きみのわたしのそういうところ




 人間はひとの顔を見るとき、くちびるに一番長い時間を割くらしい。それほど顔のなかでも目につく魅力的なパーツなのだ、とどこかで聞いた情報をぼんやり思い出しながら、自分用の飲み口の薄いシンプルな白のマグカップと、その次に使用頻度の高い深いあおいろでくまの描かれた愛らしいマグカップに、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。わたし自身はどちらかというと紅茶党なのだけれど、いつの間にかわたしの部屋には紅茶の他に、インスタントではない挽かれたコーヒーが常備されるようになってしまった。来客なんて頻繁に来るひとりを除いてあまり多くはないから、コーヒー党のやつに合わせているとすぐにティーバッグが余る。ひとりでは毎日せっせと消費しても、なかなか終わりが見えない。お試しでお徳用サイズを買ったのは失敗だったかもしれないなあ、とちいさく後悔する。数はたくさん入ってるけれど、薄くて、安っぽい味がするから次買うことはもうないだろう。やっぱりいつもの葉っぱのやつのほうがおいしい。へんな冒険はするものじゃない。次にやつが来たときは余ったティーバッグの消費に貢献してもらおう。それが全部なくなったら、わたしの好きなブランドの、缶に入ったちょっといい茶葉を買おう。その頃にはほどほどにコーヒーも少なくなっているだろうからそっちも買い足さないといけない。そのときには、また買い物に付き合ってもらうことにしよう。うん、荷物持ち兼デート相手確保。重たいものでも嫌な顔せず持ってくれるものだからついつい頼ってしまうのだけれど、本人も気にしたふうではないし嬉しそうな顔をするので全面的に頼っている。お米もなくなりそうだったら一緒にお願いすることにしよう。頭のなかで勝手に計画を組み立てて、ひとり納得する。相手の予定も確認していないけれど、基本的にいつだって暇を持て余しているのだから問題ないだろう。


 湯気の立つマグカップをふたつ持って、手狭なキッチンからまだ少しだけ広いダイニングに足を運ぶ。ローテーブルにことんとマグカップを置いてふかふかの白いソファに腰を下ろす。そしてローテーブルの向こう側、テレビ台のあいだでさっき借りてきたDVDをセットしている青いパーカーに身を包んだ男を見下ろす。窓から差し込む陽射しがまるい後頭部の形をくっきりと照らし出していて、浮かんだ埃がきらきらとひかりを跳ね返して舞い落ちていた。今日はなに借りてきたんだっけ、ああ去年話題になったアクション映画だ。楽しめるといいんだけど最近よく分かんないのもあるからなあ。前回はハズレを引いて終盤あたりはふたりともうとうとしてしまって途中から見直したのだ。結局何がなんだかよく分からない終わり方をしていたことと、内容も演出も素晴らしくB級以下だったことだけよく覚えている。


 コーヒーと一緒に軽くつまめるものがあるか探しに行こうかなと思ったところで、やわらかなスプリングが一瞬沈んでまたぐっと弾み返した。すぐ隣、触れそうな距離に腰を下ろしたカラ松がリモコン片手に再生するか、と首を傾げる。わたしより重たいから当たり前なんだけど、こいつが隣に座ると横のわたしが傾くんだよなあ。ちょっと面白いから言わないままでいるのだけど。膝も肩も触れ合ってそこからわたしよりも高い体温を感じる。狭いソファにふたりで隣り合って座ると恋人よろしく寄り添うような形になってしまうのだけれど、カラ松は何も言わずに寄りかからせてくれるからずっと甘えたままでいる。


 クッキーかなにか食べるか聞こうとしたあたりで、先ほどの目につく云々をまたぼんやりと思い出した。どこで見かけたんだっけ、雑誌かネットかおそらくそのあたりだろう。今日待ち合わせた駅前の広場でいつも通りしゃんと伸びた背筋が振り返ったそのときから、なにやら芝居がかったような言葉を口にしながら隣を歩いてるときも、CDショップを覗いてお気に入りのアーティストの新譜を試聴しているときも、わりと真剣な顔でDVDを選んでいるあいだも、部屋に上がり込んで脱いだ靴を丁寧に揃えたときも、ずうっと気になっていたのだ。すこし見上げるようにしてじいっと見つめてみると、カラ松は不思議そうな顔で「ん?」とこちらを見つめ返してくる。


「カラ松、痛くないの」
「ん、何がだ?」
「くちびる、すごく荒れてる」


 皮もむけてわずかに血のにじんだくちびるは目にするだけで痛ましい。コーヒーじゃなくて今日はホットミルクにすればよかったなあ、と思いながら湯気を立てるふたつのマグカップを見下ろす。果たしてホットミルクがくちびるに優しいのかは分からないけれど、少なくともコーヒーよりは刺激が少ないような気がする。見るからに乾燥しているくちびるに眉根を寄せれば、カラ松はああ、と合点がいったような声を出した。


「荒れているから一応ドラッグストアで男性用? の、リップを買ってみたんだが、これがどうにも苦手で……。買ったはいいがひりひりするから、あんまり塗ってないんだ」


 薬用って書いてあるから効くと思ったんだけどな、といつもは凛々しい眉を垂らす。カラ松がポケットから取り出したリップは、わたしもよく知る緑色のパッケージをしていた。キャップを外すと、ふわりとあまり好んではいないメンソレータムの香りが鼻先をくすぐる。鼻の奥を通り抜けるような爽やかな香りとすーすーする感覚が好きなひとは好きなんだろうが、わたしはカラ松と同じくどうにも苦手である。それも荒れ放題のくちびるに、なんて考えるだけでわたしまでひりひりしてくる気がして、思わず自分のくちびるを手のひらで押さえた。


「そんな荒れ放題のくちびるにメンソレータムの刺激は逆に悪化しそうだし、普通に痛そう。カラ松、ミント系とかすーすーするタイプあんまり好きじゃないでしょ。合わないの買っちゃったみたいね」
「う……得意では、ない」


 乾いたくちびるを湿らすように赤い舌が動くが、見事に逆効果だ。舌先に触れたぺろりとめくれた皮が気になるのか、カラ松の存外骨ばった指が同じ箇所を往復する。むくのもだめ、と指をつかんで止めさせる。気になるのも分かるけど、皮をむくのもくちびる舐めるのもなおさら乾燥するだけだし悪化するからね、と言えばばつが悪そうに目を逸らされた。


「まあ男性用のリップは数が少ないもんね。気休め程度かもしれないけど、わたしの使ってみる? 薬用だけど無香料の低刺激のやつ」
「ハニーがいいなら、頼みたい」
「ん、ちょっと待っててねダーリン」


 ずいぶんと耳慣れた、思わず笑ってしまいそうになる呼び名にいまさらツッコミは入れない。むしろふざけて乗っかるのがもはや日常に溶け込んでいるほどだ。ドアを一枚はさんだ寝室へ、仕事用のバッグから化粧直しのポーチを取り出す。ポーチのなかからお目当てのピンクベージュのリップを探すけれど、これがなかなか見つからない。必要最低限のものしか入っていないポーチを膝の上でひっくり返してみても、ない。職場に忘れてきたのかな、と思いつつしょうがないと予定よりも赤いパッケージのリップを手に取った。薄いスライドドアの向こうがわから、「ハニー?」と呼びかける無駄にいい声がする。いま行くよダーリン、と返事をしながら、待てができない犬か、と一応同い年で成人男性であるはずの親友に小さく息をつく。今年で四歳になるまたいとこだってちょっと待っててね、と言えばおててはお膝で五分程度大人しくできるというのに、こいつときたら。犬だとしたら大型犬だな、しっぽちぎれそうなくらいバカみたいにぶんぶん振ってそうなの。想像したら思った以上に似合っていて、おかしくて、ふふっと笑みが漏れる。ダイニングに戻り再びソファに腰を下ろして向き合うと、思っていたよりずいぶんと距離が近くて少し驚いたが、それもいまは好都合だ。


「ごめんねカラ松、さっき言ってたの職場に置いてきちゃったみたい。かわりに色付きのやつでもいい? 塗らないよりましだと思うんだけど」
「ああ、別に構わないが、それ……譲の使いかけじゃ、ないのか。い、いいのか……?」


 カラ松の視線はわたしが手に持っている色付きリップとわたしのくちびるのあいだをひたすら泳いでいるようだった。いつもは鋭い眉の角度も情けなく垂れ下がり、頬もわずかに朱が差している。先ほどまでそんな素振りは見せなかったのに、暑そうにパーカーの首元をぱたぱたと引っ張って風を送っている。そのたびにカラ松の首元で金のネックレスがちゃりちゃり音を立てて、余計に落ち着かなさそうにしていた。こういうところがからかい甲斐があるというか、かわいいというか。本当にわたしと同い年の男なんだろうか、と思う。赤くなった顔もしどろもどろの言葉も面白いけれど、そこまで露骨に反応されるとわたしにまで照れが移りそうなときがあるから、ちょっと困りものだ。今回は大したことないどころか、逆にここで照れるか、と疑問に思うくらいなのでわたしは平然としていられるけれど。


「回し飲みもパスタのわけっこもアイスの一口交換もケーキはいあーんもやったじゃん。いまさらカラ松と間接ちゅーでどうこう言わないよ」
「そ、そうか」
「ねえ、わたしが塗っていい?」


 顎に手をかけながらおねだりするように首を傾げれば、今度こそぶわりとカラ松の顔から耳、首元までが真っ赤に染まる。触るとあつそうだな、と思うくらいに一気に血が集まっているのがわかる。ゆでだこというのはこういう状態をさすのだろう。頷いてるんだか痙攣してるんだか分からない揺れを肯定的に解釈して、キャップを取り外す。ふわりと鼻先に届く控えめな甘い香りに頬を緩めながら、少しリップをくり出して荒れたくちびるにそっと触れさせる。きゅっとかたく目をつむって、いわゆるキス待ち顔をしていたカラ松がそのまま動かないわたしにしびれを切らしたのか、おそるおそる目を開けて消え入りそうな小さな声で名前を呼んだ。



「譲?」
「カラ松しゃべんないで。いまリップ溶かしてるから」



 不思議そうに目を丸めているから、わたしが何をしてるのかよく分かってないのだろう。最近では男のひとでもリップを塗るのは普通のことだけれど、これ意外と知られていないのかな。また口を開こうとして思いとどまったカラ松が、どういうことだ、と言わんばかりに控えめに首を傾け目で訴えてきた。変なところだけ器用というか、その仕草と視線で何を言いたいのかだいたい分かってしまうのはそれなりに長い付き合いの賜物だろうか。


「リップスティックかたいでしょ。そのまま塗ったら皮膚が引っ張られてよくないから、こうしてちょっと当てて溶かしてから塗るといいんだよ。くちびるの皮膚はひとの身体のなかでも一番薄いらしいからね。その次が目の下だったかな、ちょっとうろ覚えだから違うかも。……そろそろいいかな、カラ松、くちあけて」


 なるほど、と言わんばかりに一度頷いたあと、わたしの言葉にまた気恥ずかしそうにぎゅっと目をかたくつむる。そんなに恥ずかしがるようなことかと思いつつも、初々しく面白い反応にわたしの笑みは深まるばかりだ。軽く顎をつかんで固定しながら、これって話題の顎くいってやつかとぼんやり考える。男女が逆だがまあどうでもいいことだ。塗りやすいようにほんの少し開かれたくちびるに、ゆっくりとリップをすべらせる。荒れているぶん、自分のものにするよりもやりにくい。スティックを持つ指先にもざりざりとした感触が伝わってくるから相当だろう。切れやすいくちびるの端にも丁寧に、既に切れている部分はあまり刺激しないように、たっぷりと三往復くらいしてやれば先ほどとは見違えるほどだった。つやつやうるうるの、ピンクに色付いた女子力溢れるくちびるの完成だ。



「あはは、カラ松かわいー」



 見慣れた顔に、見慣れないピンク色。思わず、ふはっとこらえきれない笑いがこぼれる。もともと凛々しい顔つきなのもあってか、いかにも女の子らしさを強調するようなピンクがとても似合わない。青ばかりを着ているせいもあってか、いつにない色の組み合わせは違和感にしか思えなかった。震えそうになる指先をなんとか抑えて、薄い皮膚を引っ張らないようにひび割れた部分にも行き渡るようにゆっくりとスティックを縦方向に動かす。



「くちびるんーってして、すり合わせてみて。……ん、これでいいかな。しっとりしてる? ならよし、はい終わりー」



 キャップをつけている最中にも込み上げてくる笑いをこらえきれなくて、ちょっとカラ松に睨まれるけれどとても怖くは見えない。それどころか逆に可愛くておかしくって、また笑ってしまう。悪循環だ。気になるけれど触ってもいいものか、というふうに手をさまよわせているカラ松に折りたたみの小さな鏡を渡してやる。いつも見ている手鏡よりも見づらい小さなそれを覗き込んだカラ松は、なんとも複雑そうな顔をしていた。


 わたしもちょっと塗っておこうかなあ、と自らのくちびるに触れる。そこまで乾燥しているわけでもないけれど、なにも塗ってないからぷるぷるってわけでもない。でも色付きだとカップの飲み口についちゃうからなあ。うん、塗るのは映画のあとにしよう。あとカラ松のコーヒーはしばらくお預けだ。映画が終わったらはちみつのパックをさせて、そのあとにホットミルクでも作ろう。そう思って今度こそテレビに向き合いながらリモコンを手に取ると、その手をそっとつかまれた。犯人はひとりしかいない。


「見ないの?」
「お、俺もその、塗ってみたい」



 どぎまぎとしながらも、期待の入り混じった眼差しが真っ直ぐとわたしを見つめていた。だめか、とまるで懇願するような声にひとつ息をつく。わたしがその目に、その声にほだされやすいことを、目の前のこいつはきっと知らないのだろう。ほどほどにしておかないとバレるな、と思うも頼まれるのはこういった些細なことばかりなので、これくらいならいいか、と毎度許してしまう。今回だって例外じゃない。いいよ、と返事をしてリップを渡すと、途端にぱあっとまるで周りに花が咲いたような、見るからに嬉しそうな顔をする。単純だと思わなくもないけれど、分かりやすいのは悪いことじゃない。手首のあたりをつかんでいた手のひらにリモコンを取られて、テーブルの上に置かれる。思わず視線がテレビのほうへ逃げるけれど、伸びてきた手のひらに止められた。落ちた前髪をさらりと耳にかけて、そうっと逃げた視線を戻される。……こういうことは、照れずにさらっとやってしまうのがずるいと思う。耳に触れられるのが苦手なのもあって、ぴくりと肩が跳ねた。やんわりと耳の輪郭をなぞって離れていくいたずらな指をじっとりと睨みつける。苦手なのを知っているくせに、このやろう。



「目、閉じて、くち開けてくれ」


 カラ松は楽しそうにしながらもどこか真剣な表情を浮かべていて、未だにできない彼女とのシュミレーションでもしているのかな、と軽く失礼なことを考える。こういうときにいつもの長ったらしい上に意味わかんないこと言うとマイナスだぞと思いながら、言われたとおり目を伏せて軽くくちびるを開いた。そっと顎を持ち上げられて、次いでむに、と柔らかく押しつけられる感覚。リップスティックから感じるはずのない体温に思わず閉じていた目を開けると、カラ松のごつごつした指がふにふにと飽きることなくわたしのくちびるを押していた。意外と筋張った指だとか大きな手のひらだとか、ふとした瞬間に性差を意識させられるがそれもすぐに吹き飛ばされる。わたしに触れる指先に艶っぽさは微塵もなく、ひたすら感触を確かめるかのように規則的、というよりか、好奇心旺盛な子供のような無邪気さの溢れた手つきだ。さっき笑った仕返しかと思ったがそれとも違うらしい。本当にこいつわたしと同い年か、何度となく浮かんだ考えに、溜め息だってつきたくなる。



「……楽しそうだねカラ松」
「いや、触ったらやわらかくて気持ちいいだろうと思って、つい」
「別にいいけどさあ、わたし以外にやったらどうなるか知らないからやめときなね」
「おまえ以外にすると思ってるのか」
「わたし以外にする相手が兄弟以外でいるの」



 泣かないでよ単なる事実でしょ。今度こそちゃんとやるから、という言葉を信じてもう一度まぶたを下ろす。なんというか、いちゃついてるカップルみたいだなあ、と馬鹿みたいな考えが頭をよぎった。昼下がりのわたしの狭いアパートの、ふたりで座るにはすこし狭い白いソファの上で、こうやってじゃれあっていると時折そんな考えが浮かぶ。リップひとつでよくここまで遊べるものだ。まあカラ松とお付き合いをした覚えはないのだけれど。



 むに、とくちびるに押しつけられるかたい感触。ほんのりとした熱はすぐにわたしの体温に溶けて分からなくなってしまった。おっかなびっくり、という表現がよく似合う、ぎこちない動きだった。ちょんちょん、とくちびるの端っこには触れるだけ。ゆっくりと三往復したあとに縦方向に動かした。たぶんわたしの真似をしているんだろうけれど、大丈夫だろうか。カラ松は基本的に不器用だし、緊張の震えがわたしにも伝わってくるのだから心配にもなる。はみ出してないといいなあ、まあどうせカラ松にしか見られないからいいのだけど。


 親友相手になにを期待していたわけではないけれど、思った以上にどきどきしないものだな、とやっぱり失礼な感想を抱く。そんなことよりぐっと持ち上げられているせいで反った首がつらくて、手を伸ばして正面にあるパーカーをつかむ。びくっと大げさなほど跳ねる身体に内心で首を傾けながらも、他に縋れるものもないのでそのまましがみつく。カラ松くんや、もうそろそろ勘弁してくれませんかね。首もそうだけど背中もちょっときつい。くちびるはもうじゅうぶんなくらい潤っていて、スティックはくちびるの上をすべるばっかりだ。パーカーを引っ張って抗議をしようかと思ったところで、ようやくリップが離れていった。呼吸を止めていたわけではないけれど無意識に詰めてはいたようで、ぷはっと息を吐き出してゆっくりと吸い込むのを繰り返すと次第に息苦しさは引いていった。目を開けてもいいだろうかとわずかに迷っていると、伏せたままのまぶたに、目の下に、あたたかな何かが触れて、そっと離れていった。「よし、もういいぞ」と満足そうな声にまぶたを押し上げると、思ったよりも長い時間つむっていたみたいで、部屋に差し込むひかりの眩しさに反射的に目を細めた。何度か瞬きを繰り返して白いひかりに目を慣らしているあいだに、また目の下にゆるゆるとやさしい触れ方をされる。



「カラ松?」
「ん、譲は白いからくちびるに色があったほうがいいな、かわいい」
「……あー、うんありがと。鏡貸して」



 素でこういうことを言ってくるときは厄介だ。照れが移りそう、なのではなく、わたしが単純に照れてしまう。こういったときは本人はとんと無自覚なのだから、罪作りなやつである。恥ずかしさをごまかすようにくちびるをすり合わせながら手渡された鏡を覗き込む。やっぱり端っこも下くちびるも、ちょっとオーバーリップ気味だ。テーブルの上のティッシュを取ろうと手を伸ばそうとして、一度動きを止める。未だわたしの頬を包むようにして親指でそっと目の下、皮膚の薄いぶぶんを労わるようにやさしく触るカラ松が、心配そうに太い眉根を寄せているのをこれ以上無視できそうになかったからだ。


「そんなに気になる? クマひどい?」
「ひどくはないが、やっぱり疲れてるように見える。……無理して俺に会うことないんだぞ、大切な休みなんだからゆっくり身体を休めて、」
「今回はわたしから誘ったんだからそんな顔しないでよ。確かに最近ちょっと残業多かったけど、ちゃんと残業代出るからいいの。……それに、カラ松と会ってだらだら過ごすの、わたしにとっての息抜きというかリフレッシュのひとつなんだから、付き合ってよ。映画つまんなかったらまたわたし寝ちゃうかもしれないけど、そのときは枕になってよ」



 ねえ、だめ? 先ほどのおねだりのときよりも、甘えた声が出た。心配してくれるのは素直に嬉しい、最近忙しかったのも事実だ。けれど、だからといって勝手にわたしの予定を塗り替えられては困る。今日の午後は惰眠を貪るのではなく、カラ松と一緒に映画を見るのだと、他でもないわたしが決めたのだ。それに、わたしが無理をしてカラ松と会っているみたいな言い方もやめてほしいところだ。親友相手にその物言いは心外である。じっと見上げているとカラ松は不服そうな、頷きたくなさそうな渋い表情を浮かべていたけれど、沈黙に耐えきれなくなったころにひとつ大きな溜め息をついた。わたしの勝ちだ。



「頼むから、無理だけはするなよ。譲はすぐ無理をするから、心配なんだ」
「わかってるって。そもそも身体しんどかったら会おうなんて言い出さないってば」



 絶対こいつわかってない、って顔をしている。軽く流されたのも不満そうだ。顔に書いてある、という表現をここまで体現するやつもそういないだろう、と単純極まりない親友の顔を見ながら思う。むっと突き出された色付いたくちびるに、また腹の底から笑いが込み上げかけたがなんとか喉の奥でこらえた。すこし心配性というか過保護が過ぎる気もするけれど、やさしい親友にここまで思われるわたしはきっと幸せ者なんだろう。だいじょうぶ、と何度言っても信じてくれないのはちょっと考えものだが。



「ありがと、カラ松」


 頬に添えられた大きな手のひらに、そっとすり寄せるようにして顔をくっつける。そして、ふにゃりと口元を緩めてわらった。なんとかこらえていたぶんと、ゆるゆると遅れてやってきた隠しようもない嬉しさからだ。他のひとにはあまり見られたくない、なんとも情けないだろう顔もカラ松になら平気だ。あまりチークをのせていない頬に少しずつ熱が集まっていく感覚がする。このぶんではじかに触れているカラ松にも気づかれているのだろう、と思ったがわざわざ指摘するほど空気が読めないやつではないと信じたくて口をつぐんだ。


 今度はわたしのほうがふたりのあいだに横たわる沈黙に耐えきれなくなって、真正面から向き合えずに斜め下に落としていた視線を徐々に上げていく。そこには驚いたように大きく目を見開き、頬骨のあたりをほんのりと染めたまま面白いくらい微動だにしないカラ松がいて、わたしのほうがびっくりした。目の前でひらひらと手を振ってみても、名前を呼んでみても無反応。これはだめだ、しばらく放っておこうと早急に判断して、カラ松の手から抜け出し本来の目的であったティッシュを一枚取る。手鏡を見ながらピンク色がはみ出たところをきれいに拭って、そのまま丸めて部屋の隅にあるゴミ箱へ投げる。珍しく一発で入ったのにちょっと目を見張った。わたしコントロール悪いのにな、と思いながらもう一度手鏡を見る。顔はほんのりと赤く染まって、触れてみるとやはり熱かった。ぱたぱたと手であおいで風を送ってみても焼け石に水だ。気を紛らわすためにかすかな湯気を立てているマグカップに手を伸ばしかけて、自分のくちびるもピンク色になっていることを思い出した。結局諦めて終始無言を貫いていたカラ松のほうを見上げると、まだ硬直していたし、さっきよりも心なしか顔が赤かった。その姿に少し安心というか、脱力した。……うん、たぶんだけれど、もう大丈夫だ。お化け屋敷とかで自分より怖がっているひとを見ると逆に冷静になるあれと、少し似ている。


 ほんの出来心で赤らんだ頬をむにむにとつまんでみる。わたしの冷え症な指先から伝わってくる熱は、元々の体温もあるだろうがずいぶんと熱かった。見た目よりかはつまめなかった頬の肉に、まあ成人男性だもんな、といまさらなことを思う。高校生のときのほうがまだ柔らかかったかもしれない、と昔に思いを馳せているといたずらを働く手首をがっしりつかまれた。わたしの特別細くもない手首を一周してもまだ指が余るからやっぱり手が大きいんだなあ、と当たり前のことをしみじみ思う。



「……譲? なにをしてるんだ?」
「あ、カラ松戻ってきた。おかえり」
「えっ、あ、ただいま。……じゃなくてだな! 前々から思っていたんだがそう軽々しく男に触れるのはやめ、」



 カラ松の想像よりもかたかったほっぺたから手を離して、ローテーブルの上に置きっぱなしにしておいた携帯を取る。未だに何かまくし立てているカラ松の声を半分以上軽く聞き流して、メールも着信も何もないのをチェックしたあとにカメラモードを開く。あんまりやり慣れていないからうまく出来ない気がするな、と思いながら片手でぎこちなくカメラを自分たちのほうに向けてカラ松の肩に腕を回し、もともとないに等しかった距離をぴったりゼロまで縮めた。



「カラ松こっち向いて、唇ちゅーってして、はいチーズ」


 ぱしゃり、と思ったより大きなシャッター音はいつも少しだけびっくりする。一枚目はわたしが目をつむった感じがしたから何枚か連続して撮ってみる。確認してみると一枚目はやっぱり目をつむっていたし、カラ松はきょとんとした顔をしていた。むかつくけどちょっと可愛いから残しておこう。二枚目は全体的にぶれぶれだったし、三枚目はカラ松が半目になってしまっていた。だめだめである。自撮り下手だなわたし、というかカラ松いつものキメ顔はどこにいったんだ。カメラを向けたら無駄に格好つけるくせになんでいまに限って抜けた顔するかな、と思っていると隣で画面を覗き込んでいたカラ松がふはっと吹き出す音が聞こえた。身体のくっついてる部分から震えが伝わってくる。しまいにはひとの肩に額を預けて、背を丸めてくつくつと腹を抱え始めた。寄り添って触れ合った場所から、抑えているつもりらしい腹筋の震えがしっかりと伝わっているし、そのせいでわたしまでぷるぷる揺れ始める始末なのだから、いっそ声を上げて笑えよ、とくちびるをとがらせる。ひとしきり笑って満足したカラ松は目尻に涙まで浮かべていた。長い指でそれを拭って、貸してみろ、と携帯を取られる。そうして当たり前のようにわたしの肩を抱いて、すっぽりと腕のうちに収めたあとにシャッターを切った。一瞬目を丸くしたのをきちんとわかっているのか、「もう一枚いくぞ」と何度かぱしゃりと少し大きな音がした。


「ん、なかなかいいんじゃないか」


 カラ松の言ったとおり、画面には愛らしいピンクのくちびるを三日月にして楽しそうに目を細めて笑っているふたりが写っていた。変にぶれてもいないし半目でもない。一枚目はやっぱりわたしは目を丸くしていて、口元も突き出したものではなくちょっと緩んだ間抜けなもので、でもカラ松はその写真が一番気に入ったようだった。別に自分が格好よく写っている角度でもないのに。わたしは最初に見せてもらったふたりが一番の笑顔のものと、四枚目のカラ松の眉が珍しく垂れ下がってへにゃりと気の抜けた笑みを切り取ったものが気に入った。



「カラ松写真撮るの上手だね」
「ふっ、任せておけ」
「あんまりわたしたち写真撮らないけどね。今度からはカラ松に任せようか」


 カラ松が撮ったものと、一応わたしのものも保存をしてから緑色のアイコンをタップした。一番上のトーク画面を開いて、アルバムにすべての写真を載せる。どれとどれを、とか選ぶのが面倒くさかったからだ。互いにぶさいくなのもあったけど気にしない。よし、と確認のように呟くと、「満足したか?」と穏やかな声とともに軽い感触が頭上に降ってきた。髪のあいだをするするとすり抜けていくかたい指先が気持ちいい。心地よさに目をつむると、カラ松は少し黙り込んだあとに猫みたいだな、と落とすように呟いた。背に回されたカラ松の腕を巻き込んだままやわらかな背もたれに倒れ込む。今度はすぐに目を開けたから入り込むひかりを眩しがることもなかった。


「見るか?」
「うん。……あ、映画終わるまでコーヒーお預けね」
「えっ、な、何でだ」
「飲み口にリップついちゃうでしょ」



 そうか、と納得の声は上げるものの、目に見えてしょんぼりと肩を落とす。可哀想に思わなくもないが、我慢はわたしだっておんなじだ。近くにあるとついつい手を伸ばしてしまうだろうことは互いにわかっているから、あたたかいマグカップはふたつともキッチンに置き去りにすることになった。せっかくおいしいの淹れたのに、ちょっともったいない。コーヒーって冷めたらあったかいときよりも苦く感じるんだよなあ。しょうがないから、あたため直すか少し飲んだあとにミルクを入れてカフェオレにしてしまおう。余計に喉が乾く気がするし口の中の水分を一気に奪われそうだし、我慢できなくなる気がするから今回クッキーはなしだ。


 触り心地のいいクッションを両腕で抱き込んで、背もたれに寄りかかって楽な姿勢を取る。隣のカラ松も完全にソファに身体を預ける姿勢になって、ようやく再生ボタンを押した。どこかの街を上空から写したのだろう、海に囲まれたオレンジ色のレンガ造りの街が徐々に近づいていく。アクション映画の舞台とするには少し狭そうだし、爆破するには惜しいくらいにきれいだ。こんな石畳ではカーチェイスは期待できそうになくて少し残念、と思うあたり趣味がだんだんと毒されている。存外静かな音楽とともに監督の名前だろう白い英字がぼうっと浮かんで消えた。




 前に見たハズレの映画よりも力の入っているオープニングではなく、こっそりと隣の真剣な顔を盗み見てみる。ほかの兄弟よりもきりりとした眉、まあまあ男らしい精悍な横顔、それらにおそろしく不釣り合いなかわいらしい彩りのくちびる。声は出さずに、くちびるだけでにんまりと笑う。わたしのそれも、カラ松と同じいろに染まっている。




 おそらく本編とは関係のない、主人公のスペックを誇示するための軽い銃撃戦を見るふりをしながら、片手で携帯を操作してアプリのグループトークを開く。この間連絡先を交換して、いつの間にか追加されていた、彼以外の五人の兄弟とのグループだ。そこに先ほどの写真を載せて自慢しようかと考えながら、主人公と相棒の皮肉ばかりのテンポのいい会話の応酬をなんとなく目で追う。とびっきりの笑顔で、揃いのいろを乗せたくちびるを彼らに見せたらどういう反応をするだろうか。カラ松の似合ってなさは異常だから、長男あたりは爆笑するかもしれない。というか、いい子の五男以外からは酷評しか飛んでこないような気がする。映画の最中に通知で邪魔されるのも嫌だし、送るとしてもあとにしよう。スマホの画面を落としてテーブルに戻す。再びソファにもたれかかって力を抜くと、自然と身体が傾いていくが抵抗をすることはない。ぽすりとカラ松の肩に頭を預けると、少ししたあとにわたしの頭にもわずかに重みが乗る。コーヒーがないのが物足りないけれど、まあいいだろう。ふんわりと控えめな甘い香りのする揃いのくちびるに、わたしよりもあたたかな隣の体温に、気づかれないようにそっと頬を緩めた。



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カラ松と親友女子。色つきリップを塗るはなし。
書いているうちは気づかなかったけれど、書きあげたあとに思いのほか長くなってて驚きました。

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