錆びた鍵を忘れられないでいる



「純太さあ、」


 んー? って少し間延びした声で返事をしながら振り返る。それと同時に静かな視線を感じる。ああ邪魔しちゃったかな、机の上に広げられた何やら書き込みのすごいノートをちらりと一瞥して話しかけるタイミングじゃなかったかもなあ、と思った。もう遅い。


「髪、結構伸びたよね」


 手嶋純太はわたしの幼なじみである。幼稚園から高校に至るいま現在まで付き合いの続く、いわゆる腐れ縁というやつだ。高確率で同じクラスになることに運命ではなく何らかの陰謀を感じるのは、その相手が純太だからだろう。頭の回転は良好、他人の機微に聡く自分の領分をわきまえている純太は幼い頃から非常に立ち回りがうまかった。器用なやつなのである。他の人には気づかれていないだろうが純太が裏で糸を引いて上手く事を回した事例を、わたしは数え切れないほど知っている。策士という呼び名が可愛いくらいだ。


「何だよいきなり」


 作業の手をこんな世間話で止めさせて申し訳ないという気持ちは多少あったけれど、気にしていないふうな純太を見て少し安心した。会話を中断させたことを咎めない視線もその理由のひとつだ。純太との遠慮のない距離は心地いいし、青八木くんの視線は出会ったときより幾分優しさを感じられるようになった、わたしにもそれが分かる程度には親しくなったのだ。


「いやね、中学とか高校入ったときは短かったのにだいぶ伸びたと思って」


 肩につくほどに伸びた緩くうねる黒髪、天然パーマのそれは純太に似合っているがどうしてここまで伸ばしたのだろう。わたしよりも少し短いくらいのそれを見て、男子にしては鬱陶しそうな長さだなあと思う。別に似合ってないわけではないし文句を言いたいわけでもないけれど十七年付き合ってきてここまで長いのは初めて見たのだから、なんだか少し物珍しさを感じる。

 緑のブレザーの肩口をくすぐる髪に触れる、見た目通り柔らかい。天然パーマで癖っ毛だが絡まりにくいのだからずるいと思う。同じ黒でもストレートで髪が細く、絡まりやすいわたしから見れば純太の髪は羨ましいの一言だ。純太が何も言わないからとなめらかな黒髪を梳いたり頭を撫でたり手に優しい感触のそれを楽しむ。


「ね、青八木くんもそう思わない?」


 くるくると髪を指でもてあそびながら、純太と向かい合わせに座っている青八木くんに声をかければ静かな首肯が返ってくる。わたしと彼の意思疎通はこれで済む、わたしが一方的に話しかけて青八木くんが首の動きでそれを返す。時折彼のほうが口を開くこともあるがそれも稀だ。クラスメイトに変わってるなあと言われたがたいして気にしない。青八木くんとの距離感もわたしにとっては悪くない、息の詰まらない沈黙が落ち着くと思ったのは青八木くんが二人目だ。


「青八木まで何だよ。これ、そんなに変か?」


 ふたりそろって首を横に振れば純太がわたしをじっと見た。別に何だよも何もないんだけどな、と同意を求めるように青八木くんを見ると向こうもわたしを見ていて、長い前髪の奥にある色素の薄い瞳と視線が交わった。軽く会釈。

 ひとり取り残されたことが不満だったのか純太が声を上げる。心配しなくても純太から青八木くんを取ったりしないというのに、相変わらずこのふたりは仲良しというかぴったりというかふたりでひとつという感じだ、別段変な意味ではなく。


「いやいや、じゃあ何だよ譲」
「ただ単に伸びたねって、それだけ」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」


 あ、どうぞどうぞ、とはならない。わたしたちのやり取りを間近で見て、青八木くんがちいさく笑った。貴重な姿をじっと焼き付けるように凝視すると純太も同じことをしていてわたしも笑った。

 青八木くんは、可愛いと思う。無口で大人しくて、感情表現も意思疎通の仕方も不器用で、純太の言葉を借りれば社交性はゼロ。けれど秘めた内側が熱いのを知っている、それがどれだけ格好いいのかも。何を考えているのか分からないと言う人もいるけれど、話をすればその人が何を考えているか分かるわけではないので、わたしはたいして気にしていない。それに、わたしは言葉にせずとも目線や仕草で物を示してくれる彼の、みんなが言うほど分かりづらくない優しさが好きだった。笑ったときにきゅっと細められる目とか、小動物みたいで可愛いじゃないか。


「別に変じゃないよー、似合ってる。ただ、男子にしては随分伸ばしてるなと思って。なあに、願掛け?」
「……おまえ自分の発言にくらい責任持てよばか」
「へ、責任? ……えっと、ごめん純太、何のこと?」


 はあーっと重く長い溜め息。ご機嫌を取るように前髪のあたりを撫でつけても純太はうなだれたまま顔を上げようとしない。青八木くんからも若干呆れの混じった表情を浮かべられて、今度はわたしひとりが置いてけぼりを食らった。何のことだろう、わたしは純太に責任が生じるような何かを言っただろうか。残念ながら覚えはない、記憶力はいいほうだが興味のないものに対してはとことんその力は発揮されない。これはわたしに限った話ではないと思う。


「んー……まあいいや、青八木くんも髪伸びたよねえ。目に掛かって邪魔にならない?」


 思い出せないなら仕方がない、と早々に考えることを放棄した。左手でうつむいた純太の頭を撫でながらも、動くたびにさらさら揺れる色素の薄い髪に手を伸ばす。片目を覆い隠してしまうほどに伸びた柔らかそうな髪に触れ、



「……純太? なに、どうしたの?」


 られなかった。あともう少しで指先が触れる、というところで伸ばしたはずのわたしの手は純太の存外ごつごつとした手に握り込まれていた。突然のことに目を瞬かせても状況が一向に呑み込めない、純太が何をしたいのか分からない。助けを求めるように青八木くんに必死でアイコンタクトを取ってみても手出しする気はないようだ。無言で手をクロスさせてバッテンマークを示された、可愛いなちくしょう。


「じゅ、じゅんたー? ね、どうしたの。と、りあえず手ぇ離そう?」


 幼なじみだからという理由で、クラスメイトから茶化されたことも男女の仲を疑われたことも何度だってある。けれどこれは言い逃れできそうにない噂を立てられてしまいそうだ、思春期高校生って本当に面倒くさい。わたしとしては別にそれはどうでもいいのだけれど、掴まれた手に少しずつ力が込められてきて痛いことのほうが重要だ。わたしがいま一度離してくれと言うより先に、ずっとうつむいたままだった純太の頭がばっと上を向いた。


「譲が、」
「ちょっと純、」
「譲が伸ばしても似合うっつったんだろ!」


 なんだ、その顔。額も頬も耳も見たことがないくらい赤くして、声だって語尾がちょっと間抜けに裏返っていて、伸びた黒髪が顔を上げた瞬間にばさりと揺れてきれいで。握られた手が痛くて、やけにあつい。


「何、それ……いつの話? あ、青八木くんも知ってる、の?」
「……俺も、ちゃんと聞いてた。覚えてる」
「えええ?」
「お前、ほんっとーに、覚えてねーのかよ、」
「ご、ごめん」


 むすっとして子供みたいに拗ねた赤い顔、正直純太がしても可愛くはない。青八木くんがやったらきっととても可愛いのだろうけれど純太じゃ可愛くも何ともない。むしろ何故そんな顔をされなければいけないのか分からない。小学生のとき、わたしが純太の好きな子を聞いたときだって笑顔で軽くかわしたくせに。何で、わたしが自分の言ったことを覚えていなかっただけで、こんなに。顔を赤くして声を荒げて、普段の余裕も策士っぷりもどこに置いてきたのかと問い掛けたくなるほどに取り乱して。ここまで露骨に照れた顔なんて、十七年間傍にいて初めて見たかもしれない。どうすれば正しい対応なのか見当もつかなくて青八木くんをちらりと見ても相変わらずバッテンマーク、可愛らしいが優しくない。


「覚えてない白崎が悪い」
「だからごめんって。この話したのっていつ?」
「一年」


 高一の頃ならばまだ純太の髪が短かった頃だろう、果たしてそんなことを言っただろうか。首を傾げるわたしに青八木くんは溜め息をつき、純太はさらに手に力を込め出した。みしみしと骨の悲鳴が聞こえてきそうな力の強さに思わずわたしも悲鳴を上げる。


「痛ったたた! 痛いってば!」
「俺が青八木と話してるときにふらっと来ていきなり頭ぐっしゃぐしゃにかき回したと思ったら『純太は髪伸ばしても似合いそうだね』っつったんだよ! 覚えてねーみたいだけどお前が!」


 純太のあまりの剣幕と声の大きさに気圧されながら思い出そうとしてみるけれど断片すら浮かんでこない。たぶんきっと今日みたいな世間話のノリだったのだろう、記憶にも残らないような興味の薄いもの。なのに。……なんだ可愛いじゃないか、緩む口元を隠しもせずに純太を見ればばつが悪そうに目を逸らされた。



「なあに、それで純太は素直に髪伸ばしてたの」


 にやにやとわざとらしく口角を吊り上げて悪い顔をして見せれば、どんどんと純太が頬を染め言葉に詰まって面白い。普段は立場が逆だから、余計に。青八木くんが小さく首を横に振ってやめてやれ、と視線で訴えかけてくるけれど頷くことはしなかった。弱い力で握られた手をやわく握り返す。


「純太も可愛いところあるじゃん。……でもわたし、短いのも好きだよ」


 掴まれていないほうの手できれいなウェーブを描く天然パーマの髪を梳く。小さな頃から変わらない、男の子のわりに触り心地のいい髪。わたしがそれを気に入っていること、純太も知っていたでしょう。青八木くんだって知っているんだから純太が知らないわけがない。


「純太、わたしさ、」


 羞恥のせいかうつむいてしまった頭を見下ろしながら目を細める。わずかに震えているように見える肩を心配そうに見ている青八木くんにウインクをひとつプレゼントして、三日月の形を描いているだろう唇を開いた。



「長くても短くても、似合ってても似合ってなくても、純太なら何だっていいんだよ、たぶん」


 それでも、気まぐれに呟いただけの一言を素直に実行してしまう幼なじみににやけが止まらない。胸の奥の柔らかいところを、そうっとくすぐられたような気分だ。これがときめきってやつだろうか。そう呼ぶには少々意地が悪くて、遠まわしで分かりづらくて甘さが足りない気がする。けれど。いつもより熱を持った顔だとか、とくとくと速いリズムでわたしを急き立てる心臓だとか、締め付けられるような胸の感覚だとか、それら全部に名前をつけるとしたらそれはきっと。



「ねえ純太、その髪、似合ってるよ」
「赤くなった顔も、かわいくて好き」



 ばかみたいに余裕を失くした策士さまのこの表情が、名前をつけられた感情の答えなんじゃないか、なんてね。

 意外と可愛らしいところのあった幼なじみの髪を上機嫌に撫でつけると、静かな視線の焦点がわたしに合う。盛大な溜め息をひとつ、交わった視線の色は呆れきっていた。余所でやれとの口パクに小さく笑みを浮かべて指先をすべらせる、バッテンマークはもうなかった。



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手嶋さんと無責任幼なじみ。何気ない一言は爆弾。

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