普通の女の子だから、大切にしたいと思った。

 暗室を照らす赤い光を、少女の白い腕はよく反射した。細い指の先。ピンセットで摘んだ印画紙を溶液の中でゆすると、ネガから焼き付けられた景色がじわりと浮かびあがる。刑事ドラマで見たこの光景に憧れて、彼女は中学校入学後に写真部へ入部した。お年玉をはたいて購入した一眼レフがもったいないからと、中学校を卒業して数年経っても、たまにこうして手焼き印刷をしている。半年に一度くらいだろうか。フィルムも暗室を借りるのも、それなりにお金がかかるから、頻繁には難しいのだろう。

「なんだっけな、これ」
「覚えてねぇの」

 等間隔に並んだ窓を避けて、古い建物の壁一面を蔦が覆っている。なぜこの光景にシャッターを切ったのか。半年も前になると、撮った本人でさえ覚えていないこともある。一緒に行った先のどこかだろうか。オレ自身にも覚えはない。

「ありふれてるけど、その時はいいと思ったんだろうね」

 家電量販店で簡単に購入できるフィルムでも、気軽に何度もシャッターを切れるほど、高校生にとっては手頃ではない。厳選した被写体はある程度心を動かされたもののはずなのに、たった半年でなんだったかわからなくなる。シャッターを切れば景色は簡単に焼きつく。記憶は同じようにはいかない。左端から並んだ順番で印画紙を溶液に浸していく。細い体の仕草や眼差しを全て、機械のように記録できたら。
 引き伸ばし機にセットしたネガを替え、新たな光景を露光する。先ほどに比べて随分と賑やかに見える。現像液に露光した面を下にして浸し、表に返す。印画紙をゆする手つきは、思い出せと念じているようだ。
 浮かび上がったのは、大量の花束だった。
 
「これは?」

 たぶん、西新宿へかかるあのガード下だ。子供の絵が描かれた壁沿いを、無数の花が埋めている。ここでは赤にしか見えないが、普通の照明の下ではさぞカラフルだろう。

「ここ、いつもホームレスのおじさんがいたの」
「あぁ、いるな」

 引き上げた印画紙を隣の溶液へ浸す。こうすると現像が止まるのだそうだ。中学校の部室で現像の様子を見せてもらった時、そう教えてくれた。浮かんでいるのを注視すると、日本酒のワンカップもいくつか添えられている。花束しかり、数日前に通りがかったときは、こうではなかったはずだ。

「ひと月前くらいかな。その人いなくなってて、代わりにこうなってたの」

 その状況が何を意味するのか。ナマエに聞かずとも分かる。いつもいたその人は、いなくなってしまったのだ。
 取り出した印画紙を今度は定着液へ浸す。そうすると光に反応する物質が取り除かれて、通常の光の中でも保存できるようになる。

「いなくならないと、花をもらえない人っているんだなって。なんか、悲しくて」

 溶液に浮かぶ、鈍い赤一色に染まる花々の向こうに、社会からはみ出た者の死が隠れている。ナマエに強い感情を与えた光景はナマエの目を通して印画紙に焼き付き、オレにも訴えかける。彼女の悲しみや不安、恐れを。それを拭ってやれたらよかった。

「なぁ、これも印刷してよ」

 まだ印刷されていないネガを指差すと、少し嫌そうな顔をした。いつだかとあるカフェに出かけた時、カメラを借りて撮ったナマエの横顔の写真。あの時、不意打ちされて機嫌を損ねたナマエのために、ケーキを追加してやった。案の定「油断してる顔だから」と渋られて、食い下がる。

「それがいいんだよ。お願い、な?」

 う。とうめいて、数秒。ふぃと目を逸らされた。

「適当でいい?」

 その宣言の通り、先ほどより雑な手つきで引き伸ばし機のキャリアーを引き出す。照れ隠しだ。ナマエの白い頬が、赤い光をよく反射していた。

 作業を終えて暗室から出る。眩しさで一瞬目の前が見えなくなり、光になれると途端に色彩豊かになる。暗室では赤と黒の明暗でしかなかった写真も、蛍光灯の元では取り取りの色を見せてくれる。
 重ねた印画紙を紙芝居のようにめくっていく。ナマエが手を止めたのは、やはりあの二枚だった。蔦の一面の緑と、色彩豊かな花々。忘れていた生と、忘れられなかった死。並んだふたつをナマエはじっと見つめてから、折れないように鞄に仕舞い込んだ。
 オレがナマエを撮った写真は、暗室を出る前に押し付けられた。蛍光灯の下で見ると、少しぼけた質感が絵画のようで、案外いいんじゃないかと思う。見るかと言ったら「恥ずかしいから」と拒否されてしまった。足早に出て行って建物の外からオレを呼ぶ。追いついて歩きはじめる。後ろから自転車がきて、ぶつからないようにナマエの体をこちらへと寄せる。

「ね、好きな花ってある?」
「花か…あんま詳しくねぇからな」
「じゃあ見つけといて。今度教えて」

 ほほえんでいるが、泣いてしまうんじゃないかと思った。

「隆くんはきっと成功するから、その時にはお花贈るよ。どんな関係になってても」
「ンだよ、それ」

 肯定できたらよかった。簡単に頷けないほど、その予感は確かな輪郭を持ちはじめていた。ナマエはたぶん、オレに花を贈ることはない。それでいい。あと少しだけ、一緒にいられれば。
 その数ヶ月後、ナマエに別れを告げた。
 彼女も薄々察してはいたようで、オレの申し出に無言で頷いて、あっけなく終わった。「オレのことは忘れて」ただ彼女の幸せを願ったつもりの台詞に「酷いこと言うね」と言って、一粒だけ涙を流していた。好きな花の名を告げることもなかった。

 あれから十年。オレの人生は幕を下ろした。
 自分で選んだ道とはいえ、後悔がなかったといえば嘘になる。母親に息子の葬式の喪主を務めさせたこと。妹達を残してきたこと。ナマエに、いなくなったオレへの花を手向けさせたこと。彼女が恐れた、あの写真のように。
 手の届かない場所で、オレのことなんてきれいさっぱり忘れていてほしかった。なのに、ナマエは十年ぶりにやってきて、悲しみを滲ませながら花を棺に納めた。言葉をかけることも、抱きしめることもできやしない。大切に思うからこそ手放したのに、結局はこんな結末だ。

「ナマエさん、来てくれてありがとうございました」

 運び出される棺を追うナマエをルナが呼び止めた。ルナをみとめると目を伏せて、小さく首を横に振る。

「迷ったんだけど、来ないと後悔しそうだったから」

 目を細め、ゆるりと口角をあげた。月日の分だけ大人びていたが、その仕草が記憶の中の彼女と寸分も違わず重なる。今何をして、どう暮らしているのか。聞きたいことは山ほどあるが、今や伝える手段もない。

「兄も喜んでると思います。ナマエさんのこと、大好きだったから」

 おいコラ。余計なこと言うなよ。
 そうは思うが、妹の口でも借りなければ伝わることもなかっただろう。この言葉がナマエを縛らなければいいが。

「それで、これ…」

 ルナが差し出したのは、一枚の写真だった。窓から差し込んだ光が、ナマエのあどけない横顔を照らしている。何度も見返した、少しピントの甘い写真。

「兄の手帳に挟まってて…いつも持ち歩いてたみたいです」
「……私には忘れろって言ったのに」

 ほんの少し唇を尖らせる。ご機嫌斜めなときのナマエの仕草だった。
 両手を胸の前で結んでからほどいて、ルナの手から写真を受け取る。普通の光の中で見たのははじめてだろう。「悪くないじゃん」と呟き、笑った。

「隆くんだけズルいから、やっぱり忘れない」

 眉が下がる笑顔を愛おしいと思っていた。こんな道を歩んでおきながら、彼女の世界には不幸をもたらしたくないとも。いつ、どこから、どうやって、オレはここに来てしまったのだろうか。
 短かった自身の人生を思う。どこか別の世界のオレとナマエは離れ離れにならずに、ふたりで幸せになっていてほしい。ささやかな願いを叶えてくれる神がいると、信じて祈る。




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