こちらのお話の数年後の設定です。

 真っ白なホールケーキを一台、最後のお客様のもとへ元へ送り出して、私のクリスマスはようやく終わりを迎えた。ステンカラーコートにマフラーを巻いた後ろ姿が足早に、一方でケーキの入った紙袋は揺らさないように去っていく。それを見送って、販売担当が入口の鍵を閉めた。「おつかれさまです!」店長が景気よく言うと皆続き、店のそこかしこから互いを労う拍手が起きる。程なくして奥から大きな紙袋が出てきて、中身がスタッフへと配られていく。

「あのお客さん、間に合ってよかったね」

 「ギリギリの来店になってしまう」という連絡のとおり、閉店時間きっかりに現れた彼の左手には、手頃な価格で使い勝手のいいジュエリーブランドの紙袋がぶら下がっていた。きっとこれから恋人に会ってプレゼントを渡し、あのケーキを食べるんだろう。どうか期待したとおりの時間になってほしい。彼だけじゃなく、ここに訪れた全ての人たちがそうであってほしい。厨房からガラス越しに眺めた光景を思い出して、切にそう思う。

「ホントですよ。あの人、これから彼女と過ごすだろうし」

 短い爪が配られた寸志に巻かれたリボンの輪っかを弾いている。たしか彼女はまだ大学生のはずだ。せっかくだし、爪くらい好きにできるアルバイトをしたらいいのにと思うけど、接客と甘いものが好きだからいいのだと語っていた。

「でもいいなぁ、プレゼント。頑張ったし、なんかほしくありません?」
「寸志もらったじゃないの」
「これとは違うんですよぉ。ツリーの下にあるみたいな、そういうヤツがいいんです」
「あぁ…」

 彼女の言わんとすることはなんとなく分かる。慰労のためにもらうプレゼントじゃなく、もっと楽しくて、心が踊るようなやつのことだ。待ち遠しくて眠れなくなるような、早起きして一目散に中身を確認してしまうような。そういうのがほしいのだ。

「ナマエさんは、クリスマスにほしいものってあります?」

 ううんと唸ってしまった。少し考えてみても、クリスマスだからという理由でほしいものは思いあたらない。就職してからというもの、大抵のものは自分で買えるようになった。それなら好きなタイミングで手に入れたい。何でもいいと言うなら、それこそお金とか、まとまった休みとか、そんな夢のない答えになってしまう。「一ヶ月くらいのまとまった休み」と答えたら、案の定ブーイングをくらった。

「でも、私もお金ほしいかも」
「若い子がそんな。夢がないなぁ」
「だって、ほしいもの沢山あるし。この三日間通しで働いてるのも、時給あがるからですもん」

 ぴっ、と顔の横でピースして見せる。頬に浮かんだ笑窪と裏腹な逞しさが眩しかった。


 更衣室でコックコートを脱ぎながら、先ほどの問いかけを反芻する。クリスマスにほしいもの。子供の頃は明確に答えられた。この色の一輪車とか、あのお人形とか。具体的な物が思い浮かんで、迷うことはなかった。それが、今となってはぼんやりとしか描けない。手に入れたいものはいくつもあるけれど、明確に「これ」と言い切れなくなっていた。幸せになるために必要なことが、子供の頃よりも抽象的で、簡単じゃなくなったから。なのかもしれない。
 この三日間、厨房から眺めたお客様の姿を思ってみる。パティシエという職業についてから、私はこの聖なる日の幸福を準備する側だった。目にしてきた何人もの人たちが、私たちの作ったケーキを囲む。興奮で逆に疲れを感じないくらい怒涛の三日間だけど、ここに来た人たちの期待に応えるのが誇りだし、幸せを感じるひと時でもある。
 やりたい仕事について、生活ができている。不幸では決してない。現状に大きな不満もない。でも、なにがあれば、どうしたら、私はこれからも幸せでいられるのか。頭の中を探ってみても、どこにも正解は見当たらない。
 コートを羽織って小さなため息をつく。疲れと興奮でざわつく頭でこんなことを考えていても、堂々巡りで眠れなくなるだけだ。とにかく、今年も頑張ったじゃないか。幸い明日は遅番だし、家で一杯やってから寝ようかな。そんなことを思いつつ、手癖でコートのポケットに入れっぱなしだったスマートフォンを手に取る。出勤時以来見てなかった、その液晶に表示されたメッセージを見て、マフラーも巻かずに更衣室を飛び出した。店を出て交差点を渡ると、見慣れたバイクとそれに寄りかかった佇まい見える。私を見つけたのか、右手をポケットから出して顔の横に上げた。

「三ツ谷くん!」
「おう、お疲れさん」

 仕事漬けだから、また後日会おう。そう約束していたはずなのに、どうしてここにいるのか。いつから待ってくれていたのか。色々聞きたいことがあるのに、予想外のことに言葉がうまく続かない。あたふたしていたら、ふっと小さく笑われた。

「仕事帰りにせっかくだしと思って、イルミネーションあるとこ走ったんだけどサ。そしたら会いたくなっちまった」

 照れくさそうな笑みに、頬が緩むのを止められない。うれしい。毎年のことだし、遅くなるし、三ツ谷くんは明日も朝から仕事だし、絶対に今日にする必要はない。そう思っていたのに、うれしくてしょうがない。抱きついてしまいたい衝動に襲われたけど、まだ店のすぐ近くなので、なんとか思いとどまった。

「疲れてるだろうし、この後なんかできるような時間もねぇし、さすがに急すぎるとも思ったんだけど」

 何を言うのか。少しの時間しか会えないのに来てくれたことで、こんなにも幸せな気持ちになっているのに。

「ううん、うれしい。ホントに。すごくうれしい」

 言葉を繰り返すことでしか、このよろこびを表現できないのがもどかしい。「よかった」と笑った三ツ谷くんは、腕に引っ掛けたままだったマフラーを奪って、くるくると丁寧に巻きつけてくれる。私の首周りをもこもこにして、とても満足そうだ。マフラーのおかげか、体がぽかぽかと温かい。どうしよう。私いま、とても浮かれている。

「三ツ谷くん、私もイルミネーション見に行きたい」
「今から?この辺あったっけ」
「恵比寿なら十分くらいだよ」

 リアボックスに目をやった。いつもならタンデム用のヘルメットが入っている。私の意図を汲んだ三ツ谷くんは、少しだけ顔をしかめた。

「え、乗んの?めちゃくちゃさみーよ」

 だろうなと思う。真冬に車と同じ速度で走ったら、そりゃ寒いだろう。それは想像に難くない。現に三ツ谷くんだってかなり温かそうな格好をしている。でも、寒い思いをしてもいい。こうして会ってしまったら、ほんの少しでいいから、三ツ谷くんとそれらしいことをしたくなった。

「お願い。私へのプレゼントだと思って」

 手を合わせてお願いすると、数秒の沈黙の後に「手ぶらで来ちまったしな」と折れてくれた。コートの前を止めて、手袋をつけて、最大限の防寒をしてタンデムシートにまたがる。いつものように三ツ谷くんの腰へ手を回すと、「さみぃって言っただろうが」と言うお咎めと共に、両手が腰から彼のジャケットのポケットへと導かれた。
 パタンパタンとエンジンが鳴り、走り出せばするりとテールランプの波に乗る。三ツ谷くんの後ろに乗るのもすっかり慣れた。乗り方だけじゃなくて、彼にとって私はここに乗ってもいい存在なのだ、ということにも、彼を信じて遠慮なく身を預けることにも。淡い想いを抱いていたあの頃は想像もしなかったことが、十年経った今では当たり前になっている。流れてゆく東京の街並み。排気音と共に、顔も名前も知らない誰かの営みが灯す光はひとつの景色になって、次から次へと走り去っていく。ここから振り落とされたくなくて、少しだけ腕の力を強めた。

 お目当ての商業施設に到着する頃には、つま先がかちこちに冷えていた。ひっついていたおかげで、上半身が無事なのが不幸中の幸いだ。バイクから降りて冷たい膝を手でさすって温める。そう言えば、勢いで来てしまったけど、何時まで灯りはついているんだろう。スマートフォンで時間を見るついでに、イベントが掲載されているサイトを確認する。
 
「二十三時には消灯しちゃうみたいだね」
「へぇ。じゃあギリギリだったな」

 バイク専用の駐車場からも電飾の灯りが見える。導かれるように足を進めていくごとに、今夜はなにかいい事が起きるはずだと、無垢な期待が降り積もっていく。カレンダーを一日ごとにめくって、その日が来てほしいような、来るのが勿体無いような、そんな気持ち。クリスマスを飾りつける全てが、甘く真白で幸福な期待に満ちている。その期待に応えるかのように、目の前はあたたかな光であふれていた。プロムナードの両端にはシルエットだけになった木々が輝き、その終点では高く掲げられたシャンデリアが一層強く光を放っている。

「わあ、クリスマスって感じ」
「そうだな。あっちまで歩く?」
「うん。せっかくだし」

 夜も遅いと言うのに、まだ人出がある。ツリーをバックに写真を撮る若い女性たち。立ち止まって景色を眺めているカップル。三者三様にあと十数分で消えてしまうこの光景を楽しんでいる。

「なんか、みんな幸せそう」
「クリスマスにこんなとこ来てるヤツは大概幸せだろ」
「確かに。そうだね」

 ゆるい坂を下る。連なる暖色の灯りは、ひとつひとつは小さくても、これだけ集まると強い光になる。直接見ると光が滲んで、人々の表情はよく見えない。目を逸らしたとしてもやはり夜だから、どっちにしたって見えないことには変わりなかった。見えないから、実のところはわからない。だけど、ここには幸福しかない。連なる光の強さでそう信じてしまう。

「仕事どうだった?」
「例年通り大変だったよ。でも楽しいの。お祭りみたいで。一年でいちばんケーキを食べてもらえる日でもあるし」
「そっか」

 ねぎらいを込めた手が頭をぽんと撫でてくれる。それだけで胸が高鳴る。三ツ谷くんと恋人になってから今までずっと、ずっとそうだった。

「ナマエの作ったケーキ、オレも食いたかったわ」
「じゃあ、今度作るよ」
「マジ?仕事じゃねぇのに作ってもらうの、さすがに悪いなって遠慮してたんだけど」
「三ツ谷くんのご希望とあらば」

 心の底からうれしそうに笑うから、私もうれしくなる。あなたがうれしいなら、私もうれしい。その逆も、そうならいい。願いながらプロムナードを下り切る。シャンデリアの麓でも人々は幸せそうだ。隣の若いカップルの話を盗み聞きするに、あの中に一つだけ色の違うガラスがあって、見つけるといい事があるらしい。

「オレらも探す?」
「んー、いいかな。いい事ならもうあったし」
「へぇ、どんな?」
「どんなのかなぁ」

 三ツ谷くんの左腕に自分の右腕をからめて、答えの代わりにした。立ち止まると歩いているより寒さを感じる。すると体温と外気の境目がはっきりして、自分の輪郭がよくわかる。輪郭の内側の深いところもよく見える。たくさん着込むこの季節には、体の奥にある慈しみたい何かが分かる。

「今日、きてくれてありがとう」

 寒くて、でも温かくて、少しだけ腕に力を込めて身を寄せる。 

「いつでも会えるし、別にいいと思ってたんだけど、違った。会えてよかった」
「オレも。ナマエと過ごせてよかった」

 するりと解けた腕が肩にまわり、優しく引き寄せてくれる。コート越しの三ツ谷くんの輪郭に触れると、お互いの中に秘めた何かが交わったような気がした。
 この夜を照らしだすクリスマスの光は不幸を知らない。氷が触れ合うような清廉で密やかな声は、高らかに幸せだけを歌い上げる。日々の不安と不安の隙間に揺るぎなく陣取って燦然と輝き、この世の全てをその聖なる光で照らしだす。誰かが誰かを想い、幸福で満ちているはずのこの日を、私は誰と分かちあいたいのか。あなたがいい。この瞬間も、この光が消えた後も、ずっと。




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