8. 袖口に明星

 六月の雨雲がやってきて、世界から彩を奪ってしまった。
 この星の一体どこに、これほどの雲と雨が隠れていたのだろうか。そう不思議に思うくらい、梅雨入りが報じられてから空は絶えず雨雲に覆われて、気づけばもう何日も青空を見ていない。
 なにかと不調にさせる低気圧を憎む一方で、雨は嫌いじゃなかった。元気がないのも何事にも億劫なのも、全部雨のせいにできる。傘の上に弾けた時の雨音も好きだ。降り始めの匂いも。
 それに、雨は私を突き放さないままで、ひとりにしてくれるような気がする。
 休日のコインランドリーは、おそらくは連日の雨の影響で繁盛していた。全てがもれなく稼働しているせいで、熱と湿気とがこもっていて不快度合が高い。それでもここから動かず、持参した本を読むわけでもなく、ただ外を眺めている理由は、この場所に安らぎを感じているからなんだと思う。
 そこかしこから洗濯機の中を跳ね回る水の音と、ドラムの回る音がする。雨音とはまた違った単調さで繰り返されて、混ざり合って、増えて、大きくなる。音の中に耳障りなことは全部消えて、あとはただひとりの私だけ。それだけが必要だった。
 私のしたこと、決めたこと、その瞬間とこれまでを思い返しては自問自答する。ここ数日間、そんなことを何度となく繰り返している。
 私は私の大切なものを守ったのか、それとも失ったのか。いくら考えてみても、今はまだ分からかった。
 ぽつりぽつり。いくつかの傘が、通りの向こうに現れては消えていく。そのうちのひとつ、見覚えのある黒い傘が入り口の前で立ち止まり、すぼめられて傘立てに収められた。入店した持ち主と目が合う。ひらひらと手を振ると、同じようにひらひらとする。それから店内を見渡しているが、あいにく全て使用中である。

「私あと十分で終わるよ。待ってたら?」
「あーそうだな。そうする」

 三ツ谷くんの肩に引っかかった某家具屋の青いバッグは大きく膨れている。ここ最近の雨模様のせいで、私のバッグも似たようなものだった。見るからに重そうなバッグをベンチへ置いて、彼自身もその傍に座る。重みを支えるベンチの脚から、金属の軋む音がした。

「雨ばっかで困っちゃうね」
「な。部屋干ししても臭ったりするし」

 どことなく空気がかたい。こうして顔を合わせるのは先々週の合コンの後に気まずくなって以来で、まだあの時のこわばった雰囲気の余韻が残っている。
 あの時のことに触れないまま、この雰囲気が曖昧になっていくのを待つこともできる。だけどそれはあまり良くないことで、今回についてはことさら良くない気がする。話をしたい。でもどのタイミングで、どんなふうに切り出すのがいいか分からない。私はまた懲りもせず、うじうじと足踏みをしている。
 三ツ谷くんは脚を組んでから、収まりが悪そうに元に戻す。その動作に合わせて隣のベンチがまた軋む。意を決したように「あのさ」と言った彼の声は、小さく弱くても芯を持っている。

「この前は、ごめん。あんなこと言って。俺なんかに言われたくねぇよな」

 飾らず率直なところは同じで、なのにあの日とは全然違う。違うのに、あの日と同じように目の奥がつんと痛くなるのは、一体どうしてだろうか。立ち込める低気圧のせいだと思いたい。
 否定の意味で首を振る。そのついでに目頭が熱くなるのをなだめた。

「いいの。三ツ谷くんの言う通りだったし」

 「三ツ谷くんには関係ない」そんな言葉でしか答えられなかったのは、図星を突かれたからだ。世間体とか「世間一般的に順調とされる人生」のために私自身をだまし続けていたのに、突如その嘘が暴かれてしまった。見て見ぬふりをしていた私を白日の下に晒されて、恥ずかしような、情けないような、そんな気持ちになったからだ。
 期待だけでは現実は変わらないと、分かっていたつもりだ。でも分かっていただけ。目を背けたところで、そこにあることは変わらないのに。
 だから他のどれでもなくて、私が変わることを決めた。

「あのね三ツ谷くん。私、彼氏と別れたんだ」

 三ツ谷くんはあからさまな反応をしなかったけど、息をのむ気配がはっきりとあった。少しの無言の後に「そっか」とだけ呟いて、また黙ってしまう。もしも彼が自分のせいだって思っているのなら違う。三ツ谷くんがいなくても、遅かれ早かれこうなっていたはずだ。

「やっぱ怪しいって思って、カマかけたの。『この口紅なに?』っていう古典的なやつ。そしたら簡単に引っかかってさ」

 本当に、笑えるほど簡単だった。捨てる側になってやるんだって意気込んでいたけど、最初っから私に振らせる気だったんじゃないかって、そう思うくらい簡単だった。新品の避妊具も新しいゲームも予想通り、私の知らない女のためのものだった。「俺がいなくてもお前は大丈夫だと思ったから」って、だったら手放したらよかったのに。色々理由を並べていたけど、「長く付き合っているうちに結婚適齢期になった女を手放した時の世間体」を気にして別れなかっただけなんだって。わかったらその途端に気持ち悪くなった。
 彼と同じような理由を並べて言い訳をしていた、自分にも。

「泣いちゃうかなって思ったけど、そんなことなかった。むしろ解放された感じ。もっと早くこうすればよかった」

 涙のひとつくらいはこぼれるかなと思っていたけど、カラカラに乾いていて何も出てこなくて、むしろ解放感に包まれていた。気合のために履いていったピンヒールで辿った家路の軽やかさは、生涯忘れないと思う。
 例えるならきっと、使い終わった点滴みたいなものだった。つけててもしょうがない。煩わしい。けど惰性と無くした時の不安でそのままにしていた。いざ外したら拍子抜けするくらい大したことなくて、余計な人間関係から解放されたような、そんな心地になったのだ。

「いろいろ考えると、本当によかったのかなって思うんだけど。でも、これでいいんだと思う」

 この決断で、私の未来はどうなってしまうのか。それは見えないし、わからない。五年以上も一緒にいた人の面影は生活のいたるところにこびりついていて、嫌でも感じ取って考えてしまう。だから不安にもなる。
 だけどやっぱり、これでよかったんだって思う。心と頭のどちらもがそう言っている。
 三ツ谷くんは静かに、じっと耳を傾けて私の話を聞いていた。すべて語り終えても私は彼を見れなかったけど、彼は私を見ていた。薄い唇が、ゆっくりと開く。

「ミョウジさんは、スゲー頑張ったと思うよ」

 その言葉は私の頭をそっと撫でてから、羽みたいにゆっくりと着地した。柔らかいのに、胸がぎゅうと締め付けられる。
 
「じゃあ、今度から気兼ねなくメシに誘えるな」
「そうだね。ヒマになったし」

 さっきまで私より大人の顔をしていたくせに、もう少年の顔で笑っている。からからとした笑顔につられて、私も笑った。
その日の夜は雨が引いた。止むのが昼間だったら家で洗濯できたかもしれないけど、今の私にとってはそうじゃない方が良かった。
 缶ビールを片手に、何日かぶりにベランダに出る。湿り気を帯びた風はくたびれた部屋着と肌を撫でながら、明日が来るほうに消えていく。プルタブをあげると景気のいい音がした。いつもより少し高いこれは、私へのねぎらいだ。
 缶を傾けてひとくちあおる。お値段の分だけおいしい。ような気がする。頑張った後のビールが一番おいしいからっていう、それだけかもしれない。だって私、スゲー頑張ったんだから。
 もうひとくち、もうひとくちと飲み進める。ビールひと缶くらいじゃ酔わない。泣き上戸でもない。なのにどうしてだろう。なぜだか涙がこぼれていた。




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