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 玄関ドアを開けると当然のように真っ暗の廊下。雑に脱いだ靴を爪先で隅の方に押しやりながら行儀が悪いと思いつつ、まぁどうせ誰も見ていやしないのだしと思う。なんとなく、なんとなくだけど玄関の半分から左が三ツ谷、右が私という縄張りが出来つつある。示し合わせた訳ではないのに、いつの間にかそんな風になっていた。
 暗いリビングに入ると空気がシン、としていた。この部屋に帰ってくるのは大概が自分の方が早いので、特に変わり映えのしないいつも通りの様子である。この空間に住んでいるのが自分だけじゃないという気持ちがそうさせるのか、それが少しだけ寂しいようなつまらないような気分にいつもなる。だけど、今日ばかりは同居人と帰宅時間が合わない関係で良かったと思った。
 肩に掛けていた通勤用のトートバッグを投げ捨てるようにソファに放り投げる。投げやりな態度に反応するかのようにソファの背もたれにぶつかったバッグから中身が散らばった。運悪く化粧ポーチの口が開いていたらしく、静かな空間に硬く鋭い音が鳴り響いて色々な物が床に転がって舌打ちしそうになる。発売日だからと仕事終わりにわざわざ買いに行った限定のリップ。足元に横たわるそれはなんだか随分色褪せて見えて、全くときめかない。

「あー…」

 発する意思が無く、漏れ出た空気のような声が薄暗くて空気が滞留した部屋に溶ける。仕事でミスをした。自分で処理出来ない程のミス。当然ながらもう新人では無いので助けを求める事も庇ってもらう事も出来なかった。けれども、自分だけで責任を取れる訳でもない。責めない代わりに慰める事もしない上司にひたすら頭を下げ続ける事しか出来なくて、これ程自己嫌悪に陥ったことは今までに無かった気がする。それ自体はなんとか収まりそうで安心したものの、退勤後も気分が晴れることは無く、両足に鉛の足枷でも付けられた囚人のような気分だ。
 テレビに向かい合う形で設置されたソファ。元は三ツ谷の部屋からやってきた物だ。ミッドセンチュリーな雰囲気が漂う革張りのそれは二人掛けの割にややコンパクトな気がして、三ツ谷が腰を降ろしている時はなんとなく遠慮してしまう。物理的に近すぎる気がして。だから、私がこのソファに座らせて頂くのは三ツ谷が居ない時だけだ。
 ソファの前にペタンと座り込んで座面に頭をのせると、程よく硬く冷たいレザーの質感が心地いい。そうしてると少しだけ冷静になれる気がする。だけど冷静になればなる程、今日の自分の失態が許せなくなる。あの時確認していれば。もう少し早く取り掛かっていたら。今更考えても仕方のないたらればが永遠に湧き出てくる。そうやって考え続けていると、私って今の仕事に向いてないのかな、などと思えてきてしまう。あれしきの仕事が満足にこなせない私って、ダメな社会人。社会に出て働いている資格無い。
 あまり、物事に動じないタイプだと自負している。だけど、一旦落ち込むととことん、海底程まで沈んでしまう事がある。そうなった時の復活方法を私は自分でよく分かっていない。今日が金曜日で良かった。明日、平気な顔で仕事に行ける自信が無かったから。

 お腹は空いている気もするけれど、食べたくない。矛盾した気持ちでおでこの辺りからソファにズブズブ沈み込んで消えてしまえればいい、と思っていると、パッと急に辺りが明るくなって目が眩む。

「……何してんの?」

 ゆっくり顔を上げると、リビングの入り口で電気のスイッチプレートに手を掛けた状態でフリーズした三ツ谷が不審そうな表情でこちらを眺めていた。急に明るくなった視界がチカチカとして目頭の辺りに痛みを感じながら、突然の三ツ谷の登場に驚いて声も出ない。玄関が開いた音は聞こえなかった。それに、あまりにもラフな休日のような恰好をしているところを見ると、今帰って来たとは思えない。

「え…?三ツ谷、仕事は?」
「今日休みだったんだよ。先週ずっと働いてたし」

 私の質問に答えながら床に散らばったポーチの中身を見降ろして「え、マジで何…?」と恐々と、聞くとも呟きとも言えない小声で零した。スウェットのパンツにセットされていないペタンとした髪は少し変な癖が付いている。多分、今まで寝ていたのだろう。自室にこもって寝ていた為に三ツ谷の気配に気付かなかったようだった。

「…ごめん、バッグ置いた時に中身出ちゃって」
「随分暴れん坊じゃん、お姉さん」
「ん、ちょっとムシャクシャしてた」

 キッチンの中の冷蔵庫を開けながら問うてくる三ツ谷に当たり障りなく答えて床に転がったコスメをバッグの中に戻す。いつもみたいな感じで三ツ谷と話せる気がしない。多分、今私すごく酷い顔をしていると思う。

「…もう夕飯時だけど、なんか食った?」
「食べてない」
「腹減ってねーの?」

 キッチン付近まで転がっていってしまったらしい薬用のリップを手にした三ツ谷がすぐ傍まできてしゃがみ込む。同じ目線になった三ツ谷と嫌でも視線が絡む。

「……すぐ出れんの?」
「…へ?」
「近くに飲み屋あったじゃん。そこ行こーぜ」
「パチンコ屋の傍の?」
「そーそー」

 手の中に色気の無い、薬局で売ってる二個セットのリップクリームがコロンと戻って来る。私の返事を待つことなく、三ツ谷は立ち上がると自室に引っ込んで行った。なんか、最近も似たような光景を見た気がする。あぁ、少し前に銭湯行った時だ、と思う。
 スウェットから緩いシルエットのデニムに履き替えてきた三ツ谷が財布とスマホのみ手に持ってリビングに顔を覗かせる。私は、外から帰って来たばかりだから特に何も準備するものはない。中身がぐちゃぐちゃになったバッグを手に取ろうとすると、三ツ谷が「いーよ手ぶらで。早く」と急かす。

「まって財布」
「だからいーって。最近の家の食費ほとんどお前出してんじゃん」

 手ぶらでいい。私にそう言いながら三ツ谷の手には財布がある。故に奢ってくれるということらしい。食費の事に関してはそう言われたら、まぁ、確かに。近所にご飯を食べに行くって事も最近はあまりなくて、適当に家で済ませることが殆どだった。それは三ツ谷も同じらしく、私が買って来て冷蔵庫に納めている何かが翌日には消えていたりして、だけどまぁ今のところそれに目くじら立てる程のことも無い。家賃、光熱、食費。諸々、色々合わせて考えて、なんとなく折半されていると思っているし。
 玄関でスニーカーに足を突っ込む三ツ谷の後頭部を眺めながら「寝ぐせ付いてるよ」と言うと「いいよ、すぐそこにメシ食いに行くだけだし」と言って跳ねた髪を撫でつけた。



 カウンターしか空いていないというので奥まったカウンター席に横並びで座る。先だって席に着いた三ツ谷が「やっぱお前こっち座れよ」と私を奥に追いやった。隅っこの方が落ち着くしありがたい。金曜日の夜だからか、店は賑わっていて、だけど殆ど仕事帰りのサラリーマンの男の人だった。確かに女の子がグループでやってくるようなお洒落な店構えでは無い。古き良き、大衆居酒屋って感じ。

「何食いたい?つか飲むよな?」
「うん。…あ、チャンジャとクリームチーズのやつ」
「あと適当に頼んでいいの?」
「うん」
「すいませーん」

 テキパキとメニューの中からいくつかオーダーすると、数分もしない内にお通しと生ビールのジョッキ、私が頼んだチャンジャクリームチーズがやって来る。
 「じゃーはい、乾杯」と小さくジョッキをぶつけてさっさと口を付ける三ツ谷につられるようにひと口。食道を降りていくジワジワとしたアルコールの感じ。今日はこのまま酔っぱらったら、なんだか具合が悪くなりそうな気がする。「あのね…」とここに連れてくる間にもきっと私の様子に何かしら気付いているに違いない三ツ谷に向かって、話を切り出そうとしたところに「失礼しまーす、お待たせしましたぁ」と今度は湯気の上がるモツ煮が運ばれてくる。遮られたそれを気にする様子もなく、三ツ谷が「おー、めっちゃ美味そう」と箸を伸ばしている。

「…」
「ナマエ」
「ん、?」
「取り敢えず食えば?」
「…うん」

 三ツ谷に促されて味の沁みてそうな大根を口に運ぶ。熱すぎて少し火傷した。生理的な涙が出るのを感じながら出汁の味を感じていると「泣いてんじゃん」と三ツ谷が笑いながらビールを煽る。

「人泣いてんのアテにするのやめてくれる?」
「絶対に火傷すんのにって思ってた」
「ちょっと」

 三ツ谷の二の腕辺りを叩く。ぺちんと間抜けな音が響くけれど、店内は賑やかしい男の人の喋り声が大きくてお互いの声も少し顔を近づけないと聴き取りづらい。然程痛くも無さそうに「いって」と呟いたのを三ツ谷の口元だけで読み取る。
 そんな三ツ谷の横顔を見て、思い出した。私、前にもこんなことがあった。あれはもう何年前かもハッキリ覚えていないくらいにはかなり前。人事異動で部署が変わった時に、職場に上手く馴染めなくて悩んだ時期があった。その時も、確か同じように三ツ谷の奢りでこうして横並びでご飯を食べた気がする。間違いなくあの時、今みたいな状態の私を引き摺り上げてくれたのは三ツ谷だった。

「三ツ谷、」
「ん?」
「…ありがと」
「って、…あ、大丈夫っス」

 私と反対隣りのお客さんがぶつかったらしい。小声で「入った時から酔っぱらってたから絶対こうなりそうな気がした」と苦笑いして少しだけこちらに椅子を寄せた。「ごめん、なんか言ったよな?」と聞き直す三ツ谷に、もう一度それを言うのが気恥ずかしくて「何もない」と答えた。

(2023.12.10: Written by Shiigi)





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