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 土曜日。なんともすがすがしい、休日にふさわしい朝だ。平日には憎たらしく聞こえる目覚ましのアラームも、休日ならばいくらかかわいく思える。もっとも、休日には目覚ましをかけずに好きなだけ寝てしまうことがほとんどだけれど。
 そんな体たらくの私がなぜ昨晩目覚ましをセットして、今朝は二度寝もせずにベッドを抜け出したのかと言えば、単純にこの時間に起きる予定があったからだ。
 「明日何時におきんの?」「んー、起きたら起きる」「ホットサンド作ってやるから聞いてんの」
 そんな会話をしたのは昨晩、互いの自室へと入る直前のことである。「じゃあ八時な。起きて来いよ」と自室へと消えていった三ツ谷の背中を見送りつつ、勝手に決めやがってと胸の内ではささやかな悪態をついていた。それでも言われたままに、素直に言われた時間にアラームをセットしたのは、起きてくればいいことがあると知っているからだ。ホットサンドくらい、やろうと思えば自分でも作れる。だけど、いつだか三ツ谷がふるまってくれたアレは、またリクエストしたくなるくらいにおいしかったのだ。具材をサンドして火を通すだけの料理なんて、誰がやっても同じはずなのに。不思議なものだ。
 そんな感じで、私はあのちょっと贅沢な朝食を糧にベッドからはい出したわけだ。が、リビングで顔をあわせた三ツ谷の第一声を聞いてぎょっとする。私に「おはよう」と言ったその声は、今までに聞いたことないくらいかすれていた。

「悪化してんじゃん……」
「ハハ……」

 苦笑いした途端に小さくせき込んだ。寝起きなのを差し引いたって顔色が良くない。声もカスカスで、典型的な"病人" って感じだ。

「熱は?てか起きてこなくてよかったのに」
「八時つったのオレだし」
「いやだって、病人じゃん」

 自分から「この時間に起きて来い」と言っておいて、それを破るという選択肢はこの男にはないのだろう。元ヤンのくせに、いや元ヤンだからこそなのか、変に律儀というか真面目だ。具合がよくない時に起きてこなかろうが、当たりまえだけど怒るなんてしない。

「いいから、とりあえず部屋戻って。寝て」

 普段よりもどことなく小さく見える肩を掴んで、くるりと寝室のほうへ反転させた。Tシャツ越しの身体は明らかに熱を持っていて、歩き方もどこかふらついているように見える。寝室までの短い距離を付き添って、扉の向こうへと押し込んだ。 のそのそとベッドに腰かけた三ツ谷のだるそうな姿を横目に、我が家の冷蔵庫の中身を思い浮かべる。あいにく、今の我が家の装備では病人を労われそうにない。最低限の身支度を整えるついでに自分の常備薬も確認してみたけど、使用期限の切れた風邪薬しかなかった。



 予想よりも重くなったコンビニの袋を廊下に置くと、締め付けから解放された手のひらに血が通い出した。何が欲しいのか聞かないで出てしまったから、とりあえず色々とカゴに放り込んだせいで帰り道は軽いトレーニングみたいになった。コンビニでもらうにしては大き目のビニール袋からは、風邪っぴきの定番みたいな商品ばかりが覗いている。三ツ谷の好みかはわからないけど、文句は言わないだろう。

「三ツ谷、起きてる?」
「……おー」

 扉越しに声をかけると掠れた声が返ってきた。なんだか朝に聞いた時よりも弱々しくなった気がする。そんな声色の人間を必要以上にしゃべらせるのは気が引けるけど、この袋の中身をどうするかは聞かないと。

「コンビニ行ってきたけどなんか食べる?薬とかも買ってきた」
「ちょっと見して」

 ちょっと見して、とは。
 扉を隔てた向こうにいる人がそう言ったら、「ここに持ってきて見せろ」という意味だ。と、思う。しばし考えてみても他の答えが思い浮かばなくて、少し戸惑う。三ツ谷の部屋は完全な三ツ谷の領域だから、頼まれたのだとしても入るのにはためらいがある。それに一応、三ツ谷は男なんだし。
 とはいえ病人の側に動いてもらうのも、それはそれでためらわれるものだ。まぁ、今回はイレギュラーというかしょうがないというか、気にしすぎる必要もないだろう。そう言い聞かせつつ、「入るよ」と扉の向こうへ声をかける。覇気のない返事を免罪符に、三ツ谷の部屋へとお邪魔した。
 私のとほぼ同じつくりをした六畳の部屋は、引っ越し当日に見たあの工業用ミシンとベッドに大部分を占拠されている。昨日は畳む気力もなかったのか、ミシンのテーブル部分にハンガーをつけたままの洗濯物が置かれていた。こんな時くらい畳んであげようかと一瞬よぎったけれど、洗濯物は触らない約束だったことを思い出して、あまり視線をやらないようにする。

「テキトーに買ってきたんだけど」

 ミシンの下に仕舞われていた椅子を引っ張り出して腰かけた。サイドテーブルからティッシュケースや時計なんかをどかして、空けたスペースにビニール袋を置いて中を見てもらう。一瞥した三ツ谷が「色々あんじゃん」と笑ったのに、なんだか少しほっとした。

「何がほしいかわかんなかったから」
「ん。ありがとな」

 話すたびに軽くせき込む三ツ谷の姿は覇気がなくて、変な言い方だけどコイツも弱るときはあるんだなと実感する。何年も交流しているうちに当たり前になってしまったが、フィクションみたいな生い立ちの男なのだ。あまりこういう姿は想像したことがなかった。もちろん、体調を崩した話を本人から聞いたことはあるけど、実際にその姿を見るのはこれが初めてになる。
 異性のこういうところって、家族じゃなければ恋人にでもならない限り見ないのだと思っていた。なのに、今こうして家族でも恋人でもない三ツ谷のことを、大げさに言えば看病しているのが不思議でどこか落ち着かない。同じ屋根の下に住んでいれば、体調を崩した同居人に手を差し伸べるものだろうから、そう考えればなんらおかしなことではないのだけれど。
 そういえば三ツ谷って、私とのことをどこまで気にするんだろう。引っ越し先で恋人でもない異性とルームシェアしてるって、普通のことみたいに誰かに話をしているのかな。そうだとしたら、私のことを三ツ谷とどんな関係の人間だって説明するんだろう。いやでも、さすがに隠してるか。不用意になんでもしゃべってしまうような、そういうタイプではないだろうし。
 ひとりで悩んで、勝手に完結した。三ツ谷がどうしていようと、私からは誰かにこの生活のことを話すことはないだろう。そんなことを考えながら三ツ谷が指さしたゼリーを袋からとりだして、フタを引っ張る。あの店員、スプーンつけてくれてたっけな。

「開けてくれんだ」

 びっくりして、思わず三ツ谷を見てしまった。気のせいか、痛めた喉から出たとは思えない声色に聞こえたのだ。なみなみと詰められた中身をこぼさないよう慎重に開けていたのに、目を離したせいで少し傾けてしまった容器から汁がこぼれる。慌ててティッシュケースから何枚か引き抜く私を三ツ谷は笑って、その拍子にまたせき込んでいる。 

「変なこと言うからこぼれたじゃん」
「ナマエの手にかかっただけだろ?じゃあ別にいいわ」
「サイテー」

 むかついたから、スプーンは袋を開けずにそのまま渡してやった。
 透明なゼリーを崩しながら食べ進めていく三ツ谷の姿は、どこか大きい子供みたいだ。そして本当は他人に見られたくない姿なのかもしれないと、なんとなくそう思った。薬と冷却シートと、三ツ谷が欲しいと言ったスポーツドリンクだけ残して立ち上がる。「欲しいものあったら持って行くから言って」と言い残して部屋を出る私に、三ツ谷は申し訳なさそうに笑った。

「うつしたらゴメン。先謝っとく」
「いいよ、別に。一緒に住んでるんだし」

 一緒に住んでいたらそういうこともある。当たり前のことだ。誰からうつされのか、本当のことは言えないだけで。


(2024.1.29: Written by Sarako)





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