フロアから一段あがったところにあるVIP席からは眼下の様子がよく見えた。誰も彼もこのギラギラした空間の刹那を楽しんでいる。音楽と光で埋め尽くされた様子を見て、ああこれが六本木の夜だったと懐かしくなった。
 数年前はあの中で身体を揺らしていたけどもうあの頃ほど若くなく、人混みと轟音の中にいるだけで疲れてしまった。踊り明かした後で歩いてすぐのうどん屋にいくのが定番だったけど、今日は無理かもしれない。
 だからここへ呼ばれたたときはラッキーだと思ったけど、こんな広めのところを2人で使うことなんて初めてで、少しそわそわする。 

「なんで呼んでくれたの?」
「んー?面白い顔してたから」

 ニヤニヤしているこの男に声をかけられて私はフロアを抜け出した。渡された名刺には「灰谷蘭」と書いてあるけど、果たして本名だろうか。この街には怪しい男も美しい男も山ほどいるけれど、そのどれとも違う。不自然なほどに整えられた姿と、そこに内包された危うさに目を引かれる。そんな男だった。何より喉元のタトゥがーこの男が只者ではないことを物語っている。

「そんなに変な顔してた?」
「変っつーか、深刻なカンジ?」
「ああ…そうかも」
 
 フロアの女の子達がこちらを見上げてくるのは、きっと彼に呼んでもらえるのを期待しているからだろう。目立つ男だから、夜の世界では有名なのかもしれない。
 そんな男がなぜ声をかけてきたのか不思議だったけれど、『1人で来てるなにやら深刻そうな表情の女』が空間に似つかわしくなくて興味を引いたようだ。「訳アリ?」と促されて一瞬迷ったけど、どうせ今後また会うこともないだろうし事の顛末を話すことにした。

 20代の前半のほんとんどの時期をひとりの男に捧げてきた。学生時代に交際をはじめた彼との関係は順調に進み、数年前から同棲をはじめた。このまま結婚するのかと思っていたが、どうやら春が長すぎた。
 簡潔に言ってしまえば相手の浮気だ。男女の触れ合いはめっきりなくなっていたし、周囲の結婚関係の話をしても流される。そんな状態だったからどこか予想はできていたとはいえ、連れ添った私を放って若い女と楽しんでいたことがショックなことに変わりはなかった。
 家庭的な女が好きだと言うから料理のレパートリーを増やした。嫌だと言われたから夜の遊びだってやめた。自分なりに彼のためにとやってきた。それにしてはあまりに報われない結果じゃないか。その虚しさや怒りを発散しようと、数年ぶりにクラブのドアを開いた。

「当てつけにひとりでクラブ来てんの?ウケる」
「だってムカつくじゃん。自分だけ我慢して」

 ロックグラスを傾ける灰谷さんは事のあらましに興味があるのかないのか読めなかったけど、一応聞いてくれていたらしい。当てつけか。そう言われると、これは当てつけなんだと思う。だから彼が行くのを嫌がったここへ来て、怪しげな男の誘いに乗っている。

「でもちょっとスッキリしたかも。まだ声かけてもらえることも分かったし。しかもいい男に」

 クラブなんてナンパが横行している場所だし正直ありがたみもないけど、こんなにいい男の誘いなら話は別だ。私にもまだそれなりに魅力はあるんだと思えれば、彼氏への気持ちは不思議と萎んでいく。
 そもそもここ数年は馴れ合いのような関係性だったのだ。損失がでると分かっていても、今までの投資分を惜しんで止めることができない、今思えばそんな状態だったかもしれない。こういうの、何か名前があった気がする。

「まぁ、普通に可愛いと思ったし」
「変な顔って言ったくせに」
「おもしれー顔な」
「一緒!でも、おかげさまで最高の当てつけになりそう。別れたようなもんだし、今日からは好きにするわ」

 グラスのキティを煽る。炭酸の爽快感が心地よくてひと口、またひと口とやっているあいだに飲み干すと、すっかり解放された心地になる。舐められたままなのは癪に触るけれど、あんな男もうどうでもいいや。泡と共に『望まれた通りの女の姿』は溶けていったんだ。

「いい飲みっぷり。そういう女の子スキだよ」

 弧を描く唇とは対照的に双瞳には熱が感じられず、ただ明滅する照明を鈍く反射している。この男の人間らしさは一体どこにあるのだろう。ひと目みたときから気になって仕方がない。

「いつもそうやって口説いてるの?」
「いーや。飲み方褒めたのはナマエちゃんがはじめて」
「どうだか」
「ホントホント。信じてくれねーの?」

 長い腕に肩を引き寄せられて、ほんのりと漂っていた香水の匂いが濃くなる。上品な甘さの奥のブラックチョコレートのような香り。頭がくらくらするのは先ほど飲み干したキティのせいか、この香りのせいか。

「近くで見てもカワイーね。な、出ない?静かなところ行こ」
「静かなところって、例えばどこ」
「どこ行きたいか、具体的に言った方がいい?」

 長く骨張った指が肩を意味深になぞる。只者じゃないと思っていたけど、なるほど。やっぱり彼は悪い男のようだ。答えあぐねる私の耳元へ顔が寄せられる。

「我慢してきたんだろ?もっと楽しもうぜ」

 吐息が掛かるほどの距離で左耳に直接落とされた言葉は、囁くような声なのに何故かくっきりとした形をしていた。
 時計は12時を回り、貞淑で美しいシンデレラの魔法も解ける時間だ。悪い男の悪い誘いに、私の奥底へ追いやっていた女の心が目を覚ます。ネクタイをぐいと引っ張って、貼り付けたように口角を上げたままの唇へ自分のソレを押し付けた。

「お腹すいてるの。後のことは食べてから考える」
「いーね。強気なコもスキ」

 赤い口紅の移った口元が至極愉悦だと言わんばかりに歪む。ようやく見ることのできた、彼の人間らしい表情だった。

 クラブ専用の直通エレベーターから降りると、風の凪いだ温い空気がまとわりつく。染み付いた習慣はなかなか抜けないようで、結局うどんが食べたくなって懐かしい道のりを辿る。この出立の灰谷さんがうどんを啜るのかと思うとおかしくて仕方がない。この人の腕の中で遊ぶかどうか。それを今から私が決めるんだと見せ付けたくて、細身のスーツに包まれた腕に手を絡ませた。

 六本木の夜は欲望でギラギラと輝いている。ビルが狭めた夜空に浮かぶ月を見ると、どうしようもない恍惚に満たされていった。




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