18. 包み紙は溶けていく

 土曜日の昼さがり。穏やかな晴天の日だった。
 三ツ谷くんは予定通りの時間にやってきた。いつか約束したレコーダーを引き取るためだ。
 以前招き入れた時よりも、部屋の中はさらに段ボールだらけになっている。そんなところに招き入れるのはどうかと思ったけど、引越しは明日なのだからどうしようもない。それに、玄関で物を渡してあっさりお別れするには、私たちは親密になり過ぎている。明日にはここを離れるのだし、こんな部屋でもいいならお茶でもと考えていたけれど、それ以前の問題が残っていた。

「何見てんの?」

 上京と共に購入した十年物の液晶テレビには、画質の粗い映像が映し出されている。数ヶ月前に再放送された旅番組を、面白そうだと録画していたのだ。アナログ放送だった時代に放映された物なのだろう。横長の液晶に合わせるように調整された結果、画面の上下が黒く切れている。

「ごめん、まだ全部見終わってなくて……」

 今日のこの時間に取りに来ると言われていたのに、録画された番組がまだ残っている。自分の見通しの甘さに辟易しつつ、悪あがきで朝から流し続けていたのだけど、とうとう間に合わなかったのだ。
 三ツ谷くんはテレビ画面を覗き込みながら「あとどんだけあんの?」と声だけを私に投げる。

「これと、もう一個」
「オレもそれ見てっていい?」

 振り返った彼の笑顔は少年のように眩しくて、大人のようにやわらかい。やっぱり、どうにも私はこの笑顔に弱いようで、視界から体内へと何かがじわじわ広がっていくような感覚になる。それは幸せや高揚感、苦しさや切なさなんかをちょうどよく配合した何かで、今の私にそれを与えるのは三ツ谷くんだけなのだ。だから欲しくなってしまう。身に余るものなのに。

「もちろん。ソファどうぞ」

 ふたりがけのソファを指す。約束通りに準備のできなかった私が悪いのだし、断る理由はない。でも、それだけじゃなくて、あともう少しだけでいいから一緒に居たかった。あの二次会の時に心はぽっきりと折れたと思っていたのに。なんとも未練がましいものだ。
 だから、せめて見せかけくらいはきれいでいたい。幸せよりも痛みの鳴る胸を押し殺して、三ツ谷くんに見ていてほしい私を演じる。私は大人で、だからちゃんとわかっているし、弁えている。遠くて掴めない、夏だけの陽炎みたいな恋だったって。
 ほとんど空になった冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を注いで、ソファの前のテーブルへと運ぶ。ソファの空いている方へ腰かけると、隣が埋まっているせいか、沈み込み方がいつもと違うように感じた。

「ナマエさん好きだよな、これ」

 三ツ谷くんが述べたのは、テレビに映し出された異国の地の代表的な料理についてである。確かに私はこれが好きで、というよりこの系統の料理全般が好きだから、この番組に目を付けて録画していたのだ。

「よく知ってるね」
「頼んでたから。どこの店か忘れたけど」

 そう言われて記憶を探るけど、一体いつどこでの出来事だったか思い出せない。きっとどこかの居酒屋のメニューにあったのを、好きだからと言って注文したのだと思う。いくつかの食事シーンをたどる私のことを、三ツ谷くんはくすりと笑う。

「覚えてねぇかも。そん時ナマエさん、すげー酔ってたし」
「やだ、忘れてよ」
「それはむり」

 こうやって意地悪く口角をあげた表情を幾度も見てきた。気軽に私を揶揄う距離感は、甘いけど苦しい。視野が狭くなって、自分の気持ちだけが鮮明に見えてしまう。いつの間にか根を張って大きく育ったこれを手放すことは、たぶん私にはできない。でもきっと時間が経つうちに忘れて、たまに思い出すだけになるんだと思う。見送る人がだんだんと遠ざかっていくように、薄いベールを重ねていくように。時間って、距離だから。
 旅番組は終わり、最後の録画データが再生される。アンティークジュエリーのバイヤーが、買い付けのためにロンドンの蚤の市へと赴いていた。画面比も元に戻り、出演している女優のメイクも今風になる。

「いいな、すてき」
「こういうの好き?」
「うん。いろんな人の手に渡ったものが縁あって私のところに来るって、すてきだよね」
「……オレは、ナマエさんのそういうところが好きだよ」

 息をのんだ。というより、呼吸を忘れた。三ツ谷くんの言葉は毒のようで、体も心もじんじんと痺れさせる。目の奥もやられているようで、熱くて痛い。何か答えたいけど、喉を震わせた瞬間にせき止めていたものが決壊しそうだった。
 数秒の沈黙の後、三ツ谷くんは居住まいを直す。先ほどよりも距離が近づいて、ソファの上でお互いの小指の体温だけが触れ合っている。名前を呼ばれて顔を向けると目が合う。視界に映る三ツ谷くんの顔が、ほんのりと滲んでいる。

「引っ越し先、こっからどんくらいだっけ」
「一時間、かかんないくらい」
「そっか……用事ないといかねーようなとこだよな」
「……そうだね」

 ここも、引っ越し先も、住んでいなければ立ち寄ることもないような場所だ。用もないのにふらりと立ち寄ることはないだろう。
 表面だけがかろうじて触れ合っていたような小指が、手繰り寄せるようにして絡められた。ささやかに絡まった指は熱くて、そこから溶かされてしまうのではないかと思った。私を保つ薄膜がどんどん薄く、弱くなっていく。三ツ谷くんまでがそんな、悲しそうな顔をするから。

「オレたち、もう会わなくなんのかな」

 水風船がはじけるみたいに簡単だった。制御する暇もなくあふれ出して、視界は水中に沈んでいく。見られまいと顔を伏せるが、何もかももう手遅れだ。
 そっと頬に触れた手のひらが熱い。珍しく指輪を付けていないまっさらな手は、すぐそこに骨を感じるのに柔らかい。涙をぬぐう手つきが優しくて、余計止まらなくなってしまう。

「オレは、会わなくなんの寂しいよ」
「……」
「ナマエさんは?」

 穏やかな、でも切なげな声が胸に迫る。飾り気のない裸の言葉は、私の心を簡単に揺すぶって、壁を崩してしまう。
 色んな理由を探してあきらめようとした。こんな私が三ツ谷くんと一緒にいて、後ろ指刺されるのが怖かったから。その年齢で、その年齢差で。これからの事を何も考えていないのかとか、きっとそういう風に思われるのだと怖くなったから。あきらめたほうが傷つかないと思っていたのだ。本当は、ほんの少しの時間だけ取り繕うこともできないくらい、大好きになったくせに。

「わたしも、さみしい」

 しゃくりあげるのを抑えて絞り出した声は、どう取り繕うにもみっともない。けれど、これがありのままなのだ。
 小指だけを絡めていた手が他の指も手繰り寄せて、全体を包み込んで行く。

「ナマエさん」

 再び名前を呼ばれて顔をあげると、残った涙が瞳の淵からこぼれていった。
 三ツ谷くんの瞳が深く揺らめいている。私が欲しいと思ったものがそこに見えた気がして、ゆっくりと瞳を閉じる。淡く触れ合って離れた唇は短い溜息をひとつついて、もう一度押し付けられた。繰り返すたび、押し付けるだけだったのが食むようなものに変わって、合間の吐息でさえ触れ合って離れない。今までこうしなかった分を何度もされているようだ。
 受け入れているうちに、背中と頭がソファへと沈んでいた。絡み合った指先をきゅっと握り返す。すると我に返ったように口づけるのをやめて、心残りのようにもう一度だけ触れ合ったあと、三ツ谷くんはこつんと額をあわせた。

「……ごめん。止まれそうにねぇわ」

 切羽詰まったような声色を初めて聞いた。触れ合っている鼻先が、心なしか震えている気がする。

「イヤだったら、ちゃんとイヤがって」

 視線をあげた先で、こちらを伺うような視線と至近距離でかち合う。それが年相応の頼りなさのようで、どうしようもなく愛おしかった。
 イヤなことなんて何もない。だから、どうかこのまま。その想いを託して重い頭を持ち上げる。再び触れたのを合図にしたら、今度はもう止まることなんてなかった。
 この後のことなんて微塵も考えられない。目の前のこの人が欲しい。ただそれだけだった。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -