11. みえない噛み跡 

 自宅への最寄り駅は某大学のお膝元である。通勤電車に乗り込むとにきは、いかにも学生といった風情の若者と入れ違いになる。というのがおなじみの光景だ。学生向けの寮やマンションを見かけることも多い。となれば周辺には彼ら向けのリーズナブルな飲食店が集まり、いわゆる「学生街」が出来上がるわけだ。
 学生街と聞くと騒がしいイメージがあるけど、ここの場合はそうでもない。昼間だって静かなものだし、夜になれば閑静な住宅街そのものだ。駅から離れて自宅のほうへ行ってしまえば、生活を脅かすような喧噪とは無縁になる。
 だけど、駅前の大衆居酒屋となると話は変わってくる。学生街にある手ごろな金額の居酒屋なんて、しっとりと飲めるような場所ではない。金曜の夜ともなればなおさらだ。隣のテーブルの学生が何度もコールをしているせいで、私たちも彼らの名前を覚えはじめていた。
 けど、明日になったらきっと、彼らの名前なんて全部忘れている。二本目の徳利が空いたくらいから酔いが深まって、泥の中を泳ぐようにしか頭が働かない。そんな状態なのにふにゃふにゃと管を巻いている自分のことが、どこか客観的に見えているのが不思議だ。

「ほんとさぁアイツ。あの上司。ほんとにもう〜ムカつく!」

 感情だけの言葉が出てきてしまう。いかにも「むしゃくしゃして飲んで酔ってる」って感じだ。1パーセントくらい残ったシラフの自分がこの状態を恥ずかしがっている。こんな自分のことは明日には忘れていたいけど、残念ながらたぶん覚えているだろう。
 そして、何よりも一緒に飲んでいる三ツ谷くんに忘れてほしい。自分で呼び出しておいて虫のいい話だとは思う。だけど、せめて忘れた振りくらいしてくれないだろうか。なんせ今の私は頭のてっぺんからつま先まで、ほとんど余すところなく酔っ払いなのだ。まだ止まれそうにない。

「いいことないよ、さいきん。彼氏はうわきするしさぁ……」
「結婚とかする前にわかってよかったんじゃねぇの?よかったって思っとこうぜ」
「うー……」

 それはそうかもしれない。だけど、そんなの関係なしに、浮気されていたっていう事実が重い。やったほうが当たり前に悪いんだとは思う。だけど、私の何がダメだったのかな。とか、魅力ないのかな。とか、ついつい考えてしまうのだ。浮気相手が年下の若い女だったから、なおのこと。
 別れてよかったとは思う。だけど、日々が過ぎて冷静になるにつれて、女としての自信にはじわじわと傷が入っていく。破局を知った両親のあっさりした反応も、私を気遣っているんだとわかってしんどかった。
 そこに仕事上でのあれこれが重なると、お酒を飲んで頭を鈍らせでもしないとやっていられなくなる。おごるからと三ツ谷くんを飲みに誘ったのは、そういういきさつからだった。ささくれた心に引っ掛けたいのは高級店のいい酒ではなく、大衆居酒屋の安い酒なのだ。
  
「わたし、もうちょっと報われてもよくない?」

 仕事はそれなりに頑張っている。上司と部下に挟まれて悩んだり、矢面に立って理不尽を受け止めたり。社会人だから当然かもしれないけど、こんな自分にしてはよくやっていると思う。自分の力だけで生活もして、世間に迷惑をかけるようなこともない。
 社会を生きるひとりの大人として精一杯やっているのだから、あともう少しだけ報われたい。大きいのはいらないから、薄くて長い幸せが毎日続くような、そういうのがいい。だけどきっと、それが一番むずかしい。
 ぐずぐずとぼやく私を、三ツ谷くんは笑っている。おかしいとか面白いとかで笑っているんじゃなくて、小さい子供の話をほほえましく思っている時みたいな、そんな感じだ。

「これからだって。な?」
「ほんと?」
「ほんとほんと。オレが言うんだから間違いねぇって」
「んー、そっかなぁ」

 私が相談される側だったら同じようにはげましただろう。だけど、自分のこととなると話は変わってきて、簡単に不安をぬぐえなくなる。人生悪いことばかりじゃない。山もあれば谷もある。頭ではわかっている。気持ちが頭についてくるのは、もうちょっと先の話なのだ。
 三分の一くらい残っていたグラスの中身を飲み干す。確かこれはリンゴサワーだっただろうか。ぐだぐだしている間に氷が解けて、もはやリンゴの香りの水程度の風味しか残っていない。日付も変わるころだし、そろそろお開きかな。なんだか眠くなってきたし、これ以上ここにいてももう飲めないだろうし。
 
「そろそろ帰る?」
「そうすっか。会計もらうわ」

 三ツ谷くんに呼び止められた店員は、すぐに伝票を持って戻ってきた。ゴツめの指輪がはまった手がそれを受け取る。三ツ谷くんが持ったままだから見えてないけど、「こんなもんか」と言うからそんな金額なんだろう。
 足元の荷物かごに入れたままの鞄の中を探って財布を探すけど、酔いと眠気でもたもたしてしまう。ようやく見つけた時には三ツ谷くんがピスポケットから財布を取り出し、クレジットカードを挟んだバインダーを店員さんに手渡していた。

「あ、まって。はらうから」
「いーって。俺けっこう飲んだし」
「でもさ、わたしがおごるからって誘ったじゃん。わたしのがおねえさんだしさ」
「今日はいいから。次飲むときはナマエさんおごってよ」

 有無を言わさぬ雰囲気だ。というか、先手を取られてしまった時点でもう勝ち目はなかっただろうから、大人しく引き下がることにする。「ごちそうさまです」と言うと「どーも」と笑った。あのにっ、とする顔で。
 会計の終わったクレジットカードを受け取って、それを戻した財布をジーンズのピスポケットにしまい込んでいた。椅子から立ち上がると「ナマエさん、眠い?」とまた笑って、荷物かごから私の鞄を取り出してくれる。
 世話を焼かれることはあまりないから、慣れていなくて少し戸惑う。あと恥ずかしい。相手は年下の男の子だし。

「三ツ谷くんて、やさしいよね」

 三ツ谷くんは、出会ってから今までずっと優しい。それは付け焼刃の優しさじゃなくて、彼が生来持っているものだと思う。周りにいる人は同じようにそれを与えられて、私みたいについ頼りたくなってしまうんだろう。彼の仲間に会ったことはないけど、私のこの意見には反対されないような気がする。
 だけど、三ツ谷くん本人からしたらそうでもないらしい。あっさりと、予想外の言葉で否定されてしまった。

「ナマエさんにはな」
「そうなの?」
「そ」
「なんで」

 脊髄反射で言葉が出てくる。なんでだろうって思ったから、「なんで」って言っている。自分から出てきた言葉を、数秒後になってやっと理解していた。
 どこからどう見ても酔っ払いな私に、三ツ谷くんは子供を見るような目を向けて、それからふっと目尻をゆるめた。「しょうがねぇな」って、そんな感じで。

「お姉さんなのに、そんなこともわかんねぇの?」

 椅子から立ち上がって、差し出された鞄を受け取って、その時にやっとその言葉が理解できた。そして私はますます混乱する。わかっていいことなのか。それがわからない。わかってしまうのは良くないことに思える。何にも答えられず曖昧に意味のない相槌をして、三ツ谷くんの顔を見ないまま店を出た。
 夜風に撫でられながら、並んで家路を辿る。ゆっくり歩きたくなるのは酔っているのと、未だ傷心中だから。ただそれだけで、他はなんでもない。そのはずだ。




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