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「最悪だ」

 ベッドの中で呟いた言葉は、先週末の三ツ谷に負けず劣らず酷く掠れている上に普段喉から出る声より幾分も低くて、自分で自分に驚く。「男みたいなんだけど」と一人呟く言葉も拾ってくれる人が居なければ笑いにもならない。
 昨日の夕方くらいから若干喉というか鼻の奥の辺りに違和感があるなぁとは思っていた。仕事帰りの電車の中で何度も咳ばらいをするから、隣に立っていたおばさんに怪訝な顔をされたのを思い出す。食欲はあったし、普段通りにスーパーで買った割引のお弁当を平らげて、薬を飲もうか迷ったところで二人の共用スペースには見当たらなかった。おそらく熱も下がって仕事に行っている三ツ谷が持ち出しているか、そうでなければ三ツ谷の自室に置いてあるのだろう。
 三ツ谷の部屋の扉を睨むようにしてしばし悩んだ。数日前に一度足を踏み入れているし、私が買ってきた風邪薬を拝借するだけだ。でも、あの時は屍のようになっていたとは言え、部屋の主である三ツ谷の許可があったから入る事を許された訳で。そうでなければ、家に一人きりの状態でヤツに断りも無く部屋に立ち入るのは完全にルール違反になってしまう。そこのモラルが欠如してしまったらいくら私と三ツ谷の仲と言えども嫌悪感は抱くだろう。反対に三ツ谷が私の留守中に勝手に部屋に入ったとしたら…と考えれば、やめておこうと踵を返す選択しか無かった。
 結局、重怠い体を引きずってもう一度外に出る元気は無かった。と言えば多少聞こえはいいが、言ってしまえば面倒くささの方が勝った。元々、体力には自信がある方だと思っているし、多少風邪気味っぽいなと思う事も生活していれば珍しい事ではない。今日は早めに寝て休んでしまえば、明日の朝には治まっているかもしれない。そう言い聞かせて、何時になるか分からない三ツ谷の帰宅は待たずに自室のベッドに沈み込んだ。目を閉じた後の記憶はビックリするくらいに無いので、一瞬で眠ったのだろう。今思えば、やっぱりあの時点でかなり具合は悪かったのだろうと思う。自分の事にてんで無頓着だと、いつか三ツ谷に小言を言われたのを思い出した。

 身体の熱さと怠さから察するに、きっと熱がある。ほぼ間違いないだろうけど、会社に連絡する為にはまず事実確認をせねば。ガサガサとやすりでも掛けられた心地のする喉の奥に唾を押し込みながら寝室を出てキッチンスペースに入る。冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぎつつ、電子体温計を脇に挟んだら数分安静に。
 キッチンの内側から朝の明るい光が漏れ入ってくる窓の外を眺めていると、廊下の方から物音がした。三ツ谷が部屋から出てきたのだろう。トイレのドアが開く音がして、水を流す音が微かに聞こえる。三ツ谷が家を出る時刻を正確には知らないが、まだ結構余裕がある筈なので二度寝するに違いない。そう思っていたのに、物音の主は自室には戻る事無く、リビングのドアを開いた。うつ伏せで寝ていたのか、前髪が随分芸術的だ。

「おー、はよ」
「おはよ」
「…お前、声どうした?」

 言葉を交わしてしまえばそういう反応が返ってくることは分かっていた。どうしたと言いながら凡そ原因は分かっている三ツ谷があからさまに「やらかした」と言わんばっかりの顔をする。タイミングよく私の左脇からピピピピと可愛らしい電子音が鳴り響く。「…やっぱ感染ったみたい」と、何故か私が気まずい思いで呟くと「マジか…ごめん」と返した三ツ谷が、一拍置いて吹き出す。

「お前、声のギャップ凄すぎ」
「笑わないでよ」
「わりーわりー」
「言いながら笑ってるし」

 キッチンの内側に入って来た三ツ谷が同じように冷蔵庫から炭酸水を取り出す。起き抜けに炭酸なんてと思う。三ツ谷はもうすっかり良くなったのだろうか。甲斐甲斐しく世話をしたお陰かどうかは分からないが、次の日には比較的元気になったようだった。そんな調子だったから、やっぱり油断した。同じ空間で生活していると、こうなってしまうのは仕方が無いらしい。

「病院にも行きたいし、今日は仕事休む…」
「そうしろよ。けど、お前その調子で職場連絡入れれんの?」

 可か不可かと聞かれれば、別に出来る。大人だし、今までにも急病で休む連絡を入れた事くらい数える程とは言え、無かったこともないし。私が服の中から取り出した体温計をむしり取るように奪って「結構高ぇな…」と眉間に皺を寄せているのを見ると、甲斐甲斐しく人の世話をしたくなる性分なのかもしれない。
 一番近い内科を検索すると運悪く休診だったので、次に近い場所を検索する。診療開始時間まではまだ大分時間があるし、会社もまだ誰も出勤していないだろう。「とりあえずまだもう少し寝るから、三ツ谷出掛けにでも起こして」と伝えて自室に引っ込んだ。
 三十七度八分。高熱とは言いにくいけど、微熱でもない。まだこれから上がっていく可能性も見える体温。デジタルの数字でハッキリと見せられたせいか、何だか起き抜けよりもしんどい気がする。枕元にあるスマホは手に触れているのに、アラームを掛ける為に目を開けるのが辛い。いいや、きっと三ツ谷が起こしてくれる筈。

 ◇

「…おい、ナマエ」

 控えめに揺すられる感覚に目を薄っすらと開けると視界はぼやけていた。時間を掛けて合うピントに「…みつや?」と返事を返すと、こちらを見降ろして居た三ツ谷は「全然返事ねーから死んでんのかと思った」と縁起でもない事を言う。まだ目の奥や頭は重怠いし。先程薄っすら危惧した通り、熱が上がっているのかもしれない。

「そろそろ起きろよ。病院行かねぇと」
「…え?て、いうか…なんで三ツ谷ここに入ってんの?」
「だから、外からノックもしたし呼んだけどお前全然返事しなかったから。もしかしたら悪化してんのかと思って。悪いとは思ったけど」

 悪いと思っているとは言いながら随分飄々としている。思わず頭を持ち上げて部屋の隅を確認したけれど、運よく干してある洗濯物はTシャツと靴下くらいだった。引っ越して来た当初、下着は隠せなんて言っていた割には臆せず入って来る辺り、どうも最近三ツ谷との距離感がだんだんバグり始めている気がする。

「着替えたら会社電話しろよ。病院の予約は取っといてやっから。あ、熱あっからシャワーはやめとけ」
「そ、そこまでしてくれなくても…ていうか、三ツ谷仕事は?」
「休んだ」
「は?」
「いーよ。最近休みの日も出てたからどっかで有給使えって言われてたし」

 そうは言うけど、流石に家族でも彼女でも無いたかが同居人の病院の付き添いで有給休暇を消化するのはどうなのかと思ってしまう。どう考えても申し訳なさしか無いし、そもそも何かおかしい気がする。何がどうおかしいのかという説明を今三ツ谷にするには頭の回転も喉のコンディションも悪すぎるのだが。

 三ツ谷に促された通りに適当な服に着替え、財布の健康保険証を確認し、出掛けに会社に休む旨を連絡すると電話口で同僚に『声ヤバくない?』と笑われた。『風邪なんか流行ってたっけ?』と不思議そうにしている声を聞きながら、玄関先でスニーカーの紐を結んでいる三ツ谷の背中を眺めて「どうなんだろうね、」と小声で返す。不意に三ツ谷がこちらを振り向くので慌てて電話を切った。

 マンションの階段を降り、「タクシー呼ぶ?」と聞いてきた三ツ谷のそれを断ったので、診察予約の電話をしてもらったクリニックまで歩く。解熱剤が効いているのかさっきよりは身体は楽だ。途中、自転車に乗ったスーツ姿のサラリーマンが直ぐ傍を通り過ぎて行くと少しだけよろけた。目敏く腕を掴んだ三ツ谷が車道側に変わって出ると「冷蔵庫に何入ってんのか見て来んの忘れたなー」なんて呟く。なんか、やっぱりこんなの変だ。そこに恋愛感情が無いだけで、私達の関係は恋人や夫婦となんら変わりない気がする。
 クリニックの受け付けで名前を名乗った時、私の背後に立つ三ツ谷をちらと見て「ご家族ですか?」と聞かれたのにはここしばらくで一番返答に困った。「ど、同居人です…」と答えると納得したようだったけれど、実際のところどう思われたのかは分からない。

(2024.03.20 : Written by Shiigi)





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