15. 箱の中を行ったり来たり

 三ツ谷くんが数回喉を鳴らすだけで、ジョッキの半分くらいの量のビールが消えていった。今や見慣れてしまったこの光景も、初めて一緒に飲んだ時は「意外と豪快なんだな」なんて思ったものだ。
 食事もお酒も、若々しい胃袋にするりと消えていくところを見るのは気持ちがいい。最近は若い人に色々と食べさせたがる人の気持ちが分かるようになってきて、これが大人になるってことかな、なんて思っていたりする。二口目の口をつけたところでドリンクメニューを手渡すと、「早いって」と言ってくしゃりと笑った。
 私はといえば、ぷちぷちと枝豆を地道に押し出して口に入れ、たまの口直しでハイボールを流し込んでいる。

「そういえば、家決まったよ」
「マジ。早かったな」
「いいところ紹介してくれたの。三ツ谷くんのおかげかな」
「いいヤツらだったろ」

 どこか誇らしげなその言葉に頷く。「最初ヤクザかと思っちゃったけど」なんて半分本気の冗談に、「分かる」とからから笑っていた。
 先日のあの出来事があって、引っ越しを決めた。もうあんなことは起きないだろうと思っていても、不安と居心地の悪さがあの家に残ってしまって、それならばとさっさと決めた。引っ越し自体は以前から薄らと検討していたことで、あの一件が決定打になったというところだ。
 あれから何かと気を遣ってくれる三ツ谷くんに引っ越しをしたいのだと話すと、すぐに不動産関係をやっている友人(色々と印象的なふたりだった)を紹介してくれた。「三ツ谷の知り合いだから」とかなりいい条件の物件を提案してくれて、それからとんとん拍子で契約まで事が進んだ。果たして荷造りが間に合うのか、少々不安なくらいだ。

「今度は独立洗面台で、ドラム式も置けるんだ」

 内覧した時に撮った室内の写真をスワイプしながら一緒に眺める。給与も増えてきたし、そろそろもう少し広めの部屋に住みたいと漠然と考えていた。そのイメージとこの部屋はかなり近い。あんなきっかけなのに、こんなに理想的な部屋に出会えるなんて。物事はどんな風に転ぶかわからないものだ。
 1LDK。都内の一人暮らしにしては贅沢で、でもシェアするには少し狭い。勤め先の家賃補助を駆使してなんとか住めるあの家に、今度はいつまでいるのだろうか。新居の更新時期の頃には、私の年齢は十の位をひとつあげる。

「オレここにソファ置きたい」
「私の家なんですけど」
「妄想くらいいいじゃん。ダメ?」

 ちらりとこちらを伺う。そりゃダメではないけど、でも、なんて言うか……。

「そしたらこっちにテレビ置くだろ?んでテーブルはここで」
「こっちにテレビ置いたらベッドから見れるじゃん。こっちがいい」
「ソファで見りゃいいだろ」
「寝転がって見たいの!」

 スマホに表示した間取り図を覗き込んであれやこれやと議論するけど、なんだか気恥ずかしくて、そして寂しい。何をどこに置こうか話をしたところで、全て身を結ぶことのない話なのだ。
 ベッドをどっちの壁につけるか、ローテーブルかダイニングテーブルか、カーテンは何色がいいのか。ひとしきりそんな話をすれば、そのうちその話題も尽きる。どこかしんみりしてしまった胸にハイボールを流し込んで、何かを誤魔化した。大人になってからの私は、誤魔化すことばかりしていて癖になっている。だけど、上手にご誤魔化せているかは、自分では分からない。
 三ツ谷くんも私を追うようにしてジョッキを傾ける。ほんの二、三口程度だけ残っているが、なぜだか今度はメニューを差し出す気になれなかった。今じゃなくてもいい。どうせ、もうすぐなくなるんだから。

「引っ越しいつ?」
「えっと、来月の八日」
「結構すぐだな」

 三週間後の日曜日。引越し業者の予約ができて都合のいい日がそこだったのと、あまり先延ばしにするのもどうかと思って、その日に決めた。ちょうど溜まってた有給休暇も消化しなくちゃいけないし、ちょっと厳しいけど休みを使えばなんとか引越しの準備はできるはずだ。
 少しづつ荷造りを進めて、今週末には新居に置く家電を見に行って、追われるようにしながらこれまでの生活を畳んでいく。もう既にたくさんの物を捨てた。上京した時から使っていた洗濯機も捨てる。あの家でドラム式洗濯機を使うようになったら、きっともうコインランドリーには行かない。 

「じゃあ、引っ越す前にまだ行けてない店行っとこうぜ」
「そうだね。あそこは?駅の反対側のカフェ」
「オムライスのとこな。オッケー」

 見えないものはいくらでも持っていける。捨てたくても持って行けてしまう。心に決めたとて、私の意思でどこかに置いていくことはできない。今度行くあのカフェは、きっとそのうちのひとつになる。
 机に置いたスマホの画面に、もう一度間取り図を表示させる。三ツ谷くんが指差したテレビの置き場所。私は結局ここにテレビを置いてしまうような、そんな気がする。「やっぱり、こっちがよかっただろ?」って笑ってくれる、そんな姿を想ってしまうから。




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