2. しのばせキャンディ、古いガム

 ああ、目覚めているな。と気づいて瞼を開いた。長く深く眠っていたようで、頭の半分はまだぬるま湯のような曖昧な心地に浸かっている。今何時だろう。サイドテーブルに手を伸ばし、半ば手探りで掴んだスマホを開くと、もう正午を過ぎていた。いい時間だ。けれど起き上がる気になれず、枕元にスマホを置いてもう一度体を丸める。メッセージが届いている通知があったけどそれは無視した。
 眠りは深かったが、連日の終電帰りの疲れは完全回復、とは言いがたい。もう少し眠れるなら眠りたくて、シーツの上を無意味に転がってみる。すると、気持ちとは裏腹に意識は次第に覚醒してきて、昨晩化粧を落としただけの体の不快感が気になってきた。

「シャワーしよ……」

 目を覚まして十数分後、重い泥の中から這い出るようにして、ようやくベッドから起き上がった。キッチンで水を一杯飲んでから浴室へ向かう。汚れを落として清潔にしても、体に残った疲労感と怠さは完全には洗い流せなかった。昨日、まともなご飯も食べず床につき、昼まで眠っていたのだ。エネルギーになるものは何一つも体の中に残っていない。
 浴室を出て冷蔵庫をあさり、目についた冷凍のパスタを電子レンジにかけた。出来上がりを待つ間にスキンケアをして、なお余った時間で通知のあったメッセージの内容を確認する。ここ最近会っていなかった恋人からだった。
 『土日空いてる?』
 簡素なメッセージは昨晩、ちょうど私が帰宅した頃に送信されていた。数秒考えて返信をする。
 『ごめん。疲れたからゆっくりしたい』
 既読もつかなかったし、こちらの状況も知っているから、あちらも私の状況は察しているだろう。自分の時間なんてほとんどなかったから、この週末は誰にもじゃまされずに過ごしたい。
 調理時間が終わるまでの手持ち無沙汰を埋めに、メッセージを遡っていく。最後に会ったのはもう二ヶ月以上前だった。疲れているからこそ会いたい。と思っていた時期もある。けれど長年の付き合いを経た今、もはやそんな甘酸っぱい気持ちもすり減って、いつしか消えた。誘いを断ることにはもう、ためらいもない。
 出来上がったパスタを皿にあけて食卓につく。食事のお供にと何となしにつけたテレビでは、昨年の秋に放送された番組が再放送されていた。不思議な世界で繰り広げられる物語を、サングラスがトレードマークの大物タレントが案内していく。放送当時に見た記憶があるが、肝心の結末ですらうろ覚えな程度だ。これが二度目の視聴だが、どうせこれも記憶に残らないのだろう。そう思ってチャンネルを一周させるが、他にめぼしい番組もない。仕方なく先程のチャンネルに戻って、不可思議に翻弄される人々を眺める。
 フォークにパスタの最後の一口を巻き付けつつ、昨夜見ないふりをした洗濯籠のあふれ具合を思い出す。
(洗濯しにいこう)
 白いパーカーに袖を通し、洗濯籠の中身を大きな鞄に詰める。肌着のまま食事をしていたのは、このパーカーが外に着ていける最後の一枚だったので、汚したら面倒だと思ったからだった。



 土曜午後のコインランドリーは繁盛していた。ほぼ全ての機械が稼働しているせいか、いつもより洗剤の匂いが濃い。空いていた洗濯乾燥機に洗濯物を突っ込み、投入口に間違いないことを確認してから硬貨を流し込んだ。あの日から慎重にお金を入れるようになっている。
 ぐいん、とドラムが回りはじめたのを見届けて、ベンチに腰掛ける。今日は下着も入れているから、念のために終わるまで見届けるつもりだ。洗濯ネットに入れているから外からは見えないけど、万一のことを考えると気分は良くない。だから、一旦帰らずに待つことにしたのだ。お供にと持ってきた本を広げる。一ヶ月前に購入したこの本に、やっと手をつけることができた。
 並んだ機械たちが忙しなくノイズをたてている。こんな場所で読書なんて。と思うかもしれない。しかし、案外このノイズが心地よい空間を作ってくれて、私にとっては捗るのだ。ちょっと贅沢な時間だとすら感じる。紙上に浮かぶ文字を追追いかけて没頭し始めた頃、折り重なる環境音とは違う音が転がり込んできた。

「あれ、この前の」
「あ、どうも」

 十日ほど前に聞いたことのある声だった。先日の『アパレル業界で下積み中』の彼だ。今日は畳んだ掛け布団を抱えている。大物洗い用の洗濯乾燥機が埋まっているのを見て「マジか」と呟いた後、布団を作業台に下ろした。

「右端のやつ、もうすぐ終わりそうですよ」
「そうっスね。終わるまで待つわ」

 隣のベンチに腰掛ける。その動きに合わせて、ネックレスのチャームが揺れた。ゆるめのTシャツにスウェットという出立には不釣り合いに見えるが、つけっぱなしにしているのかもしれない。

「また会うと思わなかった」
「ほんと。ちゃんとした格好すればよかった」
「別に変じゃねぇと思うけど」

 外出するための最低限の身だしなみに、上から下までサッと視線を通される。下ろしたての白いスニーカーを見て「靴だってキレーだし」とさらりと述べるあたり、やはり服飾に携わる人なのだろう。この人がお洒落しているところは、どんな感じなんだろう。

「服が洗えてなくて…もうこれしか着れるのが残ってなかったの」
「まだ忙しいんだ?」
「んー、山はもう越えたって感じかな」

 栞を挟んで本を閉じる。上にズレた表紙カバーを直してから、作業台の上に置いた。

「ジャマしちまったな。気にしないで読んでて」
「いや、今じゃなくても読めるから」

 また本を開く気には、不思議とならなかった。

「ここに住んでるんですか?」
「そう。ダチが不動産やってて、ソイツらの紹介で」
「へぇ」
「ソイツら昨日うちに来たんだけど、布団汚して行きやがってさ。何が『引越し祝い』だよ。フザケンなって」
「あー、それで……」

 作業台に置かれた布団を見やるが、「今日も仕事のくせに、バカみてーに飲みやがって」とグチるのを聞いて視線を逸らす。つまり、そういうことだろう。ちょっと嫌な想像をしてしまった。
 イビキがうるさかっただとか、寝る場所取られて床で寝ただとか、昨晩のことを色々と話してくれる。そのうちに右端のドラムが止まり、程なくして持ち主が現れた。洗い立ての衣服を鞄へぎゅうと詰め込んで、足早に去っていく。
 出ていくまで何となく話をやめて黙っていたが、あの人はそのせいであんなにせかせかしていたのかもしれない。会話の余韻が残ったままの沈黙は、割り込んでしまった側には気まずいものだ。あの人、帰宅したらくしゃくしゃにシワがついたシャツを広げて、ゲンナリするんじゃなかろうか。
 隣の彼は立ち上がり、空いた洗濯機に布団を放り込んで、また戻ってくる。 

「どこらへん住んでんの?ここじゃないよな」
「すぐ近くのマンション。この通りの……」

 方向を説明しようとして通りに目を向けると、なにやら外が暗い。目を凝らすと雨が細く走っている。みるみる粒が大きくなって、アスファルトは濃い色に染まっていった。歩道を行く女性が頭上に傘を開く。

「あー、そういえば雨予報だったな」
「そうだったんだ。どうしよう……」
「もしかして、傘ねぇの?」
「うん」

 家を出た時は少し曇っているくらいだったのに。天気予報を見ておくべきだったと後悔する。最悪、自分が濡れて帰るのはいい。だけど、数百円とはいえお金をかけて乾燥まで施した洗濯物が濡れてしまうのはゴメンだ。どうにか無事で帰宅できないかと、脳内で帰り道をシミュレーションしてみる。アスファルトは私の足掻きなんてまるで無視して順調に雨に浸り、薄く張った水が景色を鈍く反射しはじめた。

「ちょい待ってて」

 彼は応答する間も無く席を立ち、店内から消えるが間も無く戻ってきた。手には黒い折り畳み傘を携えている。

「どーぞ」
「……いいの?」
「だって、スゲェ降ってんじゃん」

 にっ、と音がつきそうな笑顔だ。それを見ると断ってはいけない気持ちになって、おずおずと傘を受け取る。「そこの傘立てに置いといてくれればいいから」と続けたが、それは遠慮させてもらいたい。傘なんてすぐ盗まれるのだ。間に合わせにコンビニで買ったようなビニール傘ならともかく、数千円しそうな傘を、盗られるかもしれない場所に置きっぱなしにするなんて。ビニール傘ならと食い下がるも、「それしかなかったから使って」と返ってくる。

「じゃあ、オレの連絡先教えるから、返せる時に教えてよ。非通知でいいし」

 少し考える。
 傘は素直に借りた方が絶対にいい。安いものでもないし、借りるなら確実に持ち主に返したい。私から連絡する時は非通知でいいと言っている。
 各要素から考慮して、連絡先を教えてもらうことにした。連絡帳の登録画面を開いてスマホを手渡すと、「こういうの苦手なんだよ」と苦い顔をする。結局、横で指示をしながら登録してもらったのだが、風貌にそぐわない指先の辿々しさには、思わず好感を抱いてしまった。

「三ツ谷くんって言うんだ」
「そ。サイダーじゃないほうな」

 人好きのする笑顔で見送られ、男性用の大きな傘に守られた私は、無事に洗濯物を持ち帰ることができた。雨を受け止めてしっかり濡れた傘は、開いた状態にして浴室に置いて乾かしている。
 少しためらったが、借りてしまえば本当にありがたかった。返すときには何かお礼をしよう。あのくらいの男の子が貰って嬉しくて、かつ気軽に受け取れるものってなんだろう。
 あまり出会ってこなかったシチュエーションに頭を悩ます。調べてみればいいか。そう思ったところに、メッセージが届く。恋人から、『了解』とだけ。スタンプを送ってアプリを閉じかけて、そういえばこの人に聞けばいいじゃないか。と思い立ち、メッセージを返す。
『二十代前半の男の子がもらってうれしいものってなに?』
『急に何。浮気?』
『借り物したお礼だよ』
 付き合いたての頃に『浮気?』だなんて言われたら、冗談でも傷ついて、否定したと思う。でも、今やこんなもんだ。傷つきも弁明もせず、流してしまう。これは信頼故か、それとも馴れ合いなのか。長く続けた恋人関係に曖昧にされて、どちらであってもピンとこない。ただきっと、確実に停滞はしているのだろう。
 ここ最近で新しくなったことといえば、私の洗濯物の畳み方が上手くなったくらいだ。




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