自分の部屋から段ボールや細々した物を突っ込んでいた紙袋をまとめて捨てたら、引っ越してきて丁度ひと月経っていた。学生時代に上京してから、引っ越しは何度かしてきたけれど毎回骨が折れる。きっと私一人であったなら、まだあの2LDKの部屋は引っ越し用段ボールだらけに違いない。
 土曜日の午前九時過ぎ。朝食には若干遅く、昼には程遠い。仕事が休みの日は目が覚めると昼前である事が多いので、基本的に土日は朝ごはんなんて食べない。たまに早く起きると随分と有意義な一日になる予感がしてしまう。
 徒歩数分の場所にあるコンビニから家に戻った時、玄関先にあった三ツ谷のスニーカーが無くなっている事に気付いた。どうやらこの十五分やそこらの間に、三ツ谷は出勤してしまったらしい。

「折角二人分買ってきたのに」

 思わず口から出た言葉は少し不貞腐れてしまったが、よくよく考えれば私は三ツ谷がいつも何時に家を出ているのか正確には把握していなかった。平日は基本的に私の方が先に家から出る。単純に私の職場の方が通勤に時間がかかるからだ。三ツ谷の職場がどの辺にあるか、それもだいぶアバウトにしか知らないのだけれど、フリーランスのデザイナーなんて勤務時間もある程度自由なのだろうと勝手に思っていたので、なんだか少し拍子抜けである。
 「まぁお昼に食べればいいか」と張り切って買ってきた三ツ谷の分のサンドイッチとカフェラテを冷蔵庫にしまう。長年、自分の部屋で使っていた冷蔵庫が左開きだったので、未だに逆から開くドアに慣れない。元々、三ツ谷の部屋で使われていたこの冷蔵庫の方が若干大きくて新しいからという理由で、この部屋に導入されたのだった。そうやってそれぞれの部屋から持ってきた物、手放した物のお陰で、キッチンスペースは一人の時よりも少々賑やかしく、新鮮な感じだ。

 ◇

「ちょっと待って、何これ?」
「何って…ミシンだけど」

 同じ時間にそれぞれの荷物が運び込まれると大変な事になると予想して、配送時間をずらした訳だが。先に到着した三ツ谷の荷物を載せたトラックの中から次々部屋に運び込まれてくる家具家電。アパレルのデザイナーをやっているのである程度物量が多いであろう事は予想していたけれども、どう考えても一般家庭にある筈がない重機がやって来るのは想定外だった。

「私が知ってるミシンって、なんかこれっくらいの手で運べる感じのやつだと思ってたんですけど…」
「お前の言ってるそれ家庭用だろ。これ工業用な。前の会社で要らなくなったやつ貰ったんだよ」
「ここ一応一般住宅だけども?」
「使い勝手が違うんだよ」

 まぁ仕事道具であれば当然、三ツ谷の部屋に設置されるのだろうし、「お前の部屋とはちゃんと離れた場所に置くし、響かないようにすっからさ」と言っているのでよしとする他ない。こんなデカい物を引っ越し屋のお兄さんに持たせながらやいのやいのと議論するのは申し訳ないし、そもそもそれぞれの荷物に文句をつけるような間柄では無い。私達は兄弟でも恋人でも無く、この部屋を共有する同居人でしか無いのだから。
 午後から私の分の荷物(三ツ谷の物量に比べたら半分程度)も無事に何とか運び終え、合間に電気の開通手続きも済ませられたので初日としてはまあまあ順調だったと言えよう。後は元の部屋の退却手続きに立ち会わなければいけないけれど、それはまた後日なので今日のところはここまで。仮置きで設置されたダイニングテーブルに突っ伏すとどっと一日の疲れが肩と背中に伸し掛かる。全て一人でこなすよりは協力体制で挑んだ今回の引っ越しの方が遥かに楽であった筈なのに、なんだか別の何かに疲れている気がする。取り敢えずひとつの原因は、私の荷物を運んでくれた引越し業者のおじちゃんがやたらと三ツ谷の事を「カッコいい彼氏だな!」と弄り倒していた事に違いない。三ツ谷も私も苦笑いでスルーしていたのは、否定すればどういう関係か訊かれそうな勢いがあったからだ。あの時の私達は間違いなく気持ちはひとつであった。
 向かいのイスを引いてドカリと腰を下ろした三ツ谷が「腹減ったな…」と呟いた。確かに朝からバタバタでお互い満足に食事をしていない。何か作ろうにもまだ調理器具は段ボールの中だ。鍋やポットくらい出せばいいのだけれど、それすらも億劫に思うくらいちょっと疲れ過ぎている。

「…駅の近くにラーメン屋あったよね」
「あー、暖簾出てたかも。鶏白湯?」
「多分それ」

 最寄駅付近にあった店を記憶の中から探り、地図アプリと店の評価をチェックする為に三ツ谷とスマホの画面を覗き込む。今まで三ツ谷と飲みに出掛ける時は、大抵お互いの職場の中間地点とかだった。単に平日の夕方思い立って連絡する事が多いからだ。ごく狭い界隈の色んな店を飲み歩きないし食事に行ったけれど、今このアプリの中に無数に立つ飲食店の旗は多分、殆ど知らない所ばかりだ。

「取り敢えず、腹減ったし行こーぜ。他良いとこあったら入ればいいし」

 受け取ったばかりの新居の鍵をさっそくどこに置いたか分からなくなり探すこと五分。ようやく玄関を出て駅前のラーメン屋を目指す。内見の時以来、しっかり眺める景色は新鮮でなんだか足元がふわふわする。春の夜がそうさせるのかもしれない。身体も気持ちも疲れているのに、なんだか浮き足だってしまう。

「お前さ、家の鍵マジで無くすなよ」
「え、それ三ツ谷が言う?さっき鍵持ってたの結局三ツ谷だったじゃん」
「いや俺いつだったか酔っ払ってお前が電車に財布置いてきたの忘れてないからね?」
「いいとこだよね、日本って」

 たまに思い出したように三ツ谷が掘り返してくるネタだが正直私は記憶が無いので仕方がない。まあだけど流石にこれからは自分だけで迷惑が留まる訳でも無いので気を付けなければいけないところではある。だけども、正直今のところ仕事終わりにここまで気を遣わずに話したり食事したり出来る友達って三ツ谷以外に居ないんだよなあ。だからこそ、こんな風にルームシェアなんて思い切った決断を出来たのだろうとも思う。何と言うか、私にとって三ツ谷の存在って唯一無二だ。これが例えば恋愛関係や、三ツ谷が女の子であったとしたら成立しない気がする。何となくだけど。

「なんかさー、一緒に住むにあたってのルールとか要る?」
「例えば?」
「えー…皿洗いどっちがやるとか、お風呂洗うのどっちとか、リビングの掃除当番とか」
「気付いた方がやればいいんじゃねーの?子供じゃないんだし」
「…三ツ谷、私のこと見くびっているね?」
「サボったらお前の部屋、荷物置き場として間借りさせて貰うわ」
「待ってそれは勘弁」

 大人になって、大抵のことは自分でこなせるし助けてもらわなくても生きていける。この歳になってこんな風に友達と過ごす事になるとは思いもしなかった。人生とは全く何が起こるか分からない。
 「ご飯作る当番とか」と付け加えると食い気味で「あのさ、付き合い立ての同棲カップルじゃねえんだからやめてくれよ笑うわ」と返されて二人して腹を抱えて笑った。掃除は気が付いた方が。洗濯は勿論それぞれの物はそれぞれで。料理だけは効率を考えてタイミングが合えば一緒にとることに決めた。
 シンプルな白暖簾が掛かった店の鶏白湯ラーメンは想像以上に普通だった。ひと口啜った後に三ツ谷と交わした視線で自分の味覚が間違いでは無いらしいと安心した。引越しそば代わりに食べたラーメンはだけど、ここ最近の食事で一番満たされた心地がした。

(2023.10.23 : Written by Shiigi)





- ナノ -