まぶたの向こうにぼんやりとした明かりを感じて、今まで眠りの海を漂っていたのだとようやく気づいた。星と月明かりが生命を宥める音で、もうすっかり夜が深いことを目も開けないまま知る。無意識の中に意識を見つけていくにつれ、部屋のどこかの誰かの寝息が鮮明に聞こえてくる。どうやら宴の間にいつの間にか眠ってしまい、その内に皆それぞれの眠りの国へ帰って行ったようだった。
 眠りの気配が支配する部屋で、私だけがそれに逆らっている。少しずつ意識を取り戻しつつある私の身体は、ごく自然にまぶたをあげた。窓から差し込む薄明かりがまずはじめに描き出したのは、私が想い焦がれるその人の無防備な寝顔だった。


「まだ三ツ谷くんと何もないの?」

 エマちゃんが薄い色の瞳を訝しげにくるんと転がしたのは、一体いつのことだったか。まだあまりの暑さに袖のない服を着ていた頃のように思う。何もないよと答えると、半分程に減ったフラペチーノをストローでかき混ぜながら、不満気に唇を尖らせていた。

「だって、いっつも、絶対、ナマエのこと送ってくじゃん。そんなことしないって、フツー」

 一気に言い切ったと思えば、クリームが均一に混ざって柔らかくなったブラウンを吸い上げる。かわいらしいお口は私の恋への言及と甘味の摂取で、それはそれは忙しそうだった。

「絶対ナマエのこと好きだって」
「そうかなぁ」
「そう。もうまる分かり。ケンちゃんも同じこと言ってたもん」

 そうかな?いやいや、私が浮かれているだけかもよ。そう思っていても、その名前を出されると曖昧な期待が一気に確信めいてしまう。きまりが悪いのをストローを咥えて誤魔化そうとしたけど、彼女の大きな瞳は見逃してくれなかった。

「ていうか、ナマエも好きでしょ?」

 直球を真正面から受け取ってしまい、どうにも逃げようがなくなって小さく頷いた。「両思いじゃん」と自分のことのようにはしゃぐ彼女はかわいらしいけど、やっぱり気恥ずかしい。頬のほてりを鎮めるように吸い上げたアイスラテは、氷が溶け出して中途半端に甘かった。

 その人、三ツ谷隆とは、エマちゃんを経由して知り合った。大抵の人は彼に好意的な第一印象を抱くだろうけどそれは私も例外でなく、少しばかり舞い上がってしまったのを覚えている。そして、彼との触れ合いが抱いた好意を明確にしていったのも、なんら不思議なことではなかった。それは多分、彼も同じだ。自惚れでなければ、私たちは惹かれあっている。
 気づけば視線が合う。引き寄せられるように二人になる。それが楽しくて幸せで、ついはしゃいでしまう。そんな私達は側から見たら完全に「そういう雰囲気」に見えるらしい。けれど今のところは何もないし、もしかしたら彼には何かを起こす気がないのかもしれない。

 忙しくフラペチーノを吸い上げていたエマちゃんの指摘の通り、三ツ谷くんはいつも私を家まで送ってくれる。確かに互いの家は割と近くにあるけど、最寄駅も違えば路線ですら違う。なのに、「心配だから」とマンションのエントランスを潜るまで見届けてくれる。
 でも、彼は一度もそこから先に踏み入ろうとしたことはない。私の方も招き入れてしまえばいいのだけど、拒まれた時のことを思うと、どうしても躊躇う。もし、浮かれているのは私だけだと分かってしまったら、さすがに今までのように会うことはできなくなるだろう。
 そんな私の葛藤をよそに、眼前の三ツ谷くんは無垢な顔で眠っている。薄明かりに浮かぶ端正な寝顔を眺めているうち、起き抜けで動きの悪いシナプスは彼を認識するだけの回路を繋げていく。聞こえていた誰かの寝息は、意識の外に飛んでいってしまった。
 少し身をよじれば互いの身体があと数センチのところまで近づく。体温や呼吸で彼の存在を確認するその瞬間ごとに、甘ったるい物質が神経回路を駆け抜けていく。理屈ではない何かは恋の予感を囁き続けてきたけれど、今はいつも以上に私をけしかけてくる。まだ夢の名残を引きずったままの私は、愚かにもそれに乗ってしまった。

 キス、しちゃえば?

 何かが変わるかも。何かが分かるかも。期待をしながらゆっくりと顔を寄せていく。距離の近さにピントがあわないくらいになっても、彼が気付く様子はない。皆が寝静まった部屋で息を潜め、あとほんの数センチをジリジリと埋める。あと数ミリのところで唇に感じた息遣いに、はっと我に返った。
 何をやっているんだろう、こんな寝込みを襲うようなことをして。急激な後ろめたさに襲われて、縮めた分顔を引いていく。

「しねぇの」

 なんの前触れもなく、囁きと共に二つの瞳が開かれた。まだとろんと眠気を残し、しかし確実に私を捉える眼差しに、羞恥で頬が熱くなる。気づかれていた。どうしよう、何て言おう。狼狽える私を唇の動きだけで小さく笑った彼は、その大きな手で私の頬を包み込んだ。

「オレがしていい?」

 何を。あまりにも答えが明らかな問いをするのは野暮なことだ。私も同じことがしたいのは、既に先程の行為で露見している。喉だけで肯定の音を鳴らして頷けば、ゆっくりと近づいた唇が私のそれに触れて離れていった。夢のように甘美な感触。もしや、これは私に都合のいい夢なんじゃないか。

「好きだよ」

 心臓から多量の血液を送り込まれ、いくらか働きを取り戻した脳は点在した意識を拾い集めて、彼の言葉が夢ではなく現だと判断を下す。「私も」と答えた時に見せた微笑みに愛しさが滲んで見えたのも、たぶん、きっと、夢ではない。
 再び寄せられた唇を受け入れる。今度はついばみ、食むような口づけがジリジリと唇と焦がしていく。繊細に繰り返されるそれにうっとりとして、夢見心地で応えた。

「ん…」

 薄く開いた隙間から厚い舌が滑り込んで、思わず声が漏れた。私を解放した彼は人差し指を唇に押し当てて、「しーっ」とほとんど息だけで声を上げたことを咎める。指はするりと顎を掬い、また私の唇は塞がれてしまった。遠慮なくぬるりと入り込んだ舌に声を上げないよう、ぐっと息を詰める。誰もが眠りを強制された夜の帳の中で、私達だけが逆らって目を覚ましている。見つからないように、月影に映らないように、ひっそりとしていなくては。
 急激に燃料をくべられた心は炎を燃やし、煙を吐き出しながら戻れないレールの上を走り出す。ぐんぐんと速度をあげ、煙が激しく立ち上る。誰かが寝返りする衣擦れの音も、車輪とレールのハミングにかき消される。恋の煙が肺に充満して苦しいけど、丹念に絡まる舌は一筋でも外に漏らすことを許さない。熱くて、煙くて、苦しいのに、ずっとここにいたい。このまま加速して、あなたと一緒に戻れない場所に旅立ちたい。誰にも見つかる心配のない場所に。
 背中に回された手がTシャツの裾をまくりあげて侵入し、背骨にそってするすると登っていく。すでに満杯のところに新たな刺激を与えられ、耐えきれずに喉の奥がきゅうと悲鳴を上げてしまう。彼の舌は甘ったるい吐息を塗りつけるのを止めて、下唇にかわいらしく吸い付いて離れていった。

「ごめん」

 素肌を離れた手のひらがまくり上がったTシャツをおろしていく。キスに夢中で気づかなかったけれど、三ツ谷くんのシャツをかたく握りしめていた。手を開くとその形にシワができている。

「ううん、大丈夫」

 夢中のあまりすっかり見えなくなっていたけど、すぐそこで数人が寝息を立てている。この状況を考えればこれ以上は止めるべきだろうけど、私だってこのままでいたいと一瞬でも思ってしまった。苦しいくらいに幸せで、終わらないでほしくなるような時間だった。後頭部を撫でる手に引き寄せられるまま、首筋に額を埋める。

「寝るか」

 素直に頷いたけれど、こんなに心臓が忙しくて本当に眠れるのだろうか。分からないけれど、幸せだからこれでいいと思う。あんまり急ぎすぎると、いつかこの夜に見つかってしまいそうだ。身を潜めるように擦り寄ると、首筋から彼の香りがした。

「明日も送ってくから」

 三ツ谷くんはいつも私を送り届けてくれるけど、明日はいつも通りじゃなくなる気がする。わざわざ耳元で囁いたのは、そういうことでしょう?

「明日は帰らないでね」

 返事の代わりに旋毛に唇が触れた。心臓が加速を終えて一定の速度で走り出した頃にわかったけれど、三ツ谷くんの心臓も私と同じくらい、炎をくべていた。




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