19. 私だけが読む手紙

 不意に目が覚めた。目が覚めてはじめて眠っていたことに気がつくような眠りだった。ほんのうたた寝だったのに、長い夢から覚めたような感覚がする。気配のない部屋と身体に残る名残のちぐはぐさは、正に夢から目覚めた時のそれだった。
 ひとりきりなのだと理解した。不思議と悲しくも寂しくもなかった。もぞもぞと起きあがって、ベッドの角にくちゃりとまとめられた衣服に手を伸ばす。こうやって下着をつけるのって、すごく間抜けだ。脱いだ時はとてもドラマチックな気がしたのに、終わってしまえばドラマの外側。日常に帰ってきてしまった。なのに、身体と心のそこかしこに、まだ残っている。なんでもないTシャツと私の間に、三ツ谷くんが。
 三ツ谷くんは、焦ったくなるくらいに優しく、私に触れた。誰かにこんなにも大切そうに触れられる事があるなんて、想像もしていなかった。強張りながら、でも止められないのだと言った三ツ谷くんの、少し不器用で柔らかな手つき。繋がりをほどいた後に身を寄せ合った時の、愛おしいものを見るような視線。どれも全部、私のものになったらいいのにと思った。残ったものは、その名残だけだったけど。
 バチが当たったんだと思う。目を逸らして言い訳してきたのに、求めてしまったから。抗えないくせに、取り繕おうとしたから。素直になればいいだけだったのに、しなかったから。最後の最後に名残惜しくなって、欲しがってしまったから。
 充分に大人になったと思っていた。分別があって、少しは酸いも甘いも知っているから、痛い目を見ることも減ったと。だけど、実際はこんな有様だ。じわりと歪む視界は、私自身の愚かさを悔いてのことだ。
 ぽっかりと何かが抜け落ちたような感覚ごと膝を抱える。抱きしめた胸の内は瓦礫のようにめちゃめちゃで、一方で打ち捨てられたように静かだった。時間をかけて整頓しなくては。今は出来なくても、いつかできるようになった時には。
 重いため息をひとつついて、ベッドから降りようと膝を崩したその時だった。玄関の鍵が回る音に、ドアの開く音が続く。数歩分の足音に添えられたビニール袋が擦れる音。私に残る感覚と、白いTシャツを纏った姿かたちがリンクする。
 三ツ谷くんが、また私の前に現れた。
 その姿を認めた途端、水位があがってあふれ落ちた。生ぬるさがつたい落ちていくのを感じて、はじめて泣いているのに気づいたくらい、急激で簡単なことだった。姿を見るなり涙を流した私を見るや、三ツ谷くんは分かりやすく動転して、ビニール袋を適当なところに置いて此方へとやってくる。ベッドに片膝をついて近づき、こちらへ手を伸ばしかけてやめた。
 分かりやすく狼狽している三ツ谷くんの様子を見たら、少し落ち着くことができた。他人が焦っていると、逆に自分は冷静になれるものだ。

「起きたら、いなかったから……」

 そう告げるとほっとした顔で、「よかった」と呟いていた。狼藉を働かれたと泣いている。とでも思って、あんな顔をしていたのかもしれない。濡れた頬を拭っていたら、ベッドサイドに置いていたティッシュケースからいくつか抜き取って手渡してくれる。

「コンビニ行ってたんだよ。冷蔵庫になんもなくてさ」
「うん。ごめん」

 麦茶のパックのラベルがビニール袋から透けて見える。三ツ谷くんが買い出しに行った所で目が覚めて、その状況を早とちりしてさめざめとしていたのだ。
 そうか、そりゃ。そんなことしないか。いくら私に自信がないからって、三ツ谷くんにそれを押し付けるなんてするべきじゃなかった。情けない。だけど、杞憂だとわかって安堵もしている。
 目をつぶって押し出した涙をティッシュに吸わせる。急にあふれ出したのと同じくらい、はたりと引いていった。水気を吸ってへたったティッシュを丸めて握る。そこにそっと重なった手のひらの仕草は、鮮明に覚えていたそれそのものだった。

「オレ、ナマエさんのこと好きだよ。わかってると思うけど」

 三ツ谷くんはいつも、こっちを見てくれる。ねじ曲がる隙のない言葉は、抵抗なくするすると私の胸に飲み込まれていく。頷くと、小さく笑った。

「でも、オレこんなだし。ナマエさんが望むようには出来ねぇだろうから、オレじゃねぇなって」
「望むように?」
「『三十までに結婚したい』って言ってた」
「え、」
「酒飲むといつも言ってたよ」

 思わぬ所で酔った自分の様子を突きつけられて、途端に恥ずかしくなる。覚えはないけどたぶん言う通りなのだろう。実際そう思っていたし。
 恥ずかしさから「うそ……」とこぼしたら、「うそじゃねーんだわ」と軽く笑われる。そこにほんのりと加わる苦味は、三ツ谷くん自身に向けられている気がした。

「でも、抑えらんなかったわ」

 ベッドにあがった三ツ谷くんが、私へと身体を寄せる。抱き寄せられて感じ取れるのは、ホットミルクのような体温だ。

「オレのこと彼氏にしてよ。いいヒト見つかるまででいいから」

 気弱なお願いに小さく首を横に振る。つなぎの恋になんてするつもりはない。あると思えばある。ないと思えばない。そんな不定形なしがらみを解いた裸の心は、三ツ谷くんの手を取ることを選んだのだから。



「はじめて会った時のこと覚えてる?」

 問いかけは右耳のすぐ後ろからだった。
 三ツ谷くんがベッドの上で壁を背もたれにして座り、私は彼に後ろから抱き込まれる形で座っていた。少し離れたところにあるテレビには、途中になっていた最後の録画番組が再生されている。ソファに座った方が見やすいのだけど、人肌に包み込まれる幸福感には代えられない。
 はじめて会った日のことは、もちろん覚えている。疲れ切った私がおかしな失敗をして、三ツ谷くんと出会った。あの時は、まさかこんなふうに離れがたくなるなんて、想像もしていなかったけれど。
 覚えているよと頷くと、ふっと笑う吐息が耳をくすぐる。なんとなくだけど、照れている気がする。

「実は、それより前にナマエさんのこと知ってた」
「そうなの?」
「そう。オレもあそこ使ってたから」

 知らなかった。でも、ふたりともあのコインランドリーは度々利用していたのだ。そのうちに「何度か見たことある人」になっていてもおかしくはない。どちらかと言えば、私が三ツ谷くんを認識していなかった方が不思議だ。
 三ツ谷くんの指が私の手のひらをくすぐる。そこに気恥ずかしさが感じられて、この人をかわいいと思ってしまうのだ。

「袋から洗濯物突っ込んで、扉閉める前にブラウスかなんか取り出して洗濯表示じーっと見ててさ。どうすんのかと思ったら、一回中に戻しかけてやめて、洗濯しないで持って帰ってた」

 そのエピソードがいつの事かは分からないが、なんとなく身に覚えがあった。適当に袋に詰めて持ってきた中に紛れていた白いブラウス。それをあのパワフルな洗濯乾燥機に入れるのが不安で、少し悩んでやめた。三ツ谷くんはそのシーンを覚えていたと言うわけだ。
 三ツ谷くんの指が、まだ私をくすぐっている。

「なんかかわいくてさ。あの人近くに住んでんのかな。また会ったら喋ってみてぇなとか、そんなこと思ってた」

 お腹にまわった腕がかたく巻きついて、ふたりの隙間が小さくなる。少し高くなった人肌から伝わる何か。それに言葉で答えるには、私の人生はあまりに不十分だ。代わりに名前を呼ぶと「ん?」と短い返事が返ってくる。

「明日、お休み?」
「うん」
「新しい家の荷解き、手伝ってくれたらうれしいな」
「ふ、仕方ねぇな」

 いつだか三ツ谷くんと話した家具の配置のこと。明日、その続きをしたい。明後日も、その先も。私の行方がどうなろうと、これが最良の選択なのだ。そう決めた。誰が何がではなくて、私の、私だけの心で。




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