5. 恋の最果て

 日中は会社にこもって夜中に帰宅。休日はよく寝て体力回復に努める。
 そんな生活を数週間送っていたから、フルパワーの太陽を浴びるのは久しぶりだった。そして実感する。あくせくと働いている間に、春は過ぎ去ってしまったらしい。スーツケースを引きながら歩いていると、額にうっすらとした汗がにじんでくる。
 五月初旬でこんなに暑くて、真夏ってどうなっちゃうんだろう。迫りくる猛暑を思い浮かべて戦慄しつつ、もう間もなく到着する駅舎へ無心で歩く。すると不意に肩を叩かれた。

「やっぱり。ミョウジさんじゃん」
 
 三ツ谷くんだった。
 半袖に髪はハーフアップにまとめて、すでに夏の装いだ。「最近よく会うな」と笑った顔に落ちた日差しの強いコントラストにも季節を感じる。「ちょっとそこまで」というには大きめのリュックを背負っているが、どこかへ出かけるのだろうか。「旅行?」と、三ツ谷君のほうも私の荷物をちらりと見やる。

「実家に帰るの」
「お、偶然。オレも実家帰るところ」

 連休といえばの帰省である。が、だいぶ身軽さに差があるところを見るに、三ツ谷くんの実家は都心部なのだろう。聞けばこの駅から三十分程度のところだという。彼の印象からイメージした通りだ。

「実家出なくてもよさそうなのに」
「妹二人いてさ。もうデカくなってきたし、そろそろ部屋空けてやんねぇとって思ってさ」
「そっか。なるほど」

 そんな近くに住むって、一人暮らしの意味あるんだろうか。
 そう思っていたけど合点がいった。ひと家族が都心で暮らすとなると、三人兄妹それぞれに部屋をあてがうのが難しいこともあるのか。だだっぴろい田舎の一軒家で育った私にとっては、思いもよらない理由だった。

「オレの部屋もうねぇし、日帰りしようと思ったんだけどさ。妹たちが泊れってうるさくて」
「かわいいね。仲いいんだ」
「ナマイキだけどな」

 そうは言っても妹たちがかわいいのだろう。人は大切なものを見る時に、こういう顔をする。私に向けられたわけではないのに、少しどきりとした。たぶん誰かのそういう眼差しを、久しぶりに近くで見たからだ。
 しかし、こんなカッコイイ男の子がお兄ちゃんだなんて。そりゃあ妹たちも兄が恋しいってものだろう。
 改札へ向かう時とホームへ降りる時。どちらの時も、エスカレーターにスーツケースを乗せるのをさりげなく手伝ってくれる。これも二人の妹達と育ったが故に、身に着いた気遣いなのかな。この兄と比べてしまうのだとしたら、妹さんたちの男性へのハードルって、だいぶ上がってしまうんじゃないだろうか。
 ホームへ降りてすぐに到着した電車に乗り込む。車内は込み合っておらず、連休の効果かむしろいつもより余裕がある。運のいいことに一番端の席が二人分空いていたので、そこへ並んで座った。端っこって落ち着くものだけど、大きな荷物を持っているとなおさらだ。
 
「ミョウジさんは実家遠い?」
「遠いよ。五時間くらいかかる」

 そう、遠い。新幹線から特急へ乗り継がなくてはならないし、そこから一日に何本も走っていないローカル線に乗るので、慣れているとはいってもその労力はそれなりに負担になるものだ。だから、三ツ谷くんみたいに「土日で実家に帰る」という気軽さは、とてもうらやましい。

「マジか。着いたらもう夜じゃん」
「出遅れて指定席取れなくて、帰るのは明日なの。今日は彼氏の家に行くんだ」
「へぇ」

 さして興味もないのか、平坦な相槌だった。
 とは言ってもスマホをいじくる事もなく、アイコンタクトをしながら話をしてくれる。それが原因で恋人と喧嘩をしたことがあるので、ついそういうところに目が入ってしまうのだ。
 別に一緒にいる間は一度も触るなとか、SNSなんかを一切見るなとか言いたいわけじゃない。けれどノルマとかイベントがあるとかなんとかで、外出中もかなりの頻度でゲームに勤しみはじめる彼氏に、だんだんと不満が募っていった。
 あの時は決意を固めて、かつお酒の力まで借りないと不満を訴えられなかったけど、今だったらどうするだろう。喧嘩をしてからは彼氏も気をつけてくれるようになったし、私もあまり気にならなくなった。
 単純に「私といるのだから私を見てよ」なんていう、かわいい気持ちがなくなっただけかもしれないけど。

「彼氏と仲良いんだ」
「んーどうだろ。悪くはないと思うけど」
「何その言い方。倦怠期とか?」
「いや、なんか。もう落ち着き切っちゃったなぁ、って感じ?」

 正直もうときめきはない。でも好きなところも確かにあるし、付き合った期間に比例した情もある。言ってしまえば楽だし、次の恋愛をするのも面倒だし。というかもう、次とか難しいと思う。彼氏の方も流石にここまで来て「何も考えてません」はないと思う、し。
 
「オレはそういうのわかんねぇわ」

 三ツ谷くんの声はいつも、あらゆる騒音を裂いてくる。大きな声という訳でもないのに、洗濯機の稼働音も電車のブレーキ音も、全部すり抜けて私に届く。それに比べ、「わかんなくていいと思うよ」と答えた声の存在感のなさといったら。
 スーツケースのキャスターストッパーをなんとなくでいじくる。ロックを外すと、傍目には分からない不安定さが、持ち主の私にはありありと伝わる。このまま電車が減速していったら、慣性で転がって行ってしまうだろう。次の停車駅を告げるアナウンスが流れ、慌ててハンドルを握ってストッパーを元に戻した。

「あ、ねぇ。そういえばなんだけど、多肉植物買ったの」

 停車した駅のホームから花屋が見えて、わが家の新入りのことを思い出した。スマホの写真フォルダを開いて写真を見せる。窓際にちょこんと鎮座する様子が我ながらかわいい。

「夏を越したら花が咲くんだって。楽しみだからどんなのか調べないようにしてるの。実物を自分の目で見ようって」
「いいじゃん。でもなんでオレんとこで買ってくんなかったの?」
「えっ、ごめん」
「いやジョーダンだって」

 からかわれてしまった。出会ってまだひと月も経っていないが、ちょくちょく彼のこういう所を見ている気がする。

「年上をからかうもんじゃありません」
「だって、あんま年上にみえねぇし」

 ムキになったら子供みたいだから、否定はしなかった。 
 




「なにこれ、買ったの?」
 
 電車を乗り次いで一時間ほど。到着した恋人の家で、見慣れないものを見つけた。黒いボディのそれは某家電メーカー製のゲーム機で、現時点での最新モデルだった。最新モデルとはいえ数年前に発売されたもので、確か来年には次のモデルが発売されると話題になっていたはずだ。思わず「え、今さら?」とこぼすが、「遊びたくなって。次のは発売してもすぐ買えねぇと思うし」と言われて納得した。
 テレビ台には二本のゲームソフトが収納されている。一本は彼が好きなFPSと呼ばれる一人称視点の対戦ゲーム。もう一本はパズルゲームだが、これを彼が購入したのが意外だ。
 
「意外なの買ってるね」
「あー、まぁ、気軽なやつもと思って」
「やろうよ。私これ好きなんだよね」
 
 すると、てきぱきと準備を進めてコントローラーを渡してくれる。このゲーム機はどんなもんかと眺めるついでにテレビ台の裏を覗き込むと、ゲーム機本体やコントローラーから伸びるコード類が、絡むことなくきれいに配線されていた。なんでこれができるくせに、丸めた靴下を伸ばして洗濯機に入れることができないんだろう。不思議に思うと同時にいつかの怒りを思い出して、今されたことじゃないのにモヤッとする。
 いざ対戦してみると彼はなんで買ったんだと思うくらい弱くて、ぶり返した「丸まった靴下への怒り」も力になったのか、私は勝利を重ねていった。敗北を嘆く姿を慰め、「余計悔しい」と言う彼と笑う。約二ヶ月ぶりに顔を合わせたが、一緒にいて気まずいということはない。
 そう思うと、アツアツとは言えなくても私たちの関係はそこまで悪くない気がして、やっぱり安易に手放してはいけない気になる。
 連敗に挫けた彼はコントローラーを置いて、ふぅとため息をついた。

「もームリ。降参」
「えー」
「勝てる気しないって。腹も減ったし終わりにしよ」
「あれ。もうそんな時間?」

 スマホの表面を軽くタッチし、画面をつけて時間を確認する。確かにもう夕飯の時間だ。時間の右上にある電池マークは赤くなっていて、こっちもこっちでお腹がすいているらしい。

「充電していい?コード忘れてきちゃった」
「オレまだ充電中。コードもう一個あるからそっち使って」

 「ベッド横の、あそこ」と顎で指されたサイドテーブルの引き出しを開ける。
 爪切りや体温計に、赤い箱のメジャーな避妊具。そんなものと一緒に、くるくると丸められた白い充電ケーブルが収められている。それを摘まんだところで、ふと沸き上がった違和感に手が止まった。
 違和感の正体にはすぐ行き当たった。しかし、どうにも記憶違いのような気もする。いや、でも。
 引き出しを開けたままフリーズしていると、背後から声がかかる。
 
「あった?」
「あ、うん。あった。借りるね」

 違和感ごと引き出しをしまい込んだサイドテーブルは、相変わらずベッドの隣に四つ脚を伸ばして立っている。
 電車の中で覚えた、キャスターストッパーのロックを外す感触。手の中に残ったそれが、しつこくこびりついてとれない。




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