生ぬるい夜の中、友人たちと連れ立って駅へと歩いていた。今は7月、前期の試験を全て終えた私たちは打上げと称し、一人暮らしの三ツ谷くんの家を借りて宅飲みを開催した。気の知れた仲間たちとお酒を交わすと時間はあっという間に溶けて、気づけば終電時間も近くなっていた。
 お盆の予定がどうとか休み中の課題の話とか海にいきたいとか、明日からはじまる夏休みの展望を話題にしつつ、ひとまとまりになって歩く。空き缶やお菓子の袋をしっかり片付けてからおいとましても、終電まであと20分。最寄り駅までは徒歩で10分程度なので十分間に合う時間―のはずだった。

 目の前を歩く田中くんのお尻のポケットから、携帯がピリリと鳴って着信を伝える。

「三ツ谷から。ナマエに代われって」

 電話の相手は三ツ谷くんらしい。一言二言かわした後に携帯を手渡されるので、受け取って耳に当てる。電話の向こうに三ツ谷くんの好きなアーティストの曲が聞こえた。

「もしもし?」
『あー、ナマエ?携帯うちに忘れてってる』
「え」

 慌てて鞄の中を探すと確かにない。帰る前に入れた気がしていたけれど、勘違いだったらしい。私宛の電話なのになぜ田中くんに電話したんだろうと思ったけれど、合点がいった。
 ひとり暮らしでの連絡手段は専ら携帯なので、このままなのは困る。授業があるうちなら学校に持ってきてくれればいいけど、悪いことに明日から夏休み。次にいつ会うかは未定だ。幸い三ツ谷くんの家を出てまだ5分ほど。急いで戻って携帯を回収してもギリギリ終電に間に合う。迷ったけれど取りに戻ることにした。
 田中くんに携帯を返して事情を説明したら『一緒に行こうか』と気を遣ってくれたけれど、それは断った。明日は午前中からバイトだと言っていたのに、万一終電を逃したら申し訳なさすぎる。みんなに別れを告げて、踵を返した。

 私たちが仲良くなったのは去年の秋頃。同じチームになってひとつの作品に取り組んだ。交流は作品作りが終了しても続き、こうして何かにつけて集まって遊ぶ関係が続いている。三ツ谷くんもその仲間のうちのひとりだった。『同じクラスの人』くらいの認識でいたけれど、関わりができれば素敵な人なんだとすぐにわかった。そうやって時間を共有していく中で、恋心を自覚するのにそう時間はかからなかった。
 三ツ谷くんはどう思ってるのかは、そりゃあもちろん気になる。ふたりで課題の材料を買いに行ったり、学校帰りにばったりあってサシ飲みしたり、そんなこともあるから『他の女子よりも仲良い』くらいには思ってくれているかもしれないし、だとしたらそれで充分だ。
 変に欲をかいて関係性を壊したくない。おしゃべりするときの、あの優しい眼差しを向けてもらえなくなるかもしれない。そう思ってしまったら、これ以上近づく勇気なんて私にはなかった。

 コンビニの角を曲がってしばらく行けば目的地だ。夜風に背中を押されながらアパートの階段をあがり、部屋番号を確認してインターホンを押す。すぐに玄関のドアが開いた。

「早かったじゃん」

 部屋着っぽい首元の緩んだTシャツを着ている姿がちょっと新鮮だ。いつもの洒落た装いも気の抜けた姿も、どちらも様になってしまうからずるい。意中の相手だっていう贔屓目もあるかもしれないけど…。

「はいコレ」

 差し出された白い二つ折りの携帯には某テーマパークで購入したストラップがついている。紛れもない私の携帯だ。早めに気づいてもらえてよかった。
 お礼を言って携帯を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、三ツ谷くんのもう一方の手に掴まれた。予想外のことに驚いてその顔を見上げる。

「なあ、帰んのやめね?」

 見たことのない顔をしていた。怒っているような、焦っているような、イラついているような、でもたぶんそのどれでもない表情だった。

「もう終電ねぇよ」
「いや、走れば間に合うとおも」
「ねぇの。ハイ、中入って」

 肩を掴まれて部屋の中に引っ張り込まれる。急なことに足元がよたついて転びそうになったけど難なく受け止められた。背後でゆっくり扉が閉じる。
 玄関のたたきは2人で立つには狭くて、いつになく近い距離を意識したとたんに胸が脈打ちだす。握られたままの手が熱くてそこにも心臓があるみたいだった。状況に動揺して目を泳がせると、携帯が彼のズボンのポケットに消えるのが見えた。

「なんか怒ってる?」
「怒ってるっつーか、ちょっと機嫌悪いかな」

 先程感じた通りやっぱり機嫌が悪いらしい。何か機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。携帯を忘れて出て行ったことに呆れたとか?思いついた理由と三ツ谷くんの行動が結びつかない。頭の中を引っ掻き回してもわからくて、ようやくだした「なんで」の声が少しだけ揺れていた。

「俺、酒飲んでる時のナマエちゃんすげーカワイくてて好きなんだけどさ。距離感近くなんじゃん」
「そんなことないと思う…」

 すき。そのたった二文字にぎくりとして、誤魔化すように笑ってみたけどぎこちなくなる。『カワイイ』も『距離感近い』も心当たりはないけど、誰でもお酒がはいれば多少はそんなふうになるんじゃないかな。なんなら三ツ谷くんだってそういう所はあると思う。見たことはないけど…。

「ある。今日も田中とちっかいとこで喋っててさ、マジで嫌だった」
「機嫌悪いのってそれで?」
「そう」

 そんな覚えない。けど言葉の通り『嫌でした』って顔をするから、本当に嫌だったんだなっていうのはわかる。わかった。わかったんだけど…。

「なんでそれで機嫌悪くなるの…」
「お前それ本気で言ってる?」
「……」
「結構アピってたつもりなんだけど?」

 今度は盛大にため息をつかれた。私だって察しが悪いわけじゃないから、その意味の想像はつく。それでも勘違いしないように、壊さないようにと予防線を張り続けてきたから、信じることを躊躇する。考えれば考えるほどどうすべきかわからなくて、自然と顔が俯いていく。この後に及んで踏み出すことができない自分が嫌で、少しだけ目の奥がつんとした。
 どうしよう、なんて答えたら。まとまらない思考に溺れかけていたら、大きな両手に頬を包まれた。そのままぐいと上を向かされる。再び視線が交わったら、三ツ谷くんが息だけで笑った。

「俺ら両思いだって思ってんだけど、どうなの」

 強いまなざしを向けられると、絡め取られたみたいにそらせなくなる。たぶん、彼は私の答えを知ってる。知ってて聞いている。
 もうこれ以上逃げられないことを悟った私は、ようやく覚悟をきめた。

「そうです…」

 絞り出した小さな声がぽつんとおちた。そんな声でも彼の耳には届いたようで、ふぅと小さく息を吐いた彼が脱力したように私の肩に額を預けて「やっと俺のモンになった」と呟いた。

「これ以上我慢すんの無理って思ってさ。今日言えてよかったワ」
「私が忘れ物しててよかったね」
「まぁホントはナマエが帰る前から忘れてんなって気づいてたんだけど」
「え」
「ゴメンな?」

 なんてことだ。まんまと術中にハマっていたことを暴露されて絶句する。なんだか腹立たしいような複雑な気分だけど、イタズラが成功した少年みたいに笑う三ツ谷くんを見ていたら、なんでもいいやと思えてしまう。

「もっかい聞くけど、ナマエの終電まだある?」
「えっと…」

 ない。

 1文字ずつゆっくり音にしたら、それが合図だったみたいに身体を抱き寄せられた。体温と香水の匂いを強く感じて顔も身体も急激に熱くなる。こんな調子で今夜は2人きりなんて、たぶん心臓がもたない。やっぱり帰ったほうがよかったかも。

「両思いだってわかったし、始発までゆっくりしようぜ」

 私の思いも虚しく、玄関の鍵の閉まる音が響いた。




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