12. 見えるもの、見えないもの、見ないもの
日がな一日暑くて仕方のない時期になってきた。
といっても風があれば夜はまだ快適で、そういう夜は好きだ。帰り道も楽しくなる。
走り去る車が残すランプの残像。アパートの部屋のレースカーテン越しに見えるテレビドラマ。そんなのを眺めつつ、夏の夜風にあたっているのが心地いい。家に帰ってビールなんて飲めばもう最高で、それで十分に満たされる。確かに満たされているのだけれど。
最近はポケットや鞄の中のスマホが大人しくしていると、さみしくなる。なんとなしに手に取って、期待するようなことは何もないことを確かめて、また元に戻す。そんな、うら若い乙女みたいなことをしている。
ひとりで楽しむことには慣れている。そのはずなのに、「一杯つきあってよ」とつい言いたくなってしまう。
それがどういう心情なのか。わからないほど若くはない。でも、素直に受け入れられるほど若くもない。
仕事上の微妙な立場で板挟みになったり、恋人と別れたり。そんな日々で削れたところを包んでくれる、そういう何かを探しているだけだ。彼は都合のいいタイミングで現れた人だから。そういうことだ。
こんなアラサー女のしょうもないさみしさに、年若い彼を付き合わせちゃいけない。踏み込みすぎずに適度な関係でいる。たぶん、それがちょうどいい。
さくさくと夜風を切る。繰り返し何度も御託を並べてはいるけど、結局のところ今の自分に自信がないのだ。関係を進めようと思ったら、できるような気がする。でも、その先はどうだろう。
あけすけに言ってしまえば、私はもう一度傷つくのが怖かった。何かに揺さぶられることなく、当分の間はただ穏やかに過ごしていたい。そう思っていた。
だけど、私の星は望むようには巡ってくれないらしい。
「出ねぇの?」
卓上で震えるスマホを手に取って、表示された名前を見て元に戻した。三ツ谷くんは鉄鍋の上で引っ付いている餃子を箸の先ではがしつつ、器用なことに視線はこちらへ向けている。
「あ、うん。大丈夫」
「別に、出ても気にしねぇけど」
彼に気をつかって電話に出るのをやめた。そんな風に捉えたのだろうけど、実際のところは違う。今ここにひとりきりだったとしても、この電話には出たくないのだ。
「本当に大丈夫」だと答える。それに「ふぅん」と漏らした声には、いぶかしんでいるニュアンスがあった。それもそのはずだ。大丈夫だと言った私の声は少々不安気で、言葉の意味とはちぐはぐだったと、自分でもそう思ったんだから。
卓の端っこに備え付けられた調味料から、「タレいらねぇよな?」とお酢と胡椒だけを渡してくれる。以前、ラーメン屋でも餃子を食べたけど、その時のことを三ツ谷くんは覚えていたんだろう。本当に気が利くし、目ざとい。そういうところのせいで、私が隠し損ねた不安なんて簡単に読みとられてしまうのだ。
「大丈夫って、ホント?」
有無を言わさず尋問するような口ぶりだったら、きっと頑なになっているだろう。だけど、冗談を飛ばすような軽い声色で私に逃げ道を残して、どうするのかを選ばせてくれている。すると、どうしてだか隠さずに打ち明けたくなるのだ。
「元彼から、電話きてて…」
先週くらいから、何度か着信を受けていた。一度目は間違いかと思ったけど、二度目ともなるとそうではないと察する。返し忘れた物でもあったかとメッセージを送るも、返信は「また今度かけ直す」だけだった。その言葉の通りに着信を受けたというのが、今さっきのことである。
「あんまり話したくないから無視してるんだよね」
「いや、さすがにキメェだろそれ」
眉間にしわを寄せて、思いっきりいぶかし気な顔をした。ワントーン低くなった声には、少しばかりドスが効いている。
思いのほか深刻に捉えられてしまったようで、少し焦っていた。振った相手が何かしらのアクションを起こしてくることなんて、終わった恋愛関係においてはままある事態だと思う。一度話してしまえば終わるだろうに、まだ直接言葉を交わす気分にはなれない。それだけの理由で無視を決め込んでいる私だって悪い。
「ブロックしたら?」
「それは逆に怖いかも。それにほら、なんか返し忘れてたとか、そういうことかもしれないし」
「だったら通話じゃなくていいだろ」
「……それもそうなんだけどさ」
三ツ谷くんの言う通りだ。不安を覆い隠すために並べた理由を引っぺがされて、胸の真ん中がギクリとする。ごまかす様に餃子を頬張ったが、かき乱されたせいで冷ますのを忘れてしまい、予想外の熱さに小さく悶えた。
テーブルの反対側で、三ツ谷くんも餃子を頬張っていた。口が大きく開くと、顔の小ささが強調される。数度咀嚼して流し込むようにハイボールをあおった後には、少し鋭い視線が向けられた。
「ナマエさんて、そういうの相談できるヤツいんの?」
「もしかして、友達いないって思われてる?」
「ちげーよ。なんかあった時頼れるヤツいんのかって聞いてんの」
頬杖をついてこちらへ向けた視線が、今度は少しじっとりとしている。疑いの眼差し。でもないけど、「いない」と答えることに確信をもたれているように見えた。
何かあった時に誰を頼るのか。恋人がいたらその人だろうけど、あいにくつい最近失ったところだし、気がかりの原因はその人そのものだ。友人だっているけど、そういう時に声をかけられるかと言えばそうでもない。
というか、誰にだってそうかもしれない。不安だろうが辛かろうが、自分でなんとかできる。しなくてはいけない。だから、自分の力でどうにかできることのために他人を頼るのに、どうしてもためらいがあるのだ。
「そういうところが可愛くない」と、いつか恋人に言われたことをふと思い出す。自分でもそう思う。多分、こんなだから浮気なんてされるのだ。
ううん。と言いよどむ私に、ふっと笑いかける。彼と出会ってからいくつか見てきた中で、この顔が印象的な表情のひとつだった。
「ナマエさんしっかりしてるからさ、大丈夫って言ったらホントに大丈夫だと思われちまいそうじゃん」
三ツ谷くんはズルい。故意に傷つける意図はなかったとしても、陰で泣いている女の子は何人もいたんじゃないかと思う。気を付けていないと、私もその仲間入りをしそうだ。
「ま、なんかあったら言ってよ。せっかく家近いんだし」
「うん……ありがと」
何も気づきたくない。わかりたくない。だけどもう手遅れだから、気づいていない自分でいろと言い聞かせる。でも、誰かがこのくだらない城を崩してくれないか、なんて。我ながら愚かなことだ。
もっと素直だったら、何もかもうまくいっていたのかな。テーブルの下できゅっと拳を結ぶけど、何を握りしめたかはわからなかった。