13. 心はかくれんぼ中

 金曜日。残業もなく、帰りにデパ地下の総菜なんか買って、まぁまぁいい気分だった。ついさっきまでは。
 マンションの入り口まであと数メートルのところだった。ひとりの男性が建物をくるりと囲む植え込みに腰かけて、膝の上でスマホをいじっている。猫背気味なそのシルエットに見覚えがある。見覚えはあるのだけど、その人だと認めたくない。いやだって、さすがにそこまではしないだろう。
 どうかこの予想が外れてほしい。そう願いつつ、さっきよりもゆっくりと歩きながら、ちらりと目線をやってその正体を確かめようとする。すると、足音なのかそれとも目線を感じてなのか、俯いていた顔がこちらへと向く。予想通り、ひと月ほど前まで恋人だった男の顔だった。
 完全に目が合ってしまってひどく動揺する。彼はそんなのお構いなしにこちらへやってきて、事も無げに「久しぶり」と右手をあげる。対する私はと言うと、肩にかけた鞄の持ち手を無意識に両手で握りしめていた。

「え、なに。どうしたの」
「だってお前、電話でねぇから」
「メッセージ返してるじゃん」
「ちゃんと話したいんだよ」

 定時で仕事を終わらせて、そのままどこにも寄らずに帰ってきた事を後悔した。わざわざこんなところまできて直接話しをしたいことなんて、どんなことなのか大体相場は決まっている。今からどんな理由を並べられようが私の答えは決まっているのだから、もう無理なのだと押し切るしかない。とんだ重労働だ。
 予想した通り、彼の口から出たのは「やり直せないか」という台詞だった。妙にしっかりと目を合わせてくるのが腹立たしい。そんなこと、恋人だったときはしなかったくせに。
 直接対面して復縁を迫られて、頭の中はどうやって早く話を終わらせようかという、ただそれだけでいっぱいだった。「無理」「それはできない」と努めて淡々と答える。それでも彼は色々と理由をつけて食い下がってくる。問答が続くほどに、動揺は少しずつ恐怖へと変化していた。
 本当にヨリを戻したいのであれば、電話もしたがらない相手の住まいへ突然現れて懇願するなんて、明らかに悪手だ。普段の彼はそれがわからないような人ではない。それなのに、今まさにその悪手を指しているあたり、目の前の彼が冷静だとは思えない。
 そもそも、別れの原因は彼の浮気なのだ。色々と言い訳を並べてはいたけど、要は私では持ちえないものに惹かれてしまったわけだ。私は今の彼が望むものを持っていないし、私の彼への気持ちも最早消えてしまっている。
 それを知っているはずなのに、こうして私への執着のようなものを押し付けている。しかも、冷静さを欠いているであろう状態で。その様が暴走しているようにしか見えなくて、恐ろしくなった。

「何言われてもムリだから。じゃあ」
「あ、ちょっと。待てよ」

 逃げよう。さっさと家へ帰ってしまおう。そう思って、強制的に話を切り上げる。すると引き留めようとする彼の手が伸びてきたので、咄嗟に体を引いた。拒否されて彼は不服そうな表情をしたけど、彼以外は誰も私を責めないだろう。話をするのも今はまだ避けたいのに、触られるなんてなおさらだ。
 ふたりの間に緊張と、トゲトゲしい沈黙が横たわる。さっさと彼の横を抜けて建物に入ってしまおうか。今度は何もされないだろうか。オートロックだけど、もしついてこられたら一緒に入れてしまう。そしたらもっと逃げ場がない。どうしよう。怖い。
 もういっそ、警察にでも電話しようかと思ったその時だった。

「ナマエさん?」

 すっかり聞きなれた声が聞こえたその瞬間、こわばっていた体が少し楽になる。このただならぬ雰囲気は三ツ谷くんにも伝わっているようで、怪訝そうに顔をゆがめていた。表情はそのままにちらりと元恋人に目線をやって、すぐに私へと戻す。

「歩きながら見てたんだけど、どしたの」

 三ツ谷くんはきっと、私と対峙する彼の関係に気づいているのだろう。声色や目くばせでそれがわかる。
 大丈夫じゃない。助けてほしい。だけど、喉につかえてうまく言葉が出てこない。絞り出すようにしてようやく三ツ谷くんの名前を呼べたけど、みっともなく震えた、か細い声になってしまった。
 名前を呼んだ瞬間、三ツ谷くんの眼差しが強くなる。左手の手首をがっしりと力強く掴まれて、ようやく鞄の持ち手から指が解けた。

「ナマエさん、いこ」

 目の前の彼に一瞥くれることもせず、三ツ谷くんは私を連れ出した。
 私を困らせていた男の横を難なくすり抜ける。そのままマンション玄関も通り過ぎてしまったけど、どこに行くのか問いかける余裕はなかった。そのまま数十メートルほど行って、あのコインランドリーの横の階段を上がり、通路の一番奥へと、三ツ谷くんは迷いなく進んでいく。
 手を引かれるままだったその間中、去り際に投げかけられた台詞がリフレインしていた。
 「お前もかよ」
 私が彼と同じことをしていたのだろうと、そう言いたかったのだと思う。そうであれば間違いだ。三ツ谷くんと私はそんな関係じゃないのだと言い切れる。五年も付き合った相手を蔑ろにするようなことをしておいて、よくそんなこと言えたもんだと腹も立ってくる。それなのに、どうしてか責められているような気持になってしまう。
 浮気について問い詰めた時、彼は「お前には俺がいなくてもいいと思った」と、そう言っていた。会えなくて恋しいと思う。そんなこともなくなっていたし、実際のところ彼の言う通りだったのだと思う。
 だったら、とっととお別れすればよかったのだ。とっくに惰性になっていた関係を手放すこともせず、かといって再構築する努力もせず、それなのに次の段階を期待して。そんなの、彼だって疲れるに決まっている。彼を蔑ろにしていたのは、私も同じだったんじゃないか。私がもっと潔ければいい関係のままお別れができて、再会するにしてもこんなじゃなく、もっといい形になったんじゃないか。
 この結末に至ってしまった分岐点を探そうと記憶の中を辿ってみるけど、どれもこれも正解ではなさそうだ。正解が見つかったところで、手遅れでしかないのだけど。

「大丈夫?とりあえず連れてきちまったけど」

 引き入れられた薄暗い部屋からは、いつも三ツ谷くんから微かに感じる香りがした。ここは安全な場所なのだと実感して、目の奥がツンと痛くなる。

「……私が悪かったのかな」 
「んなわけねぇだろ」

 聞かせるつもりもなくつぶやいた言葉を拾うと、三ツ谷くんはすぐに否定した。声が震えたままの私を慰めるためだろうか。骨ばった手が頭の後ろに回って、肩口のところまで引き寄せる。そのとき、ようやく三ツ谷くんの手のひらの熱さが分かった。
 ただこぼれてしまっただけの言葉で、否定と肯定そのどちらも求めていたわけじゃない。だけどこうやって慰められると、やっぱり「それは違う」と言われたかったのだと気づいて、自分自身へ嫌悪感が増していく。
 細く長い深呼吸をして、ぎゅっと唇と引き結ぶ。今ここで泣いてしまうのは、とてもズルいことのように思えた。




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