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 メイクの仕上げに、ビューラーで上を向かせた睫毛にマスカラを塗っている時だった。卓上ミラーの横に置いたスマホの画面がついて、メッセージの受信を知らせる。送り主はこれから会う予定の友人だった。通知バナーに表示された「ごめん」を読むだけでも、良い知らせでないことがわかる。本文を開いてみると予想通りだったので、了承の返事をした。ほどなくして帰ってきた追加の謝罪に、気にしないでということと適当なスタンプを送って、やりとりを終わりにする。
 「癒しが欲しい」なんて話題から水族館へ彼女と出かけようと約束をして、その日に今日の日付指定で前売りチケットを買った。キャンセルできないのにそれでもいけないと連絡してきたのだから、相当具合が悪いのだろう。今日はなしにしようと連絡を入れるのだってためらわれるものだ。人間いつでも元気なわけではないし、こういうのはお互い様だよね。と、つい最近体調を崩した私は思う。
 さて、それにしてもこの急な暇をどうしようか。もう片方の目にマスカラを塗りながら考えを巡らせる。せっかくメイクしたし、苦手なアイラインもうまく描けたのに、残念だ。ここまで完成させてしまうと下地代わりにリップクリームを塗っただけの唇が浮いているので、口紅も塗ってしまう。服も髪も顔もすっかり余所行きに準備したのに、家にいるのもなんだかなぁ。というところである。急だけど今から誰か誘ってみようかな。チケットだってもったいないし。
 ううんとひとりうなってみるけど、結論はでない。ひとまず水でも飲もうと部屋を出る。いつもより時間をかけて髪を巻いたりなんてしたから、喉が渇いた。
 リビングではソファに腰かけた三ツ谷がテレビを見ていた。寝ぐせの名残が残る前髪の感じからして、今日はどこにも出ない予定なのだろう。反対に私はばっちり身支度ができているから、一瞥するやいなや「でかけんの?」と問いかけられた。

「その予定だったんだけど、友達が具合悪くなっちゃって」
「あー、そりゃしょうがねぇな」
「ね。すごい謝ってたけど、いいのにね」

 コップに浄水を注いで、そのままシンクのところで飲む。こういうの、単身向けの賃貸ではあまり見かけない設備だから、使えると知ったときは結構うれしかった(カートリッジの管理が少し面倒だけど)。
 三ツ谷が見ているテレビの画面は、ここからじゃよく見えない。聞こえてくる吹き替えの感じから、少し古めの洋画を見ているようだ。たぶん見たくて見てるわけじゃなくて、テレビをつけたらやっていたから見てるだけなんだろう。私もそっち行って一緒に見てみようかな。そう思うとほぼ同時に、三ツ谷の顔がこちらに向いた。

「じゃあ、どっか行く?」
「えっ」
「せっかく化粧してんのに、もったいなくね?髪も巻いてあるし」
「まぁ、そうだけど……」

 もごもごと言葉を詰まらせる私を見て「もう気分じゃなくなった?」なんて聞いてくるから、首を横に振った。三ツ谷の言う通り、せっかく準備したんだから私だけでも行ってこようかな。ダメ元で誰か誘ってみようかなって思っていた。でも、三ツ谷と一緒にっていうのは考えなかった。考えてみれば一番誘うのに都合がいいのは三ツ谷なんだけど、でも予定していた行き先が行き先だから、自然と候補から外していたのだ。一般的に考えて恋人でもない異性と行く場所ではない。そこに、三ツ谷と。
 とは思いつつ、今更何言ってるんだろうとも思う。何回も飲んで、たまに映画とか付き合ってもらって、今なんて一緒に住んでて、すっぴんも知られている。そもそも、これはドタキャンの埋め合わせであって、最初から三ツ谷と行こうとしてたわけじゃない。じゃあ事故みたいなものじゃないか?
 ぐるぐると思考をめぐらす私をよそに、三ツ谷はテレビを消してソファから立ち上がる。薄茶色の泡の跡がついたマグカップをシンクに置いて、「帰ってきてからでいっか」と独り言とも私への確認ともとれる風に呟いた。

「着替えてくるわ。どこ行く予定だったん?」
「あ、えっと、水族館」
「いーじゃん。久しぶりだわ」

 着替えるために自室へ行く三ツ谷を見送って、少し冷静になる。なにも馬鹿正直に言う必要はなかったのに、素直に答えてしまった。でもまぁ、チケットも無駄にならないし、来れなくなったあの子が損することもない。それに、今更三ツ谷とどこに行こうが、それが何だっていうんだろう。だからどうなるってわけでもないじゃないか。
 なんて半ば言い聞かせるように結論付けて、バッグを取りに自室へ戻った。出しっぱなしの卓上ミラーで決まり事のように化粧の具合を確認する。アイラインは理想的な角度と長さで目じりを飾っていて、これのためにも出かけなきゃ損だと思わせてくれた。



 水族館はひんやりとしていた。休日なりに館内には人がいて、人の気配がするのにどこか静かだ。大きな水槽の中を、とりどりの魚たちが気ままに泳いでいく。こんなにたくさん泳いでいて、小魚の群れなんて特にかしましそうなのに、不思議なくらい静かだった。海は、たとえそれが疑似的なものであっても、静けさで飲み込んでしまうらしい。陸の私たちごと、全部一緒に。
 水槽越しにこちらを照らす寒色の明かりが、非日常を醸し出す。分厚いアクリル越しに眺める小さな世界のおおらかさは、ここにいる魚たちの生命にてんで無関心にも見えて、そう思うと少しだけ怖い気がした。ほんのりとした恐怖を感じつつ、幻想的な水中の景色をぼんやりと眺める。彼方から大きなサメがやってきて、ゆっくりと滑るように目の前を横切っていく。近くでみると思ったよりも大きくて、「おぉ」と感嘆の声が漏れた。

「思ったよりデカかったな」
「うん。ほかの魚食べちゃわないのかな」
「腹減ってなければ食わねぇらしいよ。テレビでやってた」
「そうなんだ」

 ぷつり。途切れた会話の切れ目が妙に目立っている気がする。三ツ谷との間にある沈黙を気にしたことなんて、いったい何時ぶりだろうか。どうやって仲良くなったかも思い出せないくらい、自然とこうなっていったように思う。あそこに並んでる二匹のヒトデみたくたまたま近くにいて、時を経るにつれてなんとなくこうなった。くつろげるのだ。三ツ谷といると。
 だけど、今は少し落ち着けずにいる。それがこの膨大な水を湛えた空間に引き起こされた恐れなのか、自分たちがこの空間に似つかわしくないと思っているからなのか。この気持ちの正体を掴めずにいる。だって、ここにいる男女はたぶん、みんな恋人同士だ。三ツ谷はそんなことよりも久しぶりの水族館にテンションが上がっているのか、到着してからずっと上機嫌だった。ふっと息を吐くような笑いからも、ご機嫌さがにじんでいる。

「なんか新鮮だな。ナマエとこういうとこ来るの」
「そりゃ、彼氏とでもなきゃ来ないでしょ、こんなところ」

 アクリルのすぐ向こうで、でろんと横になっている魚の顔あたりに指先をつけた。犬猫とは違って反応が返ってくることはないのだけど、何かリアクションを起こさせたくてアクリル越しになでてみる。そうしている一方、頭の隅でさっきの自分の口調を反芻していた。ぶっきらぼうな、怒っている口調になってしまった気がする。なんだか今日はずっと、胸のところがむずかゆい。
 言い方に少し反省はしたけど、言っていることは間違っていないはずだ。今日みたいな条件が重ならなければ、恋人でもない異性とこんなところには普通来ない。三ツ谷だって彼女がいなければ来ないから、久しぶりだって言ったんだろう。それにまぁ、確かに三ツ谷とこんないかにもなところに来るのは新鮮ではある。

「三ツ谷」

 左側の頭一つ分背の高い影に呼びかける。でもそれは三ツ谷じゃなくて、背格好の似ている他人だった。あれと呟いたのと同時に右肩がたたかれて、「こっちな」と三ツ谷の声がする。何か気になるものでもあったのか、いつの間にか移動していたらしい。「間違えたじゃん」と不満を漏らすと、「俺のせいにすんなよ」と笑われた。

「で、何だった?」
「この子、食べれるのかな」
「お前、さっきからそればっかな」

 青い光が照らす三ツ谷の笑顔は、見慣れているようで見慣れない。この人、好きな子と一緒にいるときはどんな風に笑うのかな。そんなことが一瞬よぎって、不思議な気持ちになった。それに、あまり考えないほうがいいような、そんな気持ちにもなった。

「今日どっかで食ってから帰る?」
「そうしよ。この辺にお魚おいしいとこなかったっけ」
「あそこな。行くか」

 ここへ向かう電車の中で思い出したあの居酒屋。気楽でコスパがよく、色気のないあのお店を提案したのは、この落ち着かなさとの帳尻あわせみたいなものだ。ここにいると今までの距離感がわからなくなりそうで、そんなことには無関心でいられる場所に行きたくなった。
 水槽越しに差し込んだ光は床の上で、水の揺らめきに併せて形を変えている。何かの形にとどまらないかなと注目してみたけれど、くらげみたいに揺蕩うばかりだった。

(2024.4.14: Written by Sarako)





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