7. 優しくない世界なら要らない 

 「色めき立つ」
 と言う言葉のイメージに画像をつけるなら、私は今この瞬間を選ぶだろう。三ツ谷くんを見た時の女性陣の表情は、まさに色がついた様だった。

「で、ミツヤくんとお前はどういう関係なの」

 私がこんな男の子を連れてきたのが面白かったのだろう。共にこの会の幹事を務めている同僚は、明らかに好奇の目をしていた。手元を見ずに食べているから、鞘から押し出した枝豆があらぬ方へ転がって行く。面白いからってニヤニヤしてるからだ。

「普通に知り合いなんだけど」
「あんなのと知り合う様な人脈あるようには見えねぇんだよなぁ」

 そんな風に訝しまれても困る。「知り合い」以外の言葉で適切なものがあるとしたら「ご近所さん」になるのかもしれないが、それはそれで説明がめんどくさそうだ。それにこの男のことだ。変に勘ぐられて、根掘り葉掘り色々と聞いてくるに違いない。となるとやっぱり、答わないのが最善策だ。

「もう。代打連れてきてあげたんだから、なんでもいいでしょ!」
「しゃあねぇな。じゃあ気が向いたら教えてくれよ」

 彼のシャープな吊り目の中で黒目が滑る。その視線の先、一番端の席に座る三ツ谷くんは、正面に座った女の子にスマホで何かを見せながら談笑していた。実は人見知りするタイプなのかと心配していたが、あの様子を見るにやはりそんな事はなさそうでほっとする。
 全員で乾杯をしてからは「じゃああとは若いモンで」と言った具合に、幹事の私たちは彼らの輪から外れることにした。さてどうなるかなと思ったけど、既に場があったまっている雰囲気がある。私たちを抜いて男女三人ずつっていう人数も、全員が炙れる事なく会話に参加できてよかったのかもしれない。

「よかった。盛り上がりそうな感じ」
「だな。ま、こっちはこっちで飲もうや」

 こちらに向けて傾けられたグラスに、私のを軽くぶつける。せっかく飲み放題だしまだ土曜日だし、私達だって適度な量は飲みたい。お酒は辛いことの多い大人だけに与えられた、いわば特権なのだ。
 二人での乾杯の後、早速飲み干した分のおかわりをするために、店員さんを呼び止めている。その時にあげた彼の左手の薬指には、いつもはないものがあった。
 
「あれ、指輪してるんだ」
「あーなんか、今日はつけてけってさ」

 その背格好から期待する通り、彼の趣味はバスケットボールだ。、毎週末は所属している社内サークルで練習したり、試合に出たりしている。その度外すことになるから失くしそうで怖い。それに加えてそもそもアクセサリー類を身につけるのが苦手。という理由で基本的に結婚指輪はしておらず、奥様のドレッサーの中で保管されているらしい。なので、この指輪を見るのは彼の結婚式以来になる。
 普段つけない結婚指輪をわざわざつけろと言うのは、つまり奥様からの牽制だろう。合コンって、大抵は男女の出会いの場として設けられる。いくら幹事に徹していると言っても、旦那が行くとなったら不安になるっていうのが乙女心だろう。

「へぇ。かわいいね」
「ただの幹事だって言ってんのにさ。あいつホントに」

 愚痴りつつも律儀につけてるあたり、あなたもあなたで満更じゃなさそうに見えるけど。そう指摘してみたら「うるせー」と悪態をつくので、微笑ましくて笑ってしまった。

「つーか、ミョウジは彼氏とどうなんだよ。そろそろなんじゃねぇの」
「あー、それねぇ……」

 されたくないカウンターを喰らってしまった。口ごもっていると、「なんかあった?」と期待のこもった声色で追撃される。確かに「なんか」はあったけど、君が期待するようなものではない。
 今日この場で私が酒を欲してる原因は、間違いなく私の恋人だ。連休初日に彼の家で感じた違和感は、誰にも明かされないまま私の喉元に引っかかっている。取り除けないまま過ごしているけど、ふとした時に思い出してしまって少ししんどい。見て見ぬふりって、見続けることより辛いのかもしれない。

「ちょっと、聞きたいんだけど」

 同僚は神妙な空気を感じ取ったらしく、からかいモードから真剣に聞く方に態度をシフトした。彼は何でもかんでも言いふらすような人じゃない。どんな話だろうが、この場限りの話で終わらせてくれるはずだ。

「ゴムってあるじゃん」
「あるけど」
「使い切ってないのに、新しく買い替えたりする?」
「……お前、それって」

 皆まで言わなくても察してくれて助かる。言葉にしたら思いの外トゲトゲしていて、喉の奥がちくちくと痛くなった。

「残ってたはずだと思うんだけど、久しぶりに家行ったら新品になってて。それが外のビニールも開けてないやつでさ」
「いや、こんなん言ったらアレだけどさ。かなり黒じゃねぇの」
「……私の記憶違いじゃなければね」

 私の記憶では、最後に使った時にひとつ切り取って残りを箱にしまっていたから、あの時はまだ数個あった。でも一ヶ月以上前のことだし、ただの記憶違いかもしれない。
 本心では確信を持っているくせに、認めるのが怖くて言い訳をしている。だって、考えれば考えるほど黒なのだ。普段やらない種類のゲームを買っていたのだって、考えてみたらそう言うことなんじゃないのか。私の知らないところで知らない女と楽しんでいたって、そう言うことなんじゃ。

「そんで、ミョウジはどうすんの」
「どうすんのって……」
「ハッキリさせた方がいいんじゃねぇの。先のこと考えてるなら尚更」

 正面からぶつけられた正論にぐうの根も出ない。「先のことの話してない」と言ったら、「じゃあ時間ムダにする前にハッキリさせないとな」とさらに正論を重ねられ、心がノックアウト寸前になる。

「そうだよね……」

 よろよろの声で呟く。隣ではしゃいでいる若いモン達の、張りのある声との対比が辛い。すっかり萎んでしまった私を見兼ねて、それ以上追撃するのはやめてくれた。

「後悔しないようにしろよ。なんかあったら聞いてやるから」

 また傾けられたグラスに自分のをぶつけて、残りを飲み干す。喉を通る炭酸が、今はちょっとだけ痛い。
 その後はお互いの仕事の愚痴だとか、たまに主役達の話に混ざったりだとかしながら楽しく飲んだ。二時間の間にみんなすっかり打ち解けたようで、飲み屋を出た途端に二次会の話になっている。
 誰が音頭を取るわけでもなく、かたまってふらふらと歩いて行く。もう少し先に行くと商業施設があって、そこから地下鉄に乗れば家に帰ることができる。私はそこに行きたいけど、皆はどこに向かってるつもりなんだろう。この辺に飲み屋なんて山ほどあるから、どこへ行こうと困らないだろうけど。
 あてどないのが楽しそうな彼らを横目に、目的の地下鉄入り口に差し掛かったところで集団から外れた。

「じゃあ、私はこれで」
「えっ、二次会行かないんですか?」
「明日、午前中から用事があるの」

 やることがあるのは事実だけど、別に何時からでもいい。せっかく盛り上がっているし、いない方がいいかなっていう気遣いが半分。なんだか気疲れしたので帰りたいというのがもう半分だった。
 みんな、どうぞ楽しくやっててくれ。そんな風に思っていたのに、また一人離脱する。

「オレもここで」
「え〜?三ツ谷くんも?」

 心の底から残念そうだ。さてはこの子、三ツ谷くん狙いだな。「もうちょっと飲もうよ」と食い下がっているし、間違いない。あからさなその態度に、他のメンバーが苦笑いしている。
 完全ロックオンされていてもなんのその。「ワリィけど、明日早くてさ」とにこやかに断って、さらりと猛攻を切り抜けた。その様子を見て、三ツ谷くんってやっぱりモテる人なんだろうなぁと思う。
 手を振って別れ、駅への階段を降りていく。役目が終わったことにほっとしつつも、三ツ谷くんのことが気にかかっていた。

「あんまり楽しくなかった?」
「楽しかったよ。飲んで食ったし、もう満足なだけ。用事あんのもホント」
「よかった。つまんなかったから帰るのかとおもった」

 とは言っているものの、なんだか少しだけピリピリしているような気がする。駅構内は人が多いからイライラしているのかもしれない。怒ってるかなんて聞いても余計イライラさせるだけだし、下手に触れるのはやめておくことにする。
 改札を抜けてホームへ降り、間もなく到着した電車に乗り込んだ。その道すがら「いい子いた?」と聞いて見たけど、首を横に振られてしまった。男女の出会いというのは、そんなうまく始まるものではない。
 最寄駅を通る路線は地下鉄ではないが、乗り込んだこの地下鉄から直通運転をしていて、乗り換えなしで帰ることができる。そのどちらの路線も、声を張らなければお互いの声が聞こえないくらい走行音が大きい。
 どうせ同じ駅で降りるんだから、話したいことは降りてから話せばいい。今喋ったって碌に聞こえないんだし。そう思うのになんだか沈黙が痛くて、ごまかす様にドア上の液晶をじっと見つめていた。

「ミョウジさん達の話、聞いてたんだけど」
「え、聞こえてたの?」

 最寄駅を出てすぐ、三ツ谷くんはこんな台詞を吐いた。唐突さに変な声が出たけど、三ツ谷くんは構わず続ける。

「ミョウジさんは、なんで今の彼氏と付き合ってんの?」
「なんでって」

 これまた唐突すぎてうまく言葉が出てこない。
 なんでって、そりゃあもう五年も付き合ってて、お互いいい歳だし、収入も二人で働けば十分なくらいあって、親にも紹介してるし、この人と結婚するんだって多分思われてるし。それに、だって、それに……。

「浮気してるみてぇだし、ミョウジさんのこと大事にしてるように思えねぇんだけど。なんで付き合ってんのかなって」

 私が答えあぐねている間に、強烈な一発が飛んできた。
 その衝撃でかっ、と頭が熱くなって、何も考えられなくなる。三ツ谷くんを見ると特に何の感情もないようで、だけどやっぱりピリついているように思えた。
 三ツ谷くんは、なんでこんなことを言うんだろう。私と恋人の間に何が起きていようが、三ツ谷くんには関係ないじゃないか。なのに、どうしてこんなことを言うんだろう。いくら話を聞いて疑問に思ったからって、こんな急に、こんなストレートさで。何も知らないのに。私が何を思ってるかなんて、三ツ谷くんは分からないのに。
 そうだ。だって、前途洋々で、これから何にでもなれる三ツ谷くんに、私の気持ちなんて分かるはずがない。取り柄なんてなくて、何者にもなれないまま、「若さ」という看板だけはそろそろ下ろさなくちゃいけない、私の気持ちなんて。
 虚しさと悲しさと怒りが入り混じって、ふつふつと込み上げる。

「……三ツ谷くんには関係ないじゃん」

 やっと、それだけを絞り出した。これが精一杯で、これ以外になんて言っていいのか分からなかった。
 関係ない。冷静になると冷たい言葉だ。でも三ツ谷くんだって不躾だし、これについてはお互い様だと思う。三ツ谷くんは数秒の沈黙の後で、小さなため息をついた。

「確かに、関係ねぇわな」

 諦めたような、怒っているような、悲しんでいるような、そのどれでもあるような。そんな響きだった。
 自宅の玄関の扉を閉めてひとりになると、その響きは一層強くなる。帰り道での一連の問答はなんどもリフレインされて、数日の間私を苦しめた。




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