4. ラッキーチャーム

 繁忙期御用達のコインランドリーは、マンションから駅と反対側へ五十メートルほど歩いた場所にある。住宅街を道に沿って直進するだけの単純な道程なので、特別見所があるわけでもない。
 ただ、道中に漂う香ばしい匂いで小さなベーカリーがあることを知ったり、一軒家の玄関に並んだプランターが知らぬうちに花で溢れていたり。そんなのをいちいち探していくのは楽しい。気づけた時の得したような気分がいいし、私の生活は思っているよりつまらなくないと思える。世の中には日常を本に綴り、それを出版する人もいる。私の生活や感性に商品になるような魅力はないが、せめて私自身だけが楽しめるくらいの彩りは欲しい。
 なんて言いつつ、あの店でパンを買ったことも、自分で植物を育てたこともないのだが。
 あとがきまで読み終わった本をそっと閉じる。傍に置いて、開き癖を直すためスマホを重石がわりにのせた。隣から鳴るタイピング音は少しテンポが悪くて、キーボードを見つめる横顔の真剣さとあまり釣り合っていない。

「読み終わった?」
「あ、うん」

 まつげ長いな。なんてぼんやり視線をよこしていたら、三ツ谷くんが手をとめた。ジャマしてしまったかな。もう少し控えめに見るべきだったかもという私の気掛かりをよそに、彼は「オレも休憩しよ」と大きく伸びしする。
 三ツ谷くん。彼との出会いは完全に予想外で、ここ最近で一番大きな出来事だった。出会ってから三週連続で顔を合わせている彼が、職場を除けばここ一ヶ月で一番時間を共有している人になる。
 今日だって傘を返して終わりかと思ったら彼も私も洗濯物を抱えていて、結局こうやって時間と空間を共有している。さっきまで会話もなく過ごしていたが、気まずいという感情は湧いてこない。気の置けない仲と言う訳ではもちろんないのに。不思議だ。 

「それ、どんな本?」 

 傍に置いた本を目線で指すので、スマホをどかして表紙を見せた。伏せたまぶたの先。逆光に浮かぶまつげがやっぱりうらやましい。 

「日記風のエッセイ。何冊も出てるんだけど、いつも家建てたり庭作ったりしてる」
「うわ、金持ち。有名な人?」
「作詞とかもしてるよ。『そして僕は途方に暮れる』って曲、知ってる?」

 三ツ谷くんは「知らねぇな」と言って、表紙に印字された作家の名前をなぞった。
 私が産まれる少し前の曲だから、彼が知らないのも無理はない。私だって母親の影響で知っているだけだ。 

「ジェネレーションギャップ…でもないか」
「イヤイヤ。同い年くらいでしょ」
「絶対違う。三ツ谷くんの方が若いよ。いくつなの?」
「六月で二十三」
「ほらぁ。私、五つ年上だもん」
「え、マジ?」

 文庫本をパラパラとめくっていた手が止まった。驚いた顔は演技ではないように見える。私の願望込みでそう見えるのかもしれないが。 

「いや、見えねぇわ。女の人の年齢って分かんねぇもんだな」
「ありがとう。三ツ谷くんは思った通りの年齢だったよ」 

 片方の眉だけが下がって、何か面白くないといった表情だ。年相応に見られるのが好きじゃないのかな。「まだ下っ端」と言っていたはずだから、背伸びしたいというか、そんな願望があるのかもしれない。私もたしか、彼くらいの時はそうだった。
 それから少し、お互いの話を続けた。仕事の話とか、駅前にできた整体が安くていいだとか。彼が務めるアパレル企業の商品を見せてくれて、おすすめを教えてもらったり。
 言葉は三ツ谷くんの声に誘われて、滑らかになった喉からするすると出ていく。たまにこうやって、親しくなる前からつっかえることなく会話できる人がいる。そういう人とはそのまま友達になれる事が多いけど、彼とはどうなるだろうか。
 ガコン。大きな機械音と共に、ドラムの回転が止まる。数秒の差で三ツ谷くんの方も止り、洗濯物を回収しにそろって席を立った。

「あ、」 

 それでも途切れなかった会話のリズムが、急に崩れる。ドラムから衣類を取り出した拍子に、ボタンが転がり出てきたのだ。
 転げた後ぱたんと力尽きたそれを、つまんで床から拾い上げる。特徴のない、白くてつるっとしたよくある形だ。目星をつけてワゴンからブラウスを取り出し、広げてみると袖口のボタンがない。これだ。 

「取れちまった?」
「うん。取れちゃった」

 ブラウスの寂しくなった右袖から、ちぎれた糸が情けなく飛び出している。横から骨っぽい手が伸びてきて、糸をちょんとつついた。 

「まだ時間ある?オレつけるよ」
「えっ、いいの?」
「ん。ちょっと待ってて」 

 自分の洗濯物を袋に詰め終わるとそう言い残して出て行き、数分で戻ってくる。この光景、先週も見たな。違うのは服装と、その手にあるものが傘なのかソーイングキットなのか。くらいだ。
 三ツ谷くんは「借りるわ」とブラウスとボタンを私の手から拐い、ベンチに腰掛ける。ソーイングセットから針を一本取り出して、蟻ってもぐりこめないくらい小さな針穴へと、手間取る事なく糸を通した。
 三ツ谷くんの横に座って、そのよどみない手つきを見つめる。不意に精悍な横顔がはにかんだ。

「あんま見られっと恥ずかしいんだけど」
「ごめん。手際いいから、つい」 

 迷いのない指先は見ていて気持ちいい。ずっと手芸をやってきて専門学校にも通って、運よくその分野で雇って貰えたと語っていた。その真っ直ぐな道のりを、この骨ばった指先に感じる。 

「三ツ谷くんは、目標とかあるの?」
「独立してぇかな。自分のブランド立ち上げたい」

 臆さず照れもせず、堂々と夢を語る彼の姿に胸が苦しくなった。
 服飾の世界のことはわからないが、彼はきっとやり遂げる予感がする。成りたいものに、これから成ろうとしている。自分にはないそれが眩しくて、羨ましい。 

「いいね。すごい」
「ミョウジさんは、なんかやりたいことねぇの?」

 三ツ谷くんが掲げたビジョンと並ぶようなものは、残念ながらない。
 三十歳になる前に、どうにかどこかに落ち着きたい。
 それくらいの、曖昧で漠然としたものしか。 

「う……植物、育てるとか」
「いいな。オレの会社でも扱ってるけど、どう?」

 どうにか絞り出したしょうもない目標を、そこに志の大小なんてないみたいに、明るく肯定する。きっと、彼は自分のすべきことが決まっているから、他人がどうだろうが気にならないのだ。行くあてが分からなくて足踏みしている、こんな私とはちがって。

「枯らしちゃいそうで、自信なくて」
「なるほどな。育ててみるなら、あんま世話いらねぇヤツから試すといいよ」

 「先輩の受け売りだけどな」そう言って、にっと口角をあげた。
 初心者向けのものがあるのだろうけど、朝顔くらいしか育てたことのない私にもできるのだろうか。そんな不安は些末なものだと、三ツ谷くんは笑う。 

「枯らさないよ、ミョウジさんは。そんな気する」 

 たっぷりの自信がこもっている。その声色に釣られたのか、気がつけば頷いていた。 

「じゃあ、やってみようかな」
「おう。そうして」 

 ボタンはものの数分で、魔法のような早さと出来栄えで元の位置に取り付けられた。あっという間に畳まれて、私のところに返ってくる。左の袖が見える、私の知らない畳み方だ。 

「ありがとう。またお世話になっちゃった」
「こんくらいなんでもねぇよ」 

 ほかと同じだけど新しいボタンが、袖口に止まっている。白くてつるりとした、小さくてかわいいまる。畳んだ形も含めた作品のように思えて、崩さないよう持ち帰って、慎重にクローゼットへ仕舞い込んだ。 
 それから数日後、ようやく仕事が落ち着いたので、早めに退社した。帰宅途中に少し足を伸ばしてグリーンショップへ向かい、店員さんと相談して多肉植物を選んだ。
 割らないように持ち帰った鉢を窓際に置く。厚みのある葉が花のように重なっていて、とてもかわいらしい。夏が苦手だが、越えれば花を咲かせるそうだ。無事にその花の姿を拝めるだろうか。
 身に着けたブラウスの左の手首を返して袖口を見る。すると、根拠はないのにできるような気持ちになる。 




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