3. その結末は訪れない

「俺じゃ幸せにできないってなんなの〜〜!!」

 飲み干したジョッキを下ろし、机に突っ伏したかと思うとわんわんと嘆き出した。どうやら相当酔いが回っているようだ。
 彼女は河合さんと言う。私より三年後に入社した後輩で、今は同じ部署で働いている。仕事が落ち着いたら飲みに行こうと約束をしていたのだが、先週彼氏と別れてしまったらしい。付き合うまでの顛末を知っていた私に泣きついてきたので、今日はグチに付き合うことにしたのだ。彼女はヤケクソとばかりにぱかぱかジョッキをあけていき、結果この状態だ。
 安井くん――河合さんの同期――はその背中をさすりつつ、しきりに水を勧めている。彼は元々一緒に飲む予定ではなかったが、帰りのエレベーターで一緒になってしまったために巻き込まれ、今やこんな状況だ。かわいそうに。憐れみを込めた目配せをすると、なぜか「スミマセン」と謝られた。

 「先輩、彼氏と付き合ってどのくらいでしたっけ?」

 自分をフった男への恨み節ばかりだったのに、急にこちらに矛先が向いてきた。思惑がわからないが、たぶん思ったことをいっているだだけなのでそんなものはない。酔っ払いの持つ矛は脈絡なく振り回されるものだ。

「五…いや、六年目?」
「どうやったらそんなに続くんですか?」
「……相性とか、タイミングとか?」
「いいな、私もそんな人と出会いたい」

 心底羨ましげな声色だ。そうは言うが、実際は長続きしてるから良いってもんでもないと思う。が、ずびずびと鼻を啜っている河合さんを見ていると、そんな世知辛いことは言えない。

「結婚とかするんですか?」
「どうだろ。お互いの両親には会ってるけど」
「いいな。彼氏さんエリートですよね。結婚したらセンパイ、寿退社しちゃったりして……」

 「さみしいよぉ〜〜!!」とまた声をあげて泣き出す。勝手に私の進路を妄想して悲しんでいるところ悪いが、しばらくそんな事にはならないだろうから安心してほしい。そう伝えると、「そうなんですか?」と二人とも意外そうな顔をする。

「えっと、そのタイミングは逃してるって言うか……」
「えぇ〜〜?どういうことですか?」

 泣き止んだかと思うと今度は真剣な表情になる。お酒のせいで目がすわっているが、それが真剣味に拍車をかけていてちょっと面白い。生贄状態だった安井くんはようやく解放されて、少しほっとした顔をしている。このまま平和に終わってくれればと願い、私の話をする事にした。特別興味をもってもらうほどでもない、ありふれた二十代後半のカップルつまらない話についてだ。
 終電間際に二人と別れ、自宅の最寄駅へと向かう私鉄に乗り込んだ。あの後、結局失恋の痛みをぶり返して泣きはじめた河合さんを、二人がかりで慰めることになった。
 二十代前半の失恋なんて、正直なところ全然痛手じゃない。引く手数多。余裕だよ。
 そんな感じで励ました。これ以上どうしようもできないが、後は時間が癒してくれるだろう。彼女にはまだまだ時間がある。今の私より、三年も長い時間が。
 三年前。二十五歳だったあの頃、恋人から「この家で同棲しないか」と持ちかけられた。彼は同年代の中では年収も高くいい物件に住んでいたし、勤め先も彼の家の方が近くて、魅力的な誘いではあった。しかし、学生時代を門限ありの寮ですごした私にとって、初めての完全な一人暮らしは充実していて、どうにも手放し難く、悩んだ末に彼の誘いを断ってしまったのだ。
 でも、果たしてそれで良かったのだろうか。あの時誘いを受け入れていれば、今頃左手の薬指には指輪の一つもはまっていたんじゃないだろうか。恋人に当時ほどの熱量を彼に持てなくなっているくせに、あの決断を少し後悔している。
 あの時の私は一体、あのままどうなりたかったのか。
 正解も不正解も分からないまま、日々はただ間延びしていく。今日も昨日と同じ駅で降りて、同じ道を辿って、同じ部屋に帰る。それだけ。同じ景色ばっかり繰り返して、メリーゴーランドみたいだ。
 木馬は私を乗せ、ゆるやかに駆かけていく。走っているフリ≠ネのを、同じ光景を繰り返すことで誤魔化している。申し訳程度に上下に揺れてなんかしてみせるが、実のところ土台ごと回転しているだけで、他の木馬を追い抜きも、追い抜かれもしない。
 きっと、私が選んだこの白い馬では、どこにもいけない。そんな気はしているが、降りるのも今更だ。繰り返す日々を止めるのも、止めないのも、どちらも不安なのだ。
 


 午前中に配送を指定していた宅配便の対応をするついでに、パンくずの散らばった皿をシンクに置いた。マグカップにはまだカフェオレが半分ほど残っているので、飲み終えたらまとめて洗う事にする。
 今日はやらなくてはならないことがある。先週、三ツ谷くんから借りた傘を返さなくては。
 平日は日付が変わる頃に帰宅していたので、すぐそこに済んでいるとはいえそんな時間には呼び出しづらく、気づけばまる一週間たってしまっていた。来週は雨予報だったので、雨雲が来る前にお返ししなくちゃいけない。
 時刻は午前九時になろうとしている。土曜日の午前だからゆっくりしているかもしれないが、そろそろ電話してもいい時間だろう。電話帳から『み』までスクロールし、『三ツ谷』を開いて数字の羅列をタップする。耳元にあてたスマホから呼び出し音が鳴るのを聞いていたら、急に緊張してきた。まだ出会ってまもない人に電話するのって、何かドキドキする。

 『はい』

 五回目のコール音の後、あの声がした。いつもより掠れて聞こえる。もしかして寝ていたところを起こしてしまっただろうか。

 「あの、三ツ谷くん?私、ミョウジですけど……」

 そこで思い出す。私、彼に名前を名乗ってなかった。

「えっと、私。私です。傘の……」
『ふっ……はいはい。声で分かるよ』

 自分の失態に慌ててしまい、緊張も相まって詐欺電話みたいになってしまった。三ツ谷くんは電話口で吹き出していたが、声で相手が私だと理解してくれたようでほっとする。

「よかった。遅くなったけど、傘返したいなって。今日でも大丈夫?」
『ん。いいよ、りょーかい。今から?』
「いつでも。三ツ谷くんの都合のいい時間で」
『じゃあ、準備するから十時でいい?』
「わかった。じゃあ、後で」

 トントンと予定が決まり、通話を切る。数分の通話の間にすっかり温度を失ったカフェオレを飲み干すと、カップの内側にタンパク質が凝固した膜がへばりついていた。すぐ洗っても取れなさそうなので、シンクに置いたら水を張り、しばらくしてから洗うことにする。
 十時まであと一時間。その間に着替えと化粧を済ませて、洗濯籠の中身を旅行用の大きな鞄に詰めていく。それでもまだ約束の時間まで少し余裕があったので、ソファにごろりと横になった。
 今週も今週とて、家で洗濯をする余裕はなかった。乾燥機能付きの洗濯機でも買えば、かなり便利になりそうだな。スマホで検索をかけてみるが、そう気軽に買える値段でもない。場所も取るし、そもそも我が家に設置できるのか怪しい。であれば、やはりあのコインランドリーに行く方が有益だ。買うのであれば、引越したあとにした方がいい。引越しの予定なんてないのだけど。
 他に何か便利な家電はないか。家電量販店のサイトを見ている間に時間は溶け、間もなく約束の時間になる。鞄と傘と、傘のお礼のお菓子を持って家を出た。手をつける時間は十分あったはずなのに、シンクの中のお皿とマグカップのことはすっかり忘れていた。




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