
 綿のように軽いひな鳥を抱えて雨の中を走るような、そんな帰り道だ。なぜこんなことになっているかと言うと、話は今日の昼休みまで遡る。デスクでコンビニのおにぎりを頬張りつつ、何気なく開いたメッセージアプリのホーム画面。そこに表示された「今日が誕生日の友達」のリストには、同居人の名前があったのだ。
 三ツ谷の誕生日を覚えていたかと言えば、先に述べたからわかるだろうけどそうじゃない。ただなんとなく六月だというのは覚えていて、そのあたりに飲みに行けば「誕生日だったよね、確か」って具合に奢ってみたり、そんな感じだ。それは三ツ谷も同じで、その日のために何かを準備するなんてしたことがない。そういうのは恋人とか家族の役割で、私たちみたいなのは「そういえば」で一杯奢るくらいがちょうどいいのだ。
 だけど、今回については今までと状況が違う。生活の色々な部分を共有しておいて何もしないのは、なんともばつが悪い。何もしなかったところで三ツ谷が文句を言うとは思えない。だけど、彼が誕生日だと気づいてしまった時点で、私自身の気持ちのおさまりが悪いのだ。それに、あの日居酒屋で元気づけてもらった恩もある。モノでは行き過ぎかもしれないけど、ケーキくらいなら。そう思って、大きな百貨店のある駅で途中下車したのだ。
 ただカットケーキをふたつ買うだけなのに、思いのほか時間がかかってしまった。ショーケースに並べられたとりどりのケーキはどれもこれもおめかししているから、何か特別なものに見えた。それになんだか気おくれしてしまって、スイーツのエリアをうろうろとさまよい、シンプルな定番のケーキを選んで退散した。それが一番、過不足がないだろう。と、思う。
 駅が近づいて電車が減速する。慣性が働いてバランスを崩しそうになるが、ぐっと踏ん張って耐えた。何かぼんやりと緊張して心もとないのは、この箱の中身が頼りなさ過ぎるせいだ。




 日々の大半がそうであるように、私が夕飯を食べ終わっても三ツ谷は帰ってこなかった。というか、もしかしたらいつもより帰りは遅いかもしれない。なんといっても今日は三ツ谷の誕生日なのだ。人望の厚い彼のことだし、今頃どこかで祝われているのかもしれない。そんなことにも思い至らずケーキを買ってきて、いつ帰ってくるのかとそわそわしたのが恥ずかしい。何時ごろ帰ってくるのか連絡してみようかとも思ったけど、やめておいてよかった。今までしたことないのに、今日に限ってそんなこと。どう考えても不自然だ。
 それに、どうしても今日じゃなきゃいけないなんてことはない。「本日中にお召し上がりください」とは言われたけど、冷蔵庫に入れておけば多少風味は落ても体に害はないだろう。誕生日の当日に食べるっていうイベントが消えるだけだ。肝心の主役は今頃どこかで真白な甘いのを頬張っているかもしれない。だったら私からのケーキなんて余計だ。いい歳した大人が一日に摂取できる甘味の量は、悲しいことにそう多くはない。それにもう、こんな時間だし。
 そんな結論に至り、待つのはやめて寝支度をすることにした。ひとりの間ならゆったり湯舟にも浸かれる。水道代を気にしてあまり使うことのなかった浴槽に湯を張って、ついでに入浴剤まで入れて堪能した。小さな橙は湯船の中でしゅわしゅわと溶けていく。そこに、自分勝手ながら感じていたつまらない気持ちをのせた。
 お湯から上がってタオルドライした髪にオイルをなじませてドライヤーをかけていると、玄関ドアの開く音がした。物音で浴室に私がいるのに気付いているのだろう。足音が通り過ぎる間に「ただいまー」とドアの向こうから声をかけられて少し焦る。冷蔵庫の中の真っ白な箱は一目でその中身が何か分かる。三ツ谷に見つかるのが気恥ずかしくて、ドライヤーもそこそこに浴室を出た。


「おかえり」
「おう。風呂もういいん?」

   三ツ谷は私に気を遣ったのか、キッチンのシンクで手を洗っていた。袖をまくった腕についていた時計は外されて、シンク横に無造作に転がっている。この黒いシャツ。着ているところをよく見るけど、最近おろしたみたいだし、お気に入りなのかもしれない。
 三ツ谷の様子を伺う。見た感じお酒が入っているようには見えない。飲んでもあまり顔に出ないほうだけど、なんとなく違う気がした。手を洗い終えると「なに」といぶかし気な視線を返してくる。話しかけるでもなく見つめていたから、居心地が悪かったのだろう。はっとして、自然な導入の言葉を探す。

「今日、どっかで食べてきたりした?遅かったけど」
「食ったよ。仕事しながらだけど」

 それを聞いて少しほっとした。いや、さっさと本題を話してしまえばいいのに、どうしてこうも無駄な探りを入れてしまうのだろうか。「誕生日だからケーキ買ったんだよ」って、それだけなのに。この生活を始めて以来、距離感を間違えないかと時たま心配になるのだ。今までそんなことなかったのに。物理的な距離感が近づいたからかもしれない。
 私がこんなことで足踏みをしている一方、決定的なところを話せていないのは三ツ谷も気づいているようで、完全にこちらの話を聞く態勢になっている。視線は明らかに「で、本題は?」と訴えかけているのだ。クリップでまとめた半乾きの髪が、少し重くて煩わしい。

「ケーキ買ってきたんだけど。……三ツ谷、誕生日じゃん」

 口にしてみるとやっぱり気恥ずかしくて、フイと目をそらしてしまった。視界の端では最初ぽかんとしていた三ツ谷が、じわじわと口角を上げていくのが分かる。いやだコレ。絶対面白がられるじゃん。

「オレの誕生日覚えてたんだ」
「LINE見てたら出てきたの。それまで忘れてた」
「で、気づいてケーキ買ってきたんだ?」
「……」

 完全にからかいモードになっている三ツ谷に、ちょっとムカっとする。でも言ってることは間違っていないから、こちらも目線で訴えてやる。すると「分かった分かった。悪かったって」と両手を挙げた。降参するみたいなポーズは、これはこれであしらわれているようで腹が立つ。が、今日は三ツ谷のめでたい日なので飲み込むことにした。

「冷蔵庫に入ってんの?」
「うん。二段目の」

 ケーキ箱はいとも簡単に見つかってしまった。もしかしたら勝手に見つけてもらった方が、こんな居心地悪い思いをしなくて済んだのかもしれない。後の祭りだし、思いのほか三ツ谷が嬉しそうだから、もういいんだけど。
 三ツ谷はそっとケーキ箱を取り出し調理台に置く。消費期限のスタンプが押されたシールをはがして箱を開けると、「おー」と感嘆の声を上げていた。箱の中のケーキ達は、私が体をはったおかげでかわいいままだ。

「どっち食いてーの?」
「私が選ぶの変じゃない?」
「名前が食いたいやつなのかと思った」
「オタンジョウビの人が好きかもしれないヤツ選びました」

 とは言ったが、無難そうで味の違うのを選んだってだけだ。だけど三ツ谷は上機嫌で、ケーキのチョイスも買ってきたこと自体も間違っていなかったのだと、内心ほっとした。よく考えたら、いやよく考えなくても大したことはでないのだし、私は余計なことを考えすぎていたのかもしれない。別に、今までだってゆるくはお祝いしてたんだから。

「じゃあコッチ」
「ん。持ってくから座ってて」

 三ツ谷にご指名されたザッハトルテを三ツ谷の皿に、もう一方を私の皿にのせる。お互いがお互いの家から持ち寄ったものだから、デザインも大きさも違う。この不揃いな感じが私たちの生活っぽくて、私は結構気に入っている。
 ソファに座った三ツ谷を追いかけて、ローテーブルの上に皿を置く。そのまま床に腰を下ろしたら、「座りゃいいのに」と不思議そうな顔をされてしまった。確かに、私だけ床に座っているのも変な気がして、勧められるままその横に腰を下ろした。ちょっとコンパクトに見えるからと今まで遠慮していたけど、座ってみると大人ふたりで座るにはすこし窮屈に感じる。私用にスツールでも買おうかなと考えつつ、デザートフォークを手渡した。側面を覆うセロファンを外したら、後はひとすくいして頬張るだけだ。口に広がる甘さに「おいしい」と漏らすと、同時に「うめー」と三ツ谷の声が重なって、少し笑う。

「ありがとな」
「ん。おめでとう」

そう取り交わしたのは、二口目のフォークを突き立てる前だった。
あっという間にぺろりと平らげて、ささやかな誕生祝が終わる。「早く帰ればよかったな」と呟いた声が、皿洗いのノイズと混ざって聞こえた。

(2023.12.24: Written by Sarako)





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