猫の声音でふせいじつ





 わたしの指が細くてよかった、わたしの手のひらが小さくてよかった、と彼は言った。いつもの低く、ぼそぼそと聞き取りづらい声ではない。上機嫌で、ところどころ音階すら調子っぱずれになるそれは、音からも酒気が滲んでいるようだった。お酒に弱いのは知っていた、酔うといつになく上機嫌になって顔を赤らめて、そのうち眠ってしまうのも。そうして兄弟に背負われて帰っているのだと、彼のお兄さんがおかしそうに教えてくれた。手招きをして、内緒話をするみたいに耳元に口を寄せて、小さな声で話すものだからよっぽどのことだと思ったのに、それでも赤いお兄さんは「おかしいでしょー?」と心底楽しそうに笑うから、わたしもそんな彼の姿を想像して、ほんの少しだけ口元を緩めたのだ。わたしの前では、がんばって精いっぱい格好よくいようとしてくれているから、酔ったときのことを知られるのは、きっと本意じゃないだろう。だから、ちょっとだけ。かわいいと思ったのはきちんと胸のうちがわに仕舞っておいて、「これおれが話したのないしょね」といたずらっ子のように言うお兄さんと指切りをした。指を離した直後に彼に見つかって、お兄さんは居間の片隅にほっぽり出されてしまったのだけれど、襖を突き破らなかったのは幸いだった。彼はわたしとお兄さんが絡めた左の小指、と左の手のひら全体を石鹸で丁寧に洗ったあとに、正座でわたしに向き合って「あれはケダモノなんだから不用意に近付いちゃだめ。簡単に食べられちゃう」と何度も何度も言い聞かせた。ふたりして長時間の正座をしていたせいか、痺れてしばらく立てなかった。足の痺れがようやく取れた帰り道、彼は十二回ほど中空で手を意味もなくさまよわせて引っ込める作業を繰り返したあとに、ようやく、ようやく自身の右手でわたしの左手をつかまえてくれた。さっきはあんなにべたべたぬるぬる触って、わたしの手がふやけてしまうほどだったのに。いつまでも初々しいなあ、とわたしもつられてほんのりと頬が熱くなるのを感じながら、やんわりと握り返した。そんなときだった。夕焼けに照らされた赤い頬をわたしに向けられないまま、彼は「……きみの、手が、その……ちいさくて、す、すき、」と言ったのだ。隣に並んでいても聞き逃してしまいそうな、ほんとうにかすかな声だった。あの不器用で、照れ屋で、目線ひとつしっかり合わせるのにも苦労するひとが、そう思うだけで胸にぽっとちいさな灯りをともしてもらったような、あたたかい気持ちがじんわりと広がっていく。このひとがすきだなあ、と思う。冷えやすいわたしの指先は、大きくてすこし手汗をかいた彼の手のひらに覆われるように包まれている。安心するから、こういうふうにされるのも好き。だけど、ちょっとだけ、もうちょっとだけ近づきたいような気持ちになって、すっかりあたたまった指先をぎこちなく縮こまっていた指のあいだにすべりこませた。わかりやすく肩が硬直して、すこしごつごつとした指は震えている。普段のひどい猫背はぴんっと張り詰めたように真っ直ぐになっていて、思ったよりも身長差があったのだと新しい一面を発見した。「わたしも、おおきくて、あったかい手のひらが好きです。ぎゅってされると、すごく、その、あんしんします」と熱くなった頬をうつむかせたまま言った。足元から伸びる影はずいぶんと長くて、ふたつが寄り添ってひとつの影になっているのを、じっと見ていた。おっかなびっくり伸びていた指が折りたたまれて、何かに弾かれたみたいに歩き出した彼につられて、いつのまにか止めていた足を動かした。橙と藍色の中間でくすぶるように染まる紫が、ひどく目に焼きついていた。



 そんなまばゆい日のことを、ぼんやりと思い出していた。「ゆび、細くてよかった。てのひらも、ちいさくて、よかったあ」眉を下げて笑う顔を見るのは、はじめてだった。わたしだけの前で、彼なりに、格好よく見せようとしてくれるから。実はわたしが気の抜けたような笑みも、照れたときのそれも、こぼすようなものも好きだということは、きっと知らない。それでもやっぱり、ここまでふやけたこどものような満面の笑みは、はじめて見る。いつもの地を這うように低いそれではなく、ひとの頭上をふわふわと浮かんで飛んでいくような声。頬は赤らんでいて、口元は緩んでいて、口調もどこか幼いように感じた。今日は兄弟とどこそこで飲んで、おでんを食べて、と彼が軽やかに口を開くたびに、ふわりとわたしの知らないアルコールの匂いが鼻に着く。目の前の彼は、しっかりと酔っているようだった。もうそろそろ深夜に差し掛かりそうな公園で、つめたいベンチにたがいの膝をぴったりとくっつけて座る。足取りはいくらか危ないように見えたけれど、いつもよりまぶたの重そうな半目は未だ眠ろうとはしていないようだった。ここで眠られても困るから、わたしは助かっているけれど。楽しそうにわたしに語り聞かせる声にはお酒の匂いもじゅうぶんに含まれていて、酔った勢いゆえの行動なのかもしれなかったけれど、それでもわたしは隠そうとしていたぶぶんを見せてくれたことに込み上がる喜びを隠せなかった。酔っ払った彼は、それはもう、かわいかったのだ。お兄さんが「ないしょだ」と言って聞かせてくれていたことだけれど、ほんものの破壊力といったら、すごい。夜の深いとばりのなかでも分かる顔色は熱そうなあかいろをしていたし、よくしゃべる耳慣れない声はなんだか鼓膜がくすぐったくなるような心地がしたし、なにより笑顔が、やわらかくって可愛くって、わたしの顔まであったかくなってくる。そしてその、きわめつけが、わたしの左手をなんのためらいもなく握り込んで、時折思い出したかのようにぎゅっと力を込めてくるのが、たまらなく心臓をきゅっと苦しくさせた。こたえるように指先で握り返してみると、彼ははっとして、一瞬だけ首まであかくして、あいていた左手でジャージのポケットをまさぐった。探し物は左のポケットでは見つからなかったのか、ほんの少し迷ったあとにわたしの手を包んでいた右手を離して、その代わりにさみしくないように左手で触れて、今度は右のポケットを探り出した。指の動きで膨らむポケットの奥、何かがぶつかったようで動きが止まる。ゆっくりと引き出されるのを目で追っていると、それと一緒にわたしの左手を掲げるようにされた。そうして、彼は言ったのだ。「ゆび、細くてよかった。てのひらも、ちいさくて、よかったあ」天まで昇りそうな、普段の彼とはちがう浮かれた声色だった。いまにも、とけてしまいそうな、笑顔だった。胸の奥はあたたかいを通り越して熱くて仕方がないし、今度こそ真ん中を撃ち抜かれて死んでしまうかと思った。このひとが、すきだと、好きでよかったと思っていると、わたしの約束をする指に触れたつめたい感触に気づく。缶詰、おそらく猫缶を開けるための、ちいさな金具。それが、わたしの左手の小指に、そっと嵌まっていた。声も出せずに震えていると、彼は「くすりゆびには、まだはめられない、から」と音階を外し損ねた、掠れたように低い声で、恥ずかしそうに視線を逸らして呟いた。




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不誠実でも不正実でもお好きなように。
改行が少ないのは仕様です。

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