14. 出ていかないで、居すわらないで

「落ち着いてったら?」

 そう勧められるまま三ツ谷くんの部屋へとお邪魔し、導かれるままフロアクッションへと腰をおろす。「飲み物取ってくる」と、廊下にむりやり設置したみたいな狭いキッチンへ向かう三ツ谷くんの背中を見送って、再び安堵の溜息をついた。
 深く息をすると、玄関でも感じた白檀のような香りが、肺の中へゆっくりと入り込んでくる。テレビ台の端っこにあるお香立てには灰が乗っているから、あのお香を焚いた名残なのだろう。漂う残り香が鼻をかすめていくたび、動揺していた心がなだめられていく。三ツ谷くんを通して、いつのまにかこの香りになじんでいたのかもしれない。今度は意識して深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 テレビ台の隣のメタルラックにはとりどりの衣服がきれいに畳まれて、地層のように積み上げられている。作りかけの何かが置かれた作業台とか、ベッド脇のサイドテーブルに平置きにされたファッション誌とか。雑多なようでまとまっているところは、私の知っているどの男の人の部屋とも違う。三ツ谷くんの部屋って感じだ。
 ぼんやりと部屋を眺めている視界を不意に遮って、ローテーブルにグラスが置かれた。全く違う形状のものがふたつというところが、いかにも一人暮らしの品揃えらしい。
 三ツ谷くんはもう一対のフロアクッションに腰を下ろし、グラスを手に取って一口あおる。それにつられるようにして同じ動作をすると、よく冷えた麦茶の香ばしさ鼻を抜けていった。

「大丈夫?」
「うん。……なんか、ごめんね」
「謝んなって。つーかタイミングよく通りかかってよかったわ」

 三ツ谷くんの言う通りだ。運よく彼があの場に現れたからいいものの、そうでなければうまく切り抜けられたかわからない。切り抜けて家に帰れていたとしても、ひとりで不安な気持ちをやり過ごさなければいけなかった。自分の家よりも信頼できる他人の家の中のほうが、今は安心して過ごせるだろう。
 巻き込んでしまって申し訳ない気持ちもある。だけど、助けてもらって感謝している。近所に知り合いが住んでいるのは心強いことなんだって、この数年間ですっかり忘れてしまっていた。

「ホントに。助かりました」

 居住まいを正して頭を下げる。それとほぼ同時にお腹の虫が鳴いて、場の空気が一瞬で間の抜けたものになってしまった。あんなことがあったせいで忘れていたけど、料理する時間も惜しいと思うくらいには、お腹が空いていたんだった。
 恥ずかくて下げたままの頭を、くしゃくしゃと乱暴に撫でられる。

「メシにしよっか」

 三ツ谷くんが笑ったのが、息づかいでわかった。



 してもらいっぱなしって、やっぱり性にあわない。食事を振る舞ったうえ、「座ってなよ」とさらに私を甘やかそうとする三ツ谷くんを押し切って、食後の労働に勤しんでいた。
 フライパンひとつも入らないようなシンクの容量をやりくりしながら、スポンジを食器に滑らせていく。お茶碗もコップもなんでもふたつずつあるのは、きっと彼に恋人がいた時の名残なのだろう。こういうの、捨てなくても平気なタイプなのかな。

「わっ!」

 すれ違うのも難しい広さの廊下だ。ちょっと体勢を変えるのと三ツ谷くんが後ろを通るタイミングが重なって、軽くぶつかってしまう。その拍子に、泡まみれの手からコップが滑り落ちてしまった。
 他の食器にぶつかって割と大きな音がなり、慌ててコップを拾い上げる。見たところ割れたりはしてないようで、ほっと胸を撫で下ろした。

「ワリ、声かければよかった。大丈夫だった?」
「うん。割れてない」
「ケガしてねーかって聞いてんの」

 泡まみれなのもお構いなしに手を取られて、まじまじと怪我の有無を確認される。廊下の狭さのせいで、今までになく距離が近い。ぎくりと胸の奥が鳴ったのさえ伝わっていそうだ。
 
「し、してない……」
「ん。よかった」
 
 よく観察して納得したらしい。手を離すと、何をするのか浴室へと消えていった。解放されたというのに、耳がじわりと熱くなったまま冷めない。
 何年か前にもこんなことがあった。恋人と、仕送りの範囲で住める都内のアパートの機能性のかけらもないキッチンに並んで笑い合うような、そんなことが。
 好きだから一緒にいたいだけの恋愛は、今思えば青くさくて小っ恥ずかしい。だけど、キラキラしていたと思う。あの頃に三ツ谷くんと……三ツ谷くんみたいな人と出会えていたら。
 というのは都合がよすぎて、内心で自分を戒める。優しくしてくれるのは、三ツ谷くんが優しい人だからだ。
 シンクを空にし終えて、浴室から戻ってきた三ツ谷くんに声をかける。シンク自体を洗いたいけどスポンジは分けているかと聞いたら、「まだ使うからそのままでいい」と言うので、私の労働はこれで終わりだ。

「じゃあ、そろそろ帰るね」
「え」
「え?」

 予想外の返事をされて、思わずオウム返ししてしまう。「気をつけて」とか、もしかしたら「送るよ」とかは言ってくれそうだとは思っていたけど、「え」とはどういうことか。
 真意を読み取れないまま、色素の薄い瞳を見つめる。視界の端で、肉感のない手が持ち上がりかけて、また戻っていった。

「帰ってほしくねぇんだけど」
「えっ」
「いや心配だろ、フツーに」
「あぁ……」

 焦った。紛らわしい言い方しないでほしい。そんなこと言われるの、久しぶりなんだから。でも、そう言うことならたぶんもう大丈夫だ。コトが起きてから何時間も経っているんだし。
 だけど三ツ谷くんはなんだか不服そうで、めずらしく視線をふらふらと迷わせている。呼吸を整えるためみたいな短いため息に、なぜだか緊張を煽られてしまう。

「ナマエさん、オレさ……」

 持ち上がった視線が、私のそれときつく結ばれる。優しげな瞳なのに、どうしてこんなに強い眼差しをしているのだろう。
 三ツ谷くんの薄い唇が、きゅっと結ばれる。まぶたも閉じられて、何か考え事でもしているみたいだ。再び唇が開くと、二度目の短いため息がこぼれ落ちてきた。

「送ってく」

 言うと同時にするりと横を通り抜けて行った。ローテーブルの脇に置いていた通勤バッグをひょいと拾う。置いてけぼりのまま、それを眺めている。ぽかんとしている私の背中に軽く触れて、「帰んだろ?」と玄関へと促した。
 すぐそこでもやっぱり帰り道は少し怖かったから、念のため自宅の玄関まで着いてきてもらって、そこで別れた。パンプスを脱ぎながら、無意識に深いため息をつく。元彼に合鍵を持たれているわけではないし、部屋の中にいれば何かが起きることもない。それでも、ひとりは少し不安になる。
 三ツ谷くんの言葉に甘えればよかったのかもと、一瞬過ぎる。だけど何となくそれができなかったのは、私に下心があるからなんじゃないかと思う。

「……シャワーして寝よ」

 ひとりごちて、のろのろ浴室へと向かう。いっぺんに色々な事が起きて、疲れていた。
 頭の中がまとまらなくて煩い。うまく周波数の合わないラジオみたいだ。寝支度をしてベッドに横になってもおさまらなくて、なかなか寝付けなかった。




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