東京に生まれ育った私は、一度も蛍を見たことがなかった。こんな汚い川ばかりの東京に蛍なんていない。映像や写真で見るものだとばかり思っていた。それがどうだろうか。私たちは今、蛍の飛び交う夜の中。

「『夏は夜』って本当なんだね」
「なんだそれ」
「真一郎くん、もう少し勉強しておいた方がよかったよ」
「ウルセー」

 無骨な手がタバコの箱を数回叩く。押し出された一本を手に取って咥えて、火をつけないまま箱に戻していた。ソフトの箱に印字された『SevenStars』の文字は、ジーンズのポケットに無造作に突っ込まれた拍子にぐしゃりと歪んだ。私といるとき、彼はタバコを吸わない。

 「蛍をみてみたい」と言ったのは何がきっかけだったか。その言葉を拾い上げて誘うバイクの後ろに乗った。都会の交通網を縫うようにして走る彼につかまって1時間ほど。東京を彩る光は次第に消えてき、暗闇を照らすヘッドライトと彼の背中だけが頼りだった。両親には友達と一緒だと嘘をついて家を出た。兄が不良をしていた頃の仲間と夜に2人で出かけるなんて、いい顔はされないと分かっていた。

 明滅を繰り返しながら緑の光が浮遊する。しきりに飛び交うのは雄で、雌は葉や茎に止まったままお互いに光の点滅でコミュニケーションをとるらしい。音も立てずに送り合える信号を羨ましく思った。ふらふらと飛んでくる1匹を骨張った手が捕らえる。

「ほら。見たことねぇんだろ?」

 丸く合わせた両手のひらの中で、蛍が淡く光っている。点滅すれば、指の間からこぼれた光が私たちの顔を照らす。この蛍は誰に、何を伝えたくて健気にも光るのか。

 5つ年上の兄は不良だったけれど優しくて、私はよく後ろをついてまわっていた。高校生になった頃に連れて行かれたバイク屋で真一郎くんに出会った。彼はみんなに慕われていたけど私もその例に漏れず、いつしか1人でも彼の元を訪れるようになった。
 年下の私をあしらいつつも無下にしない彼に会いたくて、下校途中にお店へ寄り道したり休日にふらりと立ち寄ったりした。制服姿の女子高生が1人でバイク屋に訪れている様はなかなか異質なものだと思うけど、そんなことはどうでもよかった。

「すごい、本当に光ってる」
「触ってみるか?」
「うん」

 差し出した人差し指にそっと摘まれた蛍が載せられる。今までに見たことがない、優しい手つきだった。蛍の光には熱がなくて、本当に明滅だけで主張することを知った。指を掴む蛍の脚がこそばゆいと思っていたら、羽を広げて飛んでいってしまった。

「そろそろ帰るか」

 指から飛び去る光を見送る。本当は帰りたくない。でも帰らなきゃ。わかっているけれど少しだけ反抗したかった。

「ねぇ」

 Tシャツの裾をきゅっと握って、ねだるように瞬きをする。思いを伝えたことはないけれど、きっともう誰の目にも明らかなことだった。もっと近づきたい。こっちを見てほしい。
 真一郎くんへの気持ちを兄へ打ち明けたら「それは憧れだ」と言われた。けど、この気持ちが「憧れ」なら「恋」とは一体どういう感情なんだろう。今だけ、気の迷いでもいいから。念じながら見つめる私の眼差しを、どうか受け入れてほしい。
 
「いたっ」

 ぺしっとまぬけな音を立てておでこを軽く叩かれる。「遅くなるだろ」と言ってさっさとバイクに跨ってエンジンをかける彼に、悲しいような悔しいような気持ちになった。強がりたい私はそれを悟られたくなくて、生意気な口をきく。

「意気地なし」
「お前まだガキだからな」

 もう子供じゃないとは言えなかった。言ってしまえば「大人」は遠ざかるような気がした。日々の大半を制服に身を包んで過ごし、大人の庇護の元で生活をしているくせして「子供じゃない」なんて、滑稽な話だ。

「ほら、後ろ乗れよ」

 無造作にヘルメットを被せてくる、その顔が優しいのはどういう感情からだろう。子供の私に教えてほしい。

 「大人になったら」私たちはその頃、一体どうしているんだろう。今のままではいられないことが分からないほど、私は子供じゃなかった。それならせめて今だけは同じ時を過ごしたい。走り抜けるバイクから振り落とされないように、大きな背中にぎゅっと抱きついた。





 まだ少し肌寒い日のこと、1人で店番をしていた時だった。バイクの排気音が近づいてきて店の前に停まった。細身なバイカーだなと思っていたら、ヘルメットの下から現れたのは案の定女だった。彼女は店の外からしばらく中の様子を眺めて扉を開く。

「あの、ここ。前もバイク屋さんでしたよね?」
「そうですけど」
「ですよね。その時にも来てて…」

 俺よりも4、5歳ほど年上だろうか。女の年齢なんて正直見た目からはわからないが、ここが真一郎君の店だった時代を知っているらしい。何か考える仕草をして、俺を見つめている。その仕草と声にどこか覚えがある。

「もしかして貴方もその頃きてた?」
「はい」
「やっぱり!面影あるなって思ったんだ。大きくなったね。バイク屋になったんだ」

 俺も思い出した。当時、しょっちゅうここに来ていたブレザー姿の女子高生。それがこの人だった。整備作業をする真一郎君にとりとめなく話しかけている光景が蘇る。

「随分来てなかったんだけど、遠くに引っ越すことになったからこの辺走っておこうと思って。店内、結構昔のままだね」

 くるりと店内を見回す頭の動きに合わせて、鎖骨のあたりで切り揃えられた髪がゆれる。あの頃はよくポニーテールを揺らしていたのを覚えている。
 並んだバイクの向こう、カウンターのあたりを面影の残る瞳がじっと見つめる。想い起こされる、あの辺りでバイクをいじる後ろ姿。その横に置かれた椅子に腰掛けているブレザー姿。きっと今、俺たちは同じ景色を見ている。

「好きだったの、真一郎くんのこと。いっつも『ガキだから』ってあしらわれてたんだけど」

 そんなのは子供の俺でも見ていたらわかった。あの頃は2人とも大人に見えていたし、付き合わないのかと思っていたけど、高校生の彼女と真一郎くんの間には大きな差があったんだろう。

「いつの間にか私の方が年上になっちゃった」

 どこか寂しさの混じった微笑みだった。肩にかかる髪を払った左手の薬指がきらりと光る。あれから彼女がどんな想いを抱えてきたのか、俺には到底見当もつかなかった。

「懐かしくて入ってきただけなの。ごめんね。相手してくれてありがとう」

 繁盛するといいね。そう言い残し、ひらりと手を振って走り去っていった。彼女はこれからもバイクに乗るのか。その時何を思うんだろう。どうか幸せなことであってほしいと、柄にもなく願ってしまった。




- ナノ -