16. 月の向こうのオパール

 引っ越しの準備を進めていくにつれ、部屋はどんどん不便になっていく。少しずつ不用品を処分しているから物は少なくなっているはずなのに、段ボールが積み上がった部屋はいつもよりも狭く、圧迫感がある。後で中身を取り出すこともまだあるかと思って封をせずにいるけど、箱の中から取り出してまた仕舞うというのは、何がどの箱に入っているかわかっていても面倒なことだ。いつもの場所にないというのも、煩わしさを増大させる。
 とはいえ、この不便さも引っ越し当日まで。あと二週間後にはもっと広い部屋で、悠々と過ごせるはず。それまでの辛抱だ。
 そう思っていたところに、予定外の段ボールがひとつ増えてしまったのは昨日のことだ。実家から送られてくる荷物は普段だったらとてもありがたいのだけど、このタイミングではもてあます。もっとも、送り主の母は私が引っ越すことを知らずにいたのだから、どちらかといえば悪いのは私なんだけど。
 このタイミングではもてあます。と言ったけれど、本当はいつも、少しだけもてあましている。地方出身者には「貰えるから『買う』という概念がない食材」みたいなものが、ひとつくらいはあるのではないかと思っているが、そうやって手に入れた野菜を、母はお裾分けとして送ってくれるのだ。
 野菜やお中元で頂いたらしい日用品と、その隙間を埋めるかのようにねじ込まれたお菓子なんかで、段ボールは見事なまでにいっぱいになっている。一度にこんなに送ってこられても、一人暮らしの身では消費するのも一苦労だ。毎回そう思うのだが、あれもこれもと詰め込まれた箱の中に親心が見える気がして、言い出せずにいる。余計なことは言わず、ありがたく受け取るのが親孝行かなとも思うのだ。
 頭を悩ませながらも嬉しい。そんな親心だが、今回は今までとは違う。こういう贈り物を私以上にありがたがってくれそうな人が、すぐ近所にできたのだ。事情を話すと、三ツ谷くんはすぐにやってきた。そして今、ふたりでキッチンに立っている。

「このまま煮れば大丈夫。三十分くらいかな」
「そんな火にかけてといて崩れねぇの?」
「大丈夫。くっついちゃうからたまに揺すってね」

 醤油と砂糖で甘辛くなった湯気が立つ。日本中のどこにでもあるようなこの香りがすると、どこにいたとしても実家の台所を思い出す。学校から帰宅してただいまを言う瞬間には、よくこの香りがしていた。それを今、三ツ谷くんと共有しているのが不思議だ。
 「いつもどうやって食ってんの?」というのが、ぎっちりと詰まった段ボールを覗き込んだ三ツ谷くんの第一声だった。最初は食べ方を口頭で説明していたのだが、日持ちしないものは早いところ消費したいし、だったらもう今作ってしまおう。ということになり、こうして並んで料理をしている。ふたり分とはいえ一回の食事で全て消費はできないけど、食べきれなければ持って帰ってもらえばいいのだ。

「これさぁ、ナムルにするとうまいの知ってる?」
「え、知らない。おいしそう」
「じゃあそうしよ」

 着々と、よどみのない手つきで食材を調理していく。三ツ谷くんの家に避難させてもらったあの時も思ったけれど、ずいぶんと料理に慣れている感じがする。一人暮らしをしていたって自炊をしない人は全くしないけど、三ツ谷くんはきっと日常的にやっているのだろう。

「三ツ谷くんって、料理好きなの?」

 今のこの世の中、自分で作れなくたって食事に困ることはない。この家からすぐの場所にはコンビニもあれば、駅前にはお弁当屋だってある。それでもこんなスキルがあるってことは、そうなのかなと思った。たったそれだけの質問の答えに、私の胸はぎくりとする。

「俺んち、母子家庭だったから」

 想像していなかった言葉だ。だけど、どうしてかすぐに腑に落ちた。今まで聞いてきた彼についてのことが、ひとつの物語みたいにつながったような、そんな気がしたのだ。
 私がまだ見たことのない少年の三ツ谷くんは、今よりもあどけない顔に大人の表情を宿して、台所に立っている。私は彼に、なんて声をかけるだろうか。

「そっか」

 「だから好き」なのか、「だから嫌い」なのか、それともそのどちらでもないのかわからなくて、ただその言葉だけを受け止めた。私なんかには分からない複雑な想いだって、きっとある。だから、私の内心は挟まずに、ただただ受け止めた。
 ちらりと三ツ谷くんへ視線をやる。すると、同じタイミングで目が合う。それがなんとなく照れくさくて、ふたりして笑った。視線だけでごまかしたけれど、本当は触れてみたいと、そう思っていた。
 三ツ谷くんのことが好きだ。
 見ないように、認めないようにしていた想いが、胸の奥にじわりと溶けていくのを感じた。



「そういえばなんだけど、レコーダーいらない?新しいの買うんだ」

 テーブルを片付けつつくだらないバラエティ番組を見ていたら、手放す予定の古いレコーダーを譲ろうかと考えていたことを思い出した。シンクで鳴る食器や水の音に交じって、三ツ谷くんの声がする。それに肯定の言葉を返すと、「マジか。ラッキー」とかわいげのある声がした。

「録画したやつがまだ残ってて。全部見終わってからでもいい?」
「モチロン。終わったら教えて。取り行くわ」

 レコーダーのほかに洗濯機も買い換えるのだけど、衛生面を考えるとそれはいらないよね。新居にはドラム式が置けるから、思い切って買い換えたんだけど、使うのを楽しみにしていて。
 キッチンに立つ三ツ谷くんへ、とりとめもなく話しかける。仕事を終えた彼はこちらへ戻ってきて、食事中座っていたローソファへ再び腰かけた。

「ナマエさん、なんか機嫌いい?」
「んー……今日、なんか楽しかったからかな」

 飲まないと言えないような言葉が出てきてしまうのは、浮かれて酩酊しているからだ。酔いは自覚した途端に深まることがある。今の私は、そんな状態なのだ。
 圧倒的な感情に浮遊するような私に三ツ谷くんは優しい顔をして、それから「酒でも買いに行く?」と笑った。
 コンビニまでの道のりは、生暖かい風が吹くだけで何もない。それでも、手放したくないと思う。私がここから離れてしまって、少し距離ができてからも、こうしていられたらいいなと思った。




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