番外編 あなたの知らないあなたのこと

 しがらみのないただの友達のありがたみに、大人になってから気づいた。なんの責任もないモラトリアム真っ盛りに友人になり、それから時が経った今でも再会すれば当時の空気に戻れる。そんな友人関係を得られただけでも、大学に通った意味があったんじゃないかと思う。
 空気感だけは過去から引っ張ってきたみたいな、でも当時よりは落ち着いていて潰れるような飲み方をする人もいない酒の席。そこに突然、全く異質な人が現れたものだから、もういい時間だというのにこの場は再び盛り上がりを見せている。

「ウワサの彼氏くんだぁ」
「マジ?例の、年下の?」
「え、待ってイケメンじゃん!」

 三ツ谷くんから「近くで飲んでるから出るとき迎えに行く」と連絡がきたのは、今から三十分ほど前のことだった。もうそろそろだと返事をしたのになかなか抜けられそうにない私を見かねて、ここまで迎えに来てくれたのだ。
 もう飲み始めて二時間ほどたっていて、おしゃべりはとうに温まり切っている。みんなその温まった口で次々に思ったことを言うもんだから、私はそのどれにもろくに反応できずに曖昧に笑うので精一杯だった。一方の三ツ谷くんはと言えば、今まさに皆の注目を一身に浴びているというのに、意に介さない様子で「どうも」なんて言って見せている。その涼しい顔にもきゃいきゃいと沸き立っているもんだから、女という生き物はいつまでたってもこの手の話が好きなのだと思う。

「ちょっと〜こんな子どうやって捕まえたわけ?」
「なんか悪りぃことしてんじゃねーだろうな」
「たぶらかしてたりとか?」
「ちょっと、失礼だな」

 帰り支度をしようと座席下の荷物カゴに手を伸ばしたその側から、やいのやいのとちゃちゃが入る。酔っ払いたちめ、からかいやがって。と思いつつも、私も本気で嫌がっているわけじゃない。昔からずっとこんなノリだし、彼らも私を貶めようとしているわけじゃなくて、ただの気楽なおふざけなのだ。ぞんざいな物言いを気にも留めずにこちらも気楽な調子でヘラヘラとしていたら、後ろから伸びてきた三ツ谷くんの手が私よりも先にカゴの中から鞄をさらっていった。

「オレが捕まえた側なんで」

 ほいと私に鞄を手渡して、さらりとそう言ってのける。そのしれっとした言い様にもまたきゃあと声が上がって、それを冷静な誰かが「しっ!声大きい」と咎めていた。

「ねー彼氏くんもちょっと飲んでいってよ。一杯だけ!」
「せっかくですけど……」
「ほら、ナマエのもまだ残ってるし」
「いや、それ勝手に頼まれたんですけど」

 もうそろそろ出ようかなというところでつかまってしまったのは、三ツ谷くんの話をしたからだ。長年付き合った相手と別れて、そして今度の恋人はいくつか年下となると話題性は抜群なわけで。隣の席のひとりに話したのがものの数秒で広がり、「もう一杯飲んで帰れ」と勝手に焼酎の水割りを頼まれてしまった。それから間もなく三ツ谷くんが来てくれたから助かったと思ったのだけど、またおかしな方に話が向かっている。
 まさか、こんな誘いに乗ることはないと思うけど。傍らに立つ三ツ谷くんをちらりと見上げる。三ツ谷くんはこちらを見ることなく、まだ七割ほど残っているグラスを掴んだかと思うと一気に飲み干していく。筋張った首筋を喉仏が何度か上下し、空になったグラスが机に戻されるまでのその一連を、あっけに取られてただ眺めていた。

「ゴチソウサマです」

 ニヤリと片方の口角を上げた三ツ谷くんに手を引かれ、はっとして席を立つ。財布から抜き取った五千円札を残してじゃあねと去る私に、誰も文句は言わなかった。

「なんか、ごめんね。来てもらっちゃって」
「ん。楽しかった?」
「うん」
「じゃー、よかった」

 そう言ってほほ笑んでくれるけど、本当はそう思ってないんじゃないかって、なんとなくそう思った。あんな風に絡まれてウザかったかなと、今さらながら思う。だけど、店を出るなり当たり前みたいに右手を取られると、そういうことはうやむやになったような気がして聞けなくなってしまった。



 帰宅してからものの数分で、私の体はベッドへと沈んでいた。私の意思ではなく、三ツ谷くんの導きによって。
 靴をしまったり手を洗ったり、帰宅後のあれこれをしつつもどこか落ち着かない様子だった三ツ谷くんは、私が鞄を定位置に戻したところで「ナマエさん、来て」と私の手を取った。痺れを切らしたみたいなその仕草に若干の不安を煽られつつも、されるがままについていく。リビングと繋がった寝室へと連れ込まれたかと思ったらベッドへと座らされ、のしかかるような形で押し倒されたのだ。

「わっ!」

 予想外の勢いでベッドに倒れ込んだから、思わず声を上げてしまった。体をまるごと私に預けるように覆い被さっている様子からは、「押し倒す」という字面から受け取るほどのいやらしさは感じられない。首筋に頭を埋める仕草もあいまって、飼い猫が気まぐれに甘えてきたような印象だ。どっちかといえば、三ツ谷くんは猫より犬っぽいなと思うけど。
 頬に触れる柔らかな髪がくすぐったい。一体どんな心情かは分からないが、こうやって分かりやすく甘えられれば甘やかしたくなるというものだ。私よりも数段しっかり者な三ツ谷くんのこんなところは珍しいから、なおさら甘やかしたい。頭を撫でてみる。すると、小さなため息をついてぐっと体を起こした。彼も飲んできたと言っていたが、そのせいだろうか。見下ろす瞳が揺らいでいる。

「……いつもあんなこと言われてんの?」
「え?」
「たぶらかして捕まえたとか、悪ィことしてるとか」

 友人たちから浴びた言葉を思い出す。言葉そのものはあまり品のいいものじゃないけど、それは私と彼らの関係性からそうなっているもので、茶化しはすれど本心から貶めているわけじゃない。私はそうだとわかる。でも、三ツ谷くんは違う。今日初めましての彼らが実際どんな人達なのかって、雰囲気は感じられこそすれわかるはずがない。どうやら、店を出た時のあの感覚は間違っていなかったようだ。

「本気でそう思ってるわけじゃないよ。でもやっぱ、久しぶりに会ってこうなってたら気になるみたいで。ほら、馴れ初めとか」
「でも、オレじゃなかったら言われねぇだろ」

 シーリングライトの光を背景に三ツ谷くんを見上げる。これまで何度かこの光景を見てきたけど、彼のこんな表情を見るのは初めて触れたあの日以来だった。自信と余裕を見せつけてくるいつもの顔はなくて、どこか不安気な瞳には見下ろされているというのに庇護欲を掻き立てられる。そして彼の思うところも、ぼんやりと分かった気がする。
 三ツ谷くんと私の関係性において、気おくれしているのは私だけだと思っていた。街中で彼と同い年くらいの女の子を見るとはっとして、胸が苦しくなる時がある。うらやましいし、なんなら妬ましくもある。そんな自分を客観視して落ち込みもする。今は私のことが好きでも、きっといつかそのうち。とつい悲観的になってしまう。もしかしたら、三ツ谷くんにも不安になる瞬間があるのかもしれない。付き合うときも「いい人見つかるまででいい」なんて言っていたし。
 私がひっそりと自信を無くしても、それをそっと救い上げてくれるのはほかでもない三ツ谷くんだ。惜しみなく愛情を示してくれる彼のおかげで、私でいいんだと思える。だから、今日は私がその想いに応えたい。
 三ツ谷くんの頬に手を伸ばす。そっと触れた肉感のない頬は紛れもなく男の人で、でもやっぱりまだ少年のような、不確かな柔らかさを残している。そういうところをもっと見せてほしいと言ったら、嫌がられるだろうか。

「わたし、三ツ谷くんのことすごく好きだよ」
「……」
「それじゃダメかな」
「……それはズルくねぇ?」

 降参ですといった風に困った顔で笑って、再び首筋に顔を埋めた。かわいかったからもう少し顔を見せてほしかったなと思うけど、そんなことよりも私の好きな顔で笑ってくれたことの方が嬉しくて、幸せだった。それは今までに抱いたことのない喜びで、三ツ谷くんだから知ることができたんだと思う。大げさだけど、誰かを守りたいって、きっとこういう気持ちだ。遠慮なく預けられた体だって受け止めてやる。いやでも、正直言うとちょっと重いけど。

「ほら、起きよ。寝る前にお風呂入らなきゃ」

 背中を軽く叩いてそろそろどくようにと伝えてみるも、離れていく気配がない。むしろ頭を抱き込むように手が回ってきて、密着度がもう一段上がったように思う。なんか、ほんとに珍しいなぁ。なんて微笑ましく思う気持ちは、がぶりと耳を食まれた途端に掻き消えた。

「……シたいんですけど」
「え、今?」
「うん。今」

 ついさっきぶりの見下ろす視線は、先ほどとはまた違った色に揺れている。こちらの出方を伺うような、でも受け入れてもらえるのを確信しているような視線は、自分の武器をわかっているようで憎たらしい。そしてズルい。私はきっとまた翻弄されて、それに満たされて、戻れなくなってしまう。
 
「大丈夫?お酒飲んでるのに」

 彼の良いようになるのがちょっぴり悔しくて、気遣いを装って挑発をぶつけてみる。私はそのままのあなたの、別の顔も見たいのだ。三ツ谷くんは一瞬きょとんとしたあと、口角にいつもの勝気を浮かべてにやりと笑った。

「オネーサン、舐めてもらっちゃ困るな」

 さっきまですがるようにシーツの上に投げ出していた腕を、今度は囲いこむようにしてベッドにつく。瞳の奥に私がつけた炎が確かに揺らめいていて、それを見て気づく。
 不安気な時も、強気な時も、三ツ谷くんは想いの芯は変えることなく、私を見つめていた。




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