開かずの扉を前にして思う。自分で思っていたよりも、私はコイツのことをよく知らないのかもしれない。
 食べ物の好き嫌い、服のサイズ、恋愛遍歴、展覧会はひとりで回りたいこと、映画は誘われなければ見に行かないこと。そんなこまごまとしたことを知っているくせに、今この向こうにいる彼に呼び掛けていいかわからない。付き合いが長いからと言って、その人についてなんでも知っているわけではないのだ。
 つい最近同居人となった彼とは昨晩廊下で顔を合わせたきり、その姿を見ていない。私がベッドの上でまぶたを閉じてからも、しばらくはミシンを踏む音が壁の向こうからかすかに聞こえていて、私はそれを子守歌代わりに眠りに落ちた。
 翌朝目が覚めて、昼食をとって、おやつでも食べようかという頃になっても、相変わらず同居人は閉じこもったままだ。楽しそうに小躍りして鼻歌でも歌えば、「一体何事か」という具合に顔を出すかもしれないけど、あいにくコンビニのお菓子じゃそこまでする気分にはならない。
 迷い迷っているうちに、湯を沸かしてぼこぼこ言っていたケトルがカチッと鳴って、急に静かになる。その無機質で乾いた音が、「何悩んでんの」と私を小突いた。確かに悩む必要なんてなかったかもしれない。声をかけて「いらない」と言われることはあれど、邪見にされることはないはずだ。

「三ツ谷」

 軽く扉をノックして呼びかけてみる。すると、思いのほかスムーズに返事が返ってきて、天岩戸よろしく部屋の内側から封印が破られる。もしかして昨日から寝ていないのではと思ったりもしたが、どうやらそうでもないらしい。セットされていない髪はしなんとして気が抜けているけど、顔つきそのものは想像していたより元気そうだ。なんか、もっと冬眠明けの熊くらいヨレヨレしているかと思った。

「お茶いれるけど、いる?」
「おー、もらうわ」
「じゃあ、座ってて」

 「ワリィな」とは言いつつ、ダイニングテーブルに腰掛けていそいそとアソートになったお菓子の袋を開けている。変に遠慮してこないところが付き合いやすいから、ここまで関係が続いているのだろう。あまり遠慮がないので、もうちょっと女の子扱いしてくれてもいいんじゃないかと思わなくもないが、実際にそんなことされたらきっと居心地が悪い。
 それに、別に優しくされてないというわけでもない。家事を折半どころか率先して、しかも高いクオリティでこなしてくれる。そんなよくできた同居人に、それ以上を求めるのも贅沢ってものだ。そのデキるっぷりを見ていると、確実に生活スキルの劣る私なんかをなぜ同居人に選んだのかと不思議にもなるが、彼にとってはあまり重要なポイントではないのかもしれない。あまりカロリーを消費せずとも、他人の世話を焼ける男なのだ。
 卒がなく、何かと人の世話を焼きがちな、三ツ谷隆という男。ご覧のとおり、この男と私は所謂ルームシェアをしている。彼とは出会ってからもう十年近く仲良くさせてもらっているが、いくら気心知れた仲とはいえ、まさか恋人でもない異性とひとつ屋根の下で暮らすことになるとは思わなかった。
 思わなかったが、いざそうなってみると不思議なもので、この暮らしをすんなりと受け入れることができてしまった。重要なのは男か女かということより、その人そのものということなんだろう。だってすっぴんを見られても、三ツ谷だったらさしてダメージはない。流石に下着とか裸とかはムリだけど。
 そんな「下着と裸以外は見られても大丈夫かもしれない友人兼同居人」こと三ツ谷隆にティーカップを差し出す。すると、「もうこんな時間だったか」と呟いて、チョコレートの包装をびりりと破いた。紅茶の中に時間経過を見るなんて何か優雅な香りがするが、実際のところそうではない。勤め先が勝手に仕事とお金をくれる私と、駆け出しデザイナーなんてキラキラな肩書を持っている彼は違うのだ。

「昨日も頑張ってたね。仕事してた?」
「あー、うるさかった?」
「いや、あんま気になんないから大丈夫」
「そ。ならよかった」

 私が気を遣っているとは微塵も思っていない。ということが、声色と表情からありありと分かる。三ツ谷はこれからも遠慮することなく、存分に子守唄がわりのモーター音を響かせるのだろう。そのうち慣れて、鳴っていることにも気づかなくなりそうだ。相手のことがあまり気にならないというのは、たぶん他人と暮らす上ではそこそこ重要な気がする。世の中のカップルは相手の存在に慣れてしまって、そして別れるのかも知れないけれど。
 三ツ谷は「ノッてると時間忘れんだよなぁ」なんて言いながら、着々と包装袋のゴミを増やしていく。多分、お昼を食べることもそっちのけにしていたのだろう。そんなに集中力が続くのも、ひとつの才能だと思う。ま、なんか知らんが頑張っているようだし、今日の夕飯は用意してあげますか。そう宣言するもふわっとしたお礼しか反応がなく、「ンなことよりさぁ」なんて言われる。せっかく労わってやろうというのに、なんだその態度は。

「お前、いつまで荷解きやってんだよ」
「え、部屋の中みたの?」
「見えたんだよ。早く片付けちまえばいいのに。ジャマだろ」

 いいじゃん私の部屋なんだから。と口から出る前に、テーブルに散らばったゴミと一緒に筋の浮いた手に攫われていった。母親みたいな物言いに思わず反抗したくなったが、段ボールがジャマなのも、理由を付けて先延ばしにしているのも事実なのだ。言い訳したってどうしようもない。それでも友人に指摘されてすぐ頷けるほど、私は素直な女ではない。それは三ツ谷も重々承知していると思うけど。

「そんな言うなら手伝ってよ」
「別にいいけど、じゃあ下着とかはちゃんと隠しとけよ。ダチのとか見たくねぇわ」
「言われなくてもそうするってば」
「マジだから。頼むよ」

 結局、後回しにするとやらなくなるだろと主張する三ツ谷に負けて、その日のうちに部屋を片付けた。三ツ谷はまるで自分の部屋を片付けるみたいにテキパキと手を進め、勝手がわかった頃には収納場所のお伺いを立ててくることもほとんどしなくなったけれど、触ってほしくないと言った場所はそっとしておいてくれた。

「暮らしてってしばらくしたらさぁ、もう下着とか見られたってどうでもいいやってなりそうな気しない?」
「そうなったらダチやめるわ。格下げ」
「何に?」
「ヤベェ女」

 あまりにもすっぱり言い切るので笑ってしまった。そのうちお互いに適当になるんじゃないかと思ったけど、ダチから格下げされたくはない。私のなけなしの乙女心が詰まった、レースいっぱいのちょっと奮発した下着をしまっている場所は、なにがなんでも死守しなくちゃならなさそうだ。

(2023.10.17 : Written by Sarako)


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