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 清々しい。新しい生活が故にそう思うのかもしれない。以前は、ついひと月程前まではあまりそういう風に感じることは無かった。休みの日に早く起きるのは今も苦手ではあるけれど、こんな風に眺めの良いベランダで淹れたてのコーヒーを啜るのも良いものだと思ってみる。ハッシュタグ丁寧な暮らし。洗面所の方からは規則的なモーターの回る音が響いている。
 どうやら仕事に出掛けたらしい三ツ谷が夜まで帰って来ないのは、約一ヶ月、共に生活してみて心得ている事だ。お互いに仕事終わりに待ち合わせるのも決して早い時間では無かったから、三ツ谷の仕事の大体の終わり時間は把握しているつもりだ。
 恋人や家族では無い異性と同居する中で少しだけ不便だと感じている洗濯物をここぞとばかりに洗濯機に突っ込んだ。Tシャツや靴下くらいなら三ツ谷の洗濯物に紛れようが見られようがそう大して何も気にはならないと思うけれど、下着ばかりは迂闊にそんな事が起こってはいけない。これは先日、三ツ谷本人にも釘を刺されているので、ある意味この家でのルールのようなものだ。今洗って浴室乾燥機で乾かしてしまえば夕方には完璧に乾いている筈だ。
 眼下を走っていく車のナンバーをぼんやりと目で追いかける。このマンションが建つ場所は少しだけ高台のようになっている。そのおかげでよく晴れた日はベランダからの眺めが良くて、心地の良い風が入ってくる。これは引っ越して数日した時に、三ツ谷が教えてくれたことだ。前の家は隣家との距離が近かったので窓を開ける習慣があまり無かった。内見に来た時もここからの眺めの良さには勿論気が付いていたけれど、こんな風に部屋に風を取り込むと不思議と穏やかな気持ちになる。あれこれと天秤にかけて決めたこの部屋での生活であるが、住んでみて初めて気付いたこの時間と空気が案外、いちばん気に入っているかもしれない。それを今のところ三ツ谷に言うタイミングは訪れていないのだけれど。
 1人分の豆の量がよく分からなくて挽き過ぎたらしい。時間が経ってやや苦味と酸味が増したコーヒーを喉の奥に流し込んでベランダから部屋の中へと戻る。入り込んだ風に冷やされたフローリングの床。掃除は気付いた方がやる。そんな曖昧な決め事ちゃんと守れるだろうかと思っていたけれど、案外部屋が私をその気にさせる。掃除機をかけて、ついでに三ツ谷の部屋から一緒に引っ越してきた観葉植物に霧吹きで水までやってみる。ワンシーズン越せずに枯らしてしまう事が常の自分の生活にこんな緑があるのも気分を高揚させる素材のひとつである。きっと1人では叶わなかった生活。今のところ三ツ谷とのこのルームシェアに不満は無い。私にとってはこの選択は間違っていなかったと思う。



 玄関ドアが開く音がして、ガサガサとビニール袋が鳴る音がする。あ、と思った数秒後にはリビングのドアが開いて「おう」とただいまの代わりに三ツ谷が短く言った。

「おかえり。意外と早かったね」
「なんか思ったよりさっさと片付いた。メシ作ってんの当てにして帰ってきたわ」
「冴えてるね。量産してたところだから三ツ谷の分もあるよ」

 先程から淡々と繰り返している手元のそれをひょいっと持ち上げて見せると「餃子?」と声を上げる三ツ谷に口元が緩む。食事のタイミングが合えば、と言いこそしたけれど、正直同じ部屋に暮らしていても案外そのタイミングが被ることは珍しい。家賃を折半しているだけの同居人という立ち位置で一体どこまで相手の生活のリズムに足を踏み込んでいいのか、そのラインを読むのは存外難しい。『今日何時に帰ってくるの?』なんていう何気ない質問も、受け取る側がどんな印象を持つのか分からない。こんな生活案を持ち掛けてきた三ツ谷に限って、とは思うけれど、友人であってもそういうのが鬱陶しいと感じるかどうかは分からないし。

「イエス」
「意外と器用じゃん。この辺りから急成長が窺える」
「味は全部変わんないってば」

 餡を皮で包むという、テレビなんかで見ていると一見簡単そうなそれは実はコツが必要だし、餡は入れ過ぎると綺麗に包めない。使い慣れた我が家の大きな平皿に並べられた餃子は、最初の方の出来はお世辞にも綺麗とは言い難く、果たして上手く焼けるのか怪しい。

「お前上手く焼けんの?」
「フライパンだと焦がす自信しかない」
「ドヤ顔やめろ。ホットプレート持ってんだ」
「私は無いよ。三ツ谷持ってると思ってた」
「一人暮らしの男がそんなモン持ってると思ってた訳?」

 まあ、よくよく考えればそうなのだけれども、私より幾分かは家事レベルの高い三ツ谷のことだ。たこ焼き器を持っているとまでは思わないまでもちょっとだけ期待した。

「あんなミシン持ってるくらいだからホットプレートくらい持ってると思ってたよ」
「…おっしゃ、分かった。焼くのは任せろ」

 帰ってきたまま、ジャケットだけ脱いでソファに投げると三ツ谷は颯爽と腕捲りをして手を洗う。フライパンに私が包んだ餃子を順番に等間隔に並べていく三ツ谷の手元を横目に見ながら「油引かなくていいの?」とつい口を出してしまう。三ツ谷は得意げに「まぁ見とけって」と口角を持ち上げてフライパンを火にかける。電気ケトルに沸かしておいたお湯を入れて蒸し焼きにするらしい。想像以上にダイナミックにお湯を回し掛けるものだから水餃子になってしまわないかと横で見ていて少しハラハラしてしまう。しばらくしてフライパンの中からカツカツと良い音が鳴り出す。蓋を持ち上げて蒸気と共に立ち昇る香りが換気扇に吸い込まれていく。「こんなもんかな」と呟いた三ツ谷が蒸し焼きになった餃子に胡麻油を回し掛けると、途端に派手な音が立つ。

「凄い。お店のやつみたい」
「さっきビール買ってきたから出してよ。冷蔵庫に入れた」

 何時に帰ってくるのかハッキリとは読めなかったし、事前に連絡はしていないのに三ツ谷はまるで今日コレがある事を予測していたかのようだ。冷蔵庫の中にコンビニのビニール袋ごと突っ込まれた缶ビール2本。「これ私もいいんだよね?」と取り出しながら問うと「お前たまに図々しいよなー、別にいいけどさ」と機嫌良さげに声を上げて三ツ谷が笑う。
 フライパンからスルリとお皿に移された餃子はカリッと香ばしそうに焼けていて、任せろと三ツ谷が豪語するだけはある。冷たい缶ビールを同じタイミングで開けて、ポコンと間抜けな音で乾杯する。

「…味どう?」
「んー、うんめえ…」

 ひと口で頬張った餃子が思った以上に熱かったらしい三ツ谷が口元を抑える。よく焼けた色のソレに同じように齧り付くと、手作りっぽい素朴な味がした。それでも自分でタネから混ぜて包んだ餃子はなかなかに美味しい。追いかけるように流し込んだビールの冷たさと苦味も労働の後は格別だ。作りやすい分量で作ったらかなりの量の餡が出来てしまったので、皮で包む作業はなかなかに大変だったのだ。

「そういや今日、月がめちゃくちゃデカかったんだよ」
「へえ、なんとかムーンとかなのかな」
「知らねえけど。天気もいいし、丁度いいじゃん」

 餃子の乗った皿とビールを持った三ツ谷がベランダと繋がるカーテンを引いて、ガラス戸も開け放つ。透き通った空気が流れ込む。寒くは無い。引っ越してきたばかりの頃はまだ肌寒かったのに。一年で1番、気候が良い頃かもしれない。見上げた夜空には雲が無く、普段よりも大きな月がぽっかりと浮かんでいる。

「確かにおっきいね。落ちそう」
「春に月見ってのも結構オツだろ?」

 午前中、私が磨き上げたフローリングの床に三ツ谷が腰を下ろして胡座をかく。外を眺めながら缶ビールを傾ける三ツ谷を見て、餃子のお皿を挟んで隣に腰を下ろしながら「なんだかさぁ」と呟く。

「なんてゆーか、歳だよねえ。私も三ツ谷も」
「あ?なんだよ急に」
「こーゆーの、なんかいいなって思うのが」

 多分、八年か九年。三ツ谷と知り合ってから経った年月。そりゃあ年もとるというものだ。出会った頃って、何と言うか三ツ谷ってもっとギラギラしていた。知り合った場所が合コンなのだから、まあ第一印象がギラギラしていると感じてもなんらおかしくは無かったけれど、三ツ谷に関してはそういうのでは無く。今から三ツ谷と出会う人間はまさかコイツが元不良だと分かるものなのだろうか。私からしてみれば、あの頃の鋭さは鳴りを顰めて、すっかり大人の男の人って感じになってしまったよなあ、なんて俯瞰で見るとそう思う。
 気付かない内に、一般平均よりはやや整った顔立ちをしている三ツ谷の顔をまじまじと見つめてしまっていたらしく「…なんだよ」と少し嫌そうに顔を顰める。こういう何の遠慮も無い感情を見せ合える関係性でなければ、やっぱり一緒に住むなんて事が出来るはずも無いと思う。
 ビールが空になる頃、「追加、焼く?」と缶を凹ませながら呟く三ツ谷に「いいね」と返す。空の缶と皿を持って立ち上がった三ツ谷が「の前にトイレ」とリビングを出て行く背中を見送ると同時に、未だ浴室に干したままの洗濯物の存在を思い出す。

(2023.11.14: Written by Shiigi)





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