瞼裏のあつさに殺される



 もはや通い慣れた冷たい廊下を裸足のつま先でひたひたと歩く。先導してくれる赤毛とカチューシャを視界に入れて、気づかれないように溜め息を吐いた。こんなところ見つかったらわたしはもちろんのこと、怒られるだろうに。見つからなければそれで済む話だし、今まで見つからなかったからこうして懲りずにここにいるわけだけど、もう少しわたしに対する遠慮とか配慮とかはないものか。掴まれた手首からかすかな焦りが伝わってきて、纏わりつく蒸し暑さとともに払いのけたくなったがそれも出来ない。わたしも大概甘いなあと、わたし限定に甘い幼なじみを思い出しては小さくへの字の口元を緩めた。変なところばかり似たもの同士だ。


「今日は何をやらかしたの」


 出来るだけひそめた声で問い掛ければばつが悪そうに目を逸らされた。わざわざ規則を破ってまで足を運んだのだから、その理由を知ることくらい当然の権利だろう。困ったように目を合わせる二人に思わず眉が寄る。そんな露骨なアイコンタクトを交わしても決心はつかないのか、わたしはただ困惑するばかりだ。再び唇を引き結ぶ間にも三人分の足音は廊下を確かに歩んでいって、目的の部屋まで遠くないことはなし崩しに覚えた間取りから分かる。ねえ、といま一度声をかけようとしたところで、普段の自信に満ちた顔が嘘のように形を潜めた情けないそれが振り返った。ファンの声援に応えるべくよく通る快活なものとは違う、歯切れの悪い声はわたし以上に困惑しているようだった。


「いや……それが分からんから白崎ちゃんを頼ったんだ」すまんね。


 申し訳なさの詰まった謝罪に小さく息を吐くことで応えた。おそらく彼らは出来る限りのことをしたのだろう、やれることをやって万策が尽きたからわたしを頼った。まったく、手のかかる幼なじみである。普段と逆転する立場に面白くないと不機嫌に吐き捨て、わざとらしく年上ぶって世話を焼こうとするわたしを睨みつけるくらいがちょうどいいのに。元来世話焼きなのは向こうのほうだ、わたしを引っ張っていくのも甘やかすのも。猫背なのは気にしないが存外高い身長をみっともなく丸めてる姿は好きじゃない。似合ってない姿を見たくないから、手を伸ばすのはその程度の理由で充分だ。


「東堂くん、新開くん」

 目的地点まで数メートル、そこで掴まれていた手首を静かに離してもらう。ごめんね、ありがとう。わざわざ言葉で伝える気はあまりないけれど、唇をやわく持ち上げてみせた。あいつもいい友人を持ったものだ、もちろんいい幼なじみも。


「わたしが戻ってこなかったら、明日の朝までにとびっきりの言い訳を用意しておいてね」


 少し驚いたように目を見開くふたりに笑ってみせて、小さなノック音とともに薄いドアのなかへと身体を滑り込ませる。単なる予想に過ぎないけれど、たぶん朝までは戻ってこられない気がする。寮監の見回りなんてめったにないけれど、それでも一応念には念を。ある意味すすんで巻き込まれてはいるもののお咎めを食らうのは福ちゃんに面目が立たない。まああの子のことだから夏風邪とでも言っておけば納得されるだろう。体脂肪が恐ろしく低いせいで気温の差ですぐ風邪を引くのは幼なじみでなくとも知っている。そして風邪を引くたびに幼なじみを呼ぶというのは部内では既に周知の事実だった。


 六畳一間の狭い部屋は湿っぽい空気が満ちていて、剥き出しの首にも脚にもじっとりとした気だるさを覚えさせる。蒸し暑さは冷静な思考を奪っていくようにも見えた。あついのは苦手なくせに。カーテンの隙間から零れる月明かりだけを頼りに、物の少ない部屋を横断して窓まで近づく。からからと換気の意味も含めて窓を開ければ、ベッドの上の黒い塊が動く気配がした。



「……だれェ? 福チャン?」


 覇気のない情けない声だ。それが弱り切っているからか、彼が気を許した福ちゃんに向けて発したからかまでは判断がつかない。福ちゃんは、夜中不躾に部屋を訪ねて家主の許可もなく窓を開けたりしないなんてことは、よく考えずとも分かるはずのことなのに。


「靖友」


 手負いの獣でさえ、こんなに怯えたりしないだろう。なんで譲が、と掠れた声が聞こえたが無視だ。何があったのかなんて知らないし意地っ張りな幼なじみはわたしに弱味を見せることをよしとしない。だから無理には聞かないし下手な慰めの言葉も必要ない。大丈夫なんてことも聞かない、だめだからわたしがここにいるのだ。東堂くんと新開くんが心配していたことを伝えようかは迷ったけれど言わないことにした。

 ベッドサイドに何を言うでもなく近づいて端のほうに腰を下ろす。ぎしりと軋んだスプリングの音が静かな部屋で大きく聞こえた。手を伸ばして思いのほか柔らかい髪に触れる。拒絶されないのをいいことに撫でて掻き回してと好き勝手に振る舞う。僅かに汗の浮いた額の熱は普段よりも高い部類だが、発熱しているわけではなさそうだ。部屋を閉めきって寝るからだと思うも余計なことを言えばあまりよろしくない機嫌がさらに急降下するのは火を見るより明らかなので、黙って普段よりも高い体温を奪うように手のひらを押しつけた。低体温のわたしの手にすり寄るようにして寄せられた頬に少しだけ息を漏らす。狼だ野獣だと言われているが仕草がどことなく猫っぽい。そうして気を抜いていると開いた襟ぐりの首根っこを掴まれて強引にベッドに引きずり込まれた。先ほどより大きな悲鳴を上げるスプリングに、思わず壁のあたりを見て外の様子を窺った。特に話し声も物音もしないから平気だろう、たぶん。


「……靖友、服が伸びるから離して」


 ようやく見えた顔は見事に眉間に難しそうな縦皺が寄せられていて、それをほぐすようにぐりぐりと押せば舌打ちが返された。それでも大人しく服から手を離してくれるからいいほうだ。わたしが動いたせいか先に窓を開けたおかげか部屋の空気が動いて、少しだけ生ぬるさの拭われた風が肌を撫でた。身じろぎをしてなんとなく収まりのいい体勢に落ち着く、彼の懐にもぐり込むようにしても抵抗のひとつもなかった。これは相当参ってるのかもしれない。ようやく薄暗さに慣れた目の前、まつげの触れそうな距離にあるのはシンプルな黒いタンクトップとそこから覗く存外白い肌。掴まれた手首は相変わらず熱いままだ。


「靖友」
「アー……なに、」


 気怠げな声、それでも律儀にわたしの呼びかけには答える。いつもなら部屋に入るだけでぶちぶちと文句を言うくせに、ベッドにわたしを引き倒してなお進んで口を開こうとはしない。言いたくないならそれでいい、わたしなんかが深入りせずとも靖友は自分で解決してしまうだろう。その途中でめげたりヘコんだりするのは誰にでもあることだ。そのときは、意地っ張りで素直じゃない幼なじみの傍にいてあげようと昔から決めている。


「言いづらいならいいよ。……今日は、一緒にいるから」


 こういうとき顔を見られるのは嫌だろう、とうつむいて胸元に額を預ける。鼻先を掠めるのはシャンプーと石鹸、それと混ざり合った靖友の匂いだ。きつい匂いを好まないのも共通点のひとつで、清潔感のあるそれはわたしを安心させてくれる。落ち着く匂いにわたしの瞼もそろりと重くなったが靖友が寝るのを見届けてからではないと眠れない。男子寮に忍び込んだ、と言うより連れてこられた意味がなくなってしまう。


「譲さァ、」
「うん、なに」


 少々眠たげではあるものの弱々しさの薄れた声に顔を上げるとやはり不機嫌そうにわたしを見つめる瞳があった。手首を握っていたはずの手はいつの間にか頬に伸びて、目尻のあたりを撫で指先で耳たぶをくすぐる。こそばゆさに身をよじろうとしたけれど下手な抵抗で機嫌を損ねると厄介なので好きにさせておいた。声をかけたのは靖友のくせにやけに間が長い。眠たいのかと遠慮なしに顔を覗き込んでみたらきつく睨まれた。眼光の鋭い睨みは気の弱い者なら震え上がる程度には迫力があったが慣れにはかなわない。間近で十八年も見ていれば怖くも何ともない。



「オレ以外のヤツに、こーゆーことすんなヨ」
「靖友にしか、しないよ」



 何かと思えばそんなことか。他のひとに、ここまでするわけないだろう。幼なじみだから、他でもない靖友だから、こんなふうな破格の対応をしているのだ。高三にもなって、本当はいけないのに男子寮の靖友の部屋まで来て、茹だるような蒸し暑さに辟易しながら添い寝だなんて。靖友相手でなければお断りだ。


「ね、靖友、寝よう。目が覚めても傍にいるから」
「ン……おやすみィ譲」



 額に柔らかい感触が落ちてきて、頬を撫でていた手が背に回り猫のように丸くなる。筋肉質な胸板に額が押し付けられる、鼓動が心地いいリズムで耳朶を叩く。少しして呼吸の間隔が緩やかになり、寝息が前髪を小さく揺らす頃には顔に集まった熱も少しは逃げていた。足元で丸まっていたタオルケットをおなかに掛けて、ずるいやつだと思いながら憎らしい寝顔を見つめた。わりと長いまつげが好きだったりする、小さな頃から変わらないそれを眺めて改めてそんなことを思う。


 寮の備え付けのシングルベッドは二人で寝るには少々狭苦しい。それも細身の部類とは言え運動部の男子高校生ともなれば尚更だ。二人身を寄せ合って暑さも気にせず子供のようにくっついてようやく収まっているようなものだ。互いに寝相は悪くないし、わたしを抱きしめて眠るときの靖友は朝まで腕を離そうとしないから落とされることもないだろうけれど。

 胸元にすり寄って見た目の細さよりも筋肉質な胸に頬をつける。規則正しい鼓動がすぐ傍にあって落ち着く匂いが鼻孔をくすぐって、背に回された腕がさらに身体を密着させた。淡いパステルイエローのショートパンツから覗くわたしの脚とグレーのハーフパンツから覗く靖友の脚が触れる。わたしよりも体温の高い靖友に触れるとその部分が全部熱を持ったように感じる。太腿がかたい、さすが自転車競技部なだけあって腿半ばからの日焼けが目に付く。随分と男らしいというか引き締まった身体になったものだ、薄いけれどわたしよりも強くて頼りがいのあるそれ。昔とは違うオトコノコの、ううん青年の身体つき。胸から視線を上げて骨の浮いた首筋、浅い呼吸を繰り返す薄い唇にたどり着き、眠りに落ちる直前に額に触れた柔らかな熱を思い出して、思わず溜め息を吐いた。さっさと寝てしまえば楽なのに、普段よりも働き者の心臓が苦しくてくらくらした。窓は開け放したままのはずなのに、やけにあつい。




 きょうだいのようなもの、なんだと思う。靖友にとっての、わたしは。一緒のベッドに入ってもやらしいことは何もしてない。やましいことは何もない。あの可愛い妹ちゃんたちと一緒に寝るような、そんな感覚なんだろう。その遠慮のない関係が心地よくて、近すぎる距離感が逆にもどかしくて、わたしも靖友もあと一歩を踏み出すことに怯えている。足元から崩れ落ちるのが怖くて踏みとどまっている。


 ばかみたいだ、と思う。それと同時にどうしようもない、とも。
 どこにもいけない感情を持て余して夏の夜のあつさに浮かされて汗の滲む肌を寄り添わせて、眦から一筋伝う液体を知らないふりをして強く目を閉じた。

 緩やかな呼吸の通う唇に触れる勇気を、わたしは持たない。



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近すぎる距離に怯えるばか二人

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