──冥王ネルゲル。
 あまねく死を統べる存在であり、死の世界の王とされる。
 魅入ったら最後、魂を囚われ、二度と逃れることはできない。

 ネルゲルは世界に滅びをもたらし終焉を告げるために、王座に佇んではその時を待つ。
 それ以外の何事にも興味を持たず、ましてや人の子に対する情など持ち合わせているわけもない。
 そのはずなのに、彼──ネルゲルの心は揺らぎを覚え始めていた。とある一人の少女を、きっかけとして。

「…………」

 冥王の心臓と呼ばれる、ネルゲルの城。その最奥地の王座に腰をかけ、頬杖をつきながら、思考を巡らせるかのようにネルゲルは瞳を細める。
 正に冥王と呼ぶに相応しき、端正な顔立ちと見る者の目を引く独特な衣装、その場に佇むだけでも感じる威厳、そして何よりも、装飾が施された大きな鎌。それら全てが、ネルゲルという存在を主張している。

 ネルゲルは思案をした後、ふと視線を鎌へと移し、細く長い指先で鎌をゆっくりと撫で上げた。彼は、この鎌で生物の魂を喰らう者である。
 だからこそ、か。そんな自分が他の者、人間の少女などに興味を抱いてしまった事実を認めることができないでいるのは。

 少女は、ネルゲルを恐れなかった。その姿を前にしても畏怖を表さず、むしろ笑顔になる。純粋といえばそうなのだが、ネルゲルには愚かにしか見えなかった。無知な人間なのだろうと、知らぬことが多すぎて恐れることさえできないと、少女のことを愚かだと言い放った。
 情が湧いたわけではない。ただ、興味すらなく、始末することに値しない存在だからと放っておいたのだ。その時はそうだった。しかし偶然にも再会をした時に、嬉しそうにこちらへと駆け寄る姿は、今でも鮮明に思い出せる。
 それから、彼女は明確にネルゲルに懐いた様子を見せた。不思議と、邪魔だという感情はなく、むしろ何かを突き動かされる心地がした。それが何たるか、など知るはずもないのだが。

 彼女は綻んだ顔で、「ネルゲルの傍にいたい」と、愚かなことを言い出した。それがどのような意味を持つかなど、冥王のことを未だ理解していない彼女にはわかるわけがなく、純粋な言葉だということはネルゲルも察せている。ならば望み通りにしてやろう。そうしてネルゲルは、彼女を自身の城へと連れ帰った。この、冥王の心臓へと。

「……ネルゲル?」

 この場に似つかわしくない、穏やかな声が冥王を呼ぶ。ネルゲルはそちらに視線を移すと、そこには少女が立っていた。ネルゲルの様子を見て、不思議そうにこちらを見つめている。
 一人の人間に心を揺らがせるなど、王ではない。

「考え事でも、していたの?」
「…………」

 少女の問いかけには答えず、ネルゲルは少女を見つめる。少女も逸らそうとはせず、視線が合わさる。ネルゲルの瞳は、何も感じさせない、まるで凍てつく氷のような冷たい色を放っているが、少女は怯むことすらしなかった。
 少女の瞳は真っ直ぐにネルゲルを捉えている。何者にも染まっていないかのような無垢さを宿しているが、不思議と心地好くもある。

 この瞳に見つめられてからか、それとも少女の心に触れたからか。何にせよ、ネルゲルが少女に対し、情を動かされていることは確かであった。
 自分のことを見ても恐れぬ純粋さに惹かれたわけではない。ただ、その愚かさに、興味を抱いた。面白い獲物を見つけたような気分といえば、それに近いのかもしれない。
 冥王たる者が、たった一人の人間の少女に心を囚われるなど。関わっていくうちに、絆されたのだろうか。それはネルゲル自身が一番知っていることだが、答えを出そうとはしなかった。

「……冥王に魅入られし者は逃れることなどできない……」

 どの者に向けたわけでもなく呟けば、その低い声は周囲の空気に馴染み溶けていく。この場には風など吹かないはずであるのに、二人の間を流れるものは冷ややかだ。

「ゆえに、貴様も我から逃れられぬのだ……」
「……?」
「この冥王に囚われし貴様の魂は、何よりも甘美であるぞ」

 唐突なネルゲルの言葉に首を傾げる少女だが、ネルゲルはそんな少女の頬を指先で撫でていく。くすぐったそうにして片目を瞑る少女を見て、ネルゲルは知れずと口角を上げた。
 心の、どこか。奥深く──己すらわからないほどの深いところで、何かが埋まる感覚がする。惹かれる、など。冥王に何とも相応しくないものだ。

(じつに愚かで……くだらん)

 その言葉を飛ばした先は、少女なのか、それとも。
 内心で呟きながら、ネルゲルは少女を見つめる瞳を細めた。

 冥王の心は、果たしていずこに向いているのか。それを知るのは、冥王だけだ。
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