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 自席で「はぁ…」と深い溜め息を吐くのはこれで何度目だろうか。周りのデスクに座る同僚は何かミスでもしでかしたのだろうと思っているのか、憐みの目を向けつつ何も声は掛けてこない。まぁ、どうしたのかと問いかけられても馬鹿正直に話せる話でも無い。話してしまえばきっと私の、気分的にはマリアナ海溝よりも深い溜め息の理由に辿り着くには三つも四つも話を掘り下げられてしまう。
 エクセルデータを上書き保存しつつ、画面の隅っこに表示される時間を確認する。あと一時間もすれば退勤時刻になってしまう。定時を迎えるのが待ち遠しい気持ちはあれど、憂鬱になった事なんて今までに無い。引っ越してから、どちらかと言えばあの家に帰るのは楽しみにしている自分が居た。だけど…。
 今のところさほど問題を感じていなかった生活空間に戻る事に対して気が重くなった件。話は昨日の朝にまで遡る。

 ◇

 思いがけず三ツ谷の昔からの友達と会ってそのまま飲みにという予定外のイベントを終えて、帰宅したあと気が付いたら朝を迎えていた。
 自室のベッドの上、掛布団の上に倒れ込むようにうつ伏せ寝の状態で目を覚ますと一瞬逡巡する。お風呂に入らなければと思いながら、自分でも気づかなかったけれどよっぽど疲れていたのか、少しだけと目を閉じたままどうやら寝てしまったらしかった。メイクと羽織っていた上着だけは取り去っていたけれど、巻いた髪もブラウスもそのままでげんなりする。いい歳して何をやっているのだ私は。ふわりと鼻孔をつく居酒屋の匂いと薄まった香水の匂いに顔をしかめる。シーツも洗濯しなくちゃ。

 部屋から出ると家の中はシンと静まり返っていた。今日は日曜日だし、起きるにはちょっと早すぎるくらいの時間帯。物音のひとつもしないところから察するに、三ツ谷は多分まだ部屋でぐっすり眠っているのだろう。ホットサンド、作ってくれるって言っていたけれど。まぁ、朝ごはんの時間にはまだ早い。

 布団から引っ剥がしたシーツを洗濯機に突っ込む。今日も天気が良さそうなので夕方には乾く筈。供用している洗剤とは別に、お気に入りの柔軟剤もセットしてボタンを押す。
 洗面台の鏡を見ると酷く顔が浮腫んでいた。昨日飲んで帰ってうつ伏せで朝まで寝ていればそりゃあこうなるというものだ。とりあえずシャワーを浴びて血行をよくしたい。昨日から着たままのブラウスとパンツを脱いで脱衣カゴに落とす。なんだか下着までタバコの匂いが染み付いている気がして顔を顰める。あの席で三ツ谷もドラケン君も吸ってはいない筈なのに、どうしてああいう店ってああもタバコ臭いのだろう。シーツを洗い終わったら次は昨日着ていた服も一式洗ってしまおう。

 全身熱いお湯を浴びてようやくスッキリした心地である。ゆっくりと時間をかけてマッサージしたお陰か、顔の浮腫みもだいぶマシになった気がする。ついでにクレイパックまで塗りたくってみる。平日の夜は疲れていてお風呂でゆっくりするのも何となく億劫に感じてしまう。後に三ツ谷が待っていたりすると申し訳なくてささっと済ませてしまいがちだし。
 浴室に簡易的に設置したラックに置いてある三ツ谷の使っているらしいトニックシャンプーがふと目に入る。三ツ谷も職業柄見た目も気にするのか、男の割にはシャンプーとか化粧水とかちょこちょこ変えている気がする。ノンシリコンと書かれたボトルのキャップを開けるとスッと柑橘とハーブの香りがした。

 バスルームを出てもまだ洗濯機は回っている。脱水が終わったらそのまま服と下着を入れて回してしまおう。朝、シャワーを浴びることはルーティンでは無いけれど、なんとなくシャキッとする気がするから悪くないかもしれない。でも、仕事に行く前のバタバタとした時間にシャワーを挟むのはなかなか難易度が高いなぁ、と思いながら下着を身に付けて髪をまとめ上げた。

 造り付けのシステム洗面台を半分ずつ使っているけれど、最近は私の物が三ツ谷の陣地に浸食しつつある。いつかクレームが入るかもしれないと思っているけれど、今のところその日はまだ来ていないので甘えている。いくら三ツ谷が身綺麗にしているメンズとは言え、正真正銘女の私に比べればスキンケア用品は少ない。こんなゴツイ必要があるのか?と思える電動シェーバーの存在感は気になるけれど、それがあったとしても男の方がミニマルだ。
 洗面台にぎゅうぎゅうに置いてある中から化粧水、乳液、美容液と順番に重ねて、最後にクリームを塗ろうと手を伸ばした瞬間、ガラリと勢いよく背後の扉が開いた。

「…」
「…」

 鏡越しにしっかりと目が合う。間違いなく同居人の三ツ谷が寝起きの顔でそこに立っていた。切れ長の瞳がみるみるまん丸に見開いていく様がなんだかスローモーションに見えた。未だブラとショーツだけの状態で固まったまま振り向けない私に「…悪い」と小さく呟いた三ツ谷は、開いた時の倍のスピードで扉を閉めた。
 狭い空間の中、洗濯機がゆっくりと止まってピーピーと音を立てているけれど、放心したまま動けずにいた私はその場でがっくりと項垂れる。

「…最悪だ…」

 出た言葉の覇気の無さったらない。あの様子では三ツ谷にもそんな気毛頭無かったことは分かるし、事故でしかないだろう。でも、どう考えてもこんな格好を見せていい相手では無い。
 同じ空間で生活しているという事は、そういう事故が起こる事も想定できた筈だった。むしろ、だからこそそうならない様にお互いに気を付けて過ごしていた筈なのだ。引っ越してからもうすぐ半年近くになる。案外、半年なんて直ぐに過ぎてしまった。緩みが出たのだ、きっと。

 洗い上がったシーツと洗い損ねたタバコの匂いが染みついた服を抱えて私はすごすごと自室に引っ込んだ。リビングから朝のニュース番組か何かのガヤガヤとした音が小さく漏れていたので、三ツ谷も完全に起床しているらしかった。洗面所に何か用があったのだろうから、それはそうかと思い直しながら、顔を合わせるのがなんとなく気まずくて声を掛けられなかった。

 朝ごはん、もしかしたら準備してくれているのだろうか。だとしたら悪いな。でも、さっきの今で向かい合って何事も無かったかのようにホットサンドを齧るのも不自然過ぎるし、そうはならない気がする。一瞬だけ見えた三ツ谷の焦った表情を思い出す。しくじったと思っているのは、お互い様だろう。

 ◇

 あれから、三ツ谷とは会話はおろか顔も合わせていない。図太いのかなんなのか、どうしたものかと悩みながら気が付いたらまた意識が落ちていて、気付いたら昼だった。おそるおそる部屋から顔を出してみると、今度は明らかに三ツ谷は不在なのだろうと分かる程に静かで、多分どこかへ出かけたらしかった。一人分のマグカップと皿が洗って干されていた食器カゴを思い出す。多分、私が居たら私の分も用意してくれた筈だと思うとなんだか良心が痛むような心地になった。

 パソコンの電源を落としながら、また溜め息を吐く。なんというか、喧嘩をした訳でも無いのに拗らせている感じがする。やっぱりあの後、気まずいからなどと言っていないで直ぐにお互いに謝れば良かった。
 同じ家に帰らなければいけないのは間違いなくて、このまま避け続ける訳にもいかない。私も、三ツ谷を避け続けたい訳じゃない。なのに、どうしてこうも気が進まないのだろう。

 『三ツ谷はナマエちゃんのこと、結構好きだと思うなぁ』と言ったエマちゃんの声を何故か思い出す。あの言葉を目の前に転がされた瞬間、正直なところ私は少し気分が悪かった。そんな事、今更私と三ツ谷の間に起こりえない。私と三ツ谷の関係性は、きっと他の誰にも理解されない気がする。それを簡単に恋愛的な関係にしてしまおうとする彼女に、ほんの少しだけ苛立ったのだ。だけどきっと、三ツ谷の私が知らない側面も知っている彼女の発言。もし、万が一彼女の言っている事が当たっているとしたら。

 駅までの道を遠回りして、漫然と書店の中を徘徊しながら考える。仮に、三ツ谷が私の事をそういう対象として見ることがあるとすれば。日々、三ツ谷が私にくれる行動や選択のあれこれになんとなく意味が通ってしまう気がする。
 それを考えて、漠然と困る、と思う。三ツ谷に女として見られること、即ち恋愛感情を持たれる事に。だから、私はあの瞬間から動揺しているのだろうか。

(2024.05.15 : Written by Shiigi)





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