きみの呼吸で死ぬことにしている




 悪い、と言葉のわりに気のない謝罪が肩口からすべり落ちてきて何事かと思う前に二の腕を掴まれ引っ張られた。柔らかい何かが頬をくすぐり右肩に重みが増す。空気が緩やかに動くのが分かって、肌に触れるそれがやけに生あたたかく感じた。


「巻島、くん?」


 頬を掠めるのは見慣れた緑にところどころ赤のメッシュが入ったきれいな髪だ。身じろぎをすれば指通りのよいそれが肌を撫でてこそばゆい。そのせいで肩を竦ませれば咎めるように左腕に力を入れられて、ますます身が引けなくなった。肩に乗せられた顎、呼吸をするたびに微妙に吐息が首筋に触れて身体が逃げようとする。そうするとなんとなく感じる雰囲気が少しだけ不機嫌になり、動くなとあまり聞かない低い声が耳元に落とされた。慣れない距離もその声も心臓に悪いからやめてほしい。顔を見られないというのは有り難いけれど。


「ま、巻島くん、どうかしたの」


 もつれる舌でなんとか尋ねても、んーなんて曖昧な生返事しか返ってこなくて困ってしまう。上がった体温を誤魔化すように手を伸ばして頭を撫でてみると、ふたりぶんの呼吸音しかしない部室でなければ聞こえないような声音で続けて、と促された。指先からすり抜けていく髪の、人の注目を集める奇抜な色も染めているのに手に優しい感触もわたしのお気に入りだ。他の人には触らせようとしないのにそれを唯一許されているということも、特別を感じてしまって嬉しくて妙にむずがゆい。緩みそうになる口元を引き締めようとしたところにまた溜め息に近い吐息が首筋を撫でて、肩を跳ね上げながら小さく変な声を上げてしまった。くつくつと喉の奥を震わせて笑いをこらえようとしているらしいが振動が直に伝わってくるから何の意味もない。少しだけ唇を尖らせてくすぐったい、と漏らせば今度は喉だけでなく身体まで小さく震わせた。笑いすぎ。


「別に、どうもしてねぇショ」


 何もないと主張する嘘つきな声に、喉までせり上がった溜め息を呑み込んだ。強がりな言葉を吐くわりに、わたしの小さな反応を楽しんでいるわりに、いっこうに顔は上がらないからやっぱり何かあったのだろう。後頭部をすべる手の動きを遅くしてみると催促するように肩に乗せた顎をぐりぐりと押し付ける。肉の薄い部分だから痛かったけれどそれよりも撫でてて、とか細くねだる声に負けた。




 言葉も態度も不器用で不慣れで、それでも精いっぱい示される好意に幾度も心臓を撃ち抜かれた。学校内でこんなに密着したのなんて初めてだ、普段は恥ずかしいのかあまりベタベタくっつくタイプではないのか、積極的に触れることはふたりきりのときだって少ないのに。甘える一面を見ることが出来て嬉しい反面、ひどくずるいなあとも思う。確かにわたしは頼りないけれど仮にも恋人同士なわけだし、部活だって部員とマネージャーという比較的近しい関係なのだから、もっと頼ってくれていいのに。いつもわたしのほうが頼りきりになってしまっていて申し訳ないし、頼られないというのは想像以上に寂しいものだ。いままでずっと抱え込んでいたのかと考えるとやはりずるい。出来ることがあるならしてあげたいし、わたしでいいのだったら好きなだけ甘えてもらいたい。自分の意見を突き通すことが得意ではない彼に、もっと甘えてほしいなんて言うのはちょっとわがままだろうか。



「ね、巻島くん、ちょっと離して」
「いやだ」


 間髪入れずに拒否されて怯むけれどここはわたしも引けない。お願い離れないから、ちょっとだけ。子供に言い聞かせるような声色でお願いを続ければ、いつの間にかまた機嫌が急降下していて地を這うような低い声で理由を問われた。



「そのままだと首、疲れちゃうでしょう? 逃げないから、ね」


 頭一つ分違う身長差でわたしの肩に顎を乗せるのはさすがに疲れるだろう。選手にムチャな体勢を長時間させるわけにもいかないので体勢を変えよう、と提案するとようやくゆっくりと頭が上がってきた。緑色のカーテンに遮られてどんな表情を浮かべているかは分からないけれど、これで巻島くんが首を痛めるようなことにならずに済む。そう思ったところで身体が突然前に引っ張られた。


「ひゃっ……い、なに、」


 硬い何かに顔をぶつけて、じわりと視界が涙で滲んだ。先ほどまでわたしの肩に顔を埋めていた巻島くんは部室に置いてあるパイプ椅子に腰掛けていて、わたしは抱きしめられたまま腰を曲げるようにして引っ張られ彼の胸元あたりに激突した……ということだろうか。せめて一言かけてからにしてほしかった。一見薄いけれどきれいに筋肉のついた胸板にぶつけた額が痛い。そして椅子に座った巻島くんと立っているわたしとでは、当然わたしのほうが目線が高い。それなのにわたしを抱きしめる腕は解かず再び肩に顔を埋められるとなると、屈めた腰がつらい。預けられるのが肩じゃなくておなかのあたりなら楽なのだけれど、グラビア鑑賞を趣味とする恋人が喜ぶようなスタイルではないのでそれも自分からは言い出したくない。



「ま、巻島く、ちょっと」
「アー、譲その体勢つらいだろ」


 分かっているなら、そう言い掛けたところで突然妙な浮遊感がわたしを襲う、視界が回る。地にしっかりついていたはずの足がふわりと浮かび上がる。腰をしっかりと抱えられ身体の向きを変えられて、そのまま柔らかいところへ落とされた。もっと分かりやすく言うならば、パイプ椅子に座った巻島くんの膝の上に乗せられていた。状況を理解した途端に顔に熱が集まる、ただ抱きしめられるよりもずっと恥ずかしい。


「まっ、まき……ちか、い」
「ん……落ち着くっショ」


 それは、反則じゃないだろうか。膝の上に乗せられ再び肩に額を預けられて、耳元に落とし込まれた言葉はわたしの心臓を爆発させる強力な爆弾だ。立っていたときには身長差のせいで、巻島くんが腰を屈めていたためにどうしても生まれていた隙間が近くなった距離のせいでなくなってしまった。密着する身体、押し潰される胸、鼓動の音がじかに互いの心臓に響く。巻島くんの緩やかな呼吸が悪戯に黒髪の合間を抜けて首筋をくすぐる。そのせいで背筋が芯を通したように硬くなる。呼吸の仕方がわからなくなる、顔がばかみたいに熱を持っていて酸欠なのかくらくらする。餌をねだる金魚のように口をぱくぱくさせても上手く息が出来ている気がしない。……やっぱり顔が見られない体勢でよかったと思った。


 甘えられないのは、甘えてくれないのは寂しいとずるいとそう思っていたけれど、素直に甘えられるのもだいぶ結構かなり、ずるいことだ。嬉しさも確かにあるのだけれど、それ以上に巻島くんのずるさというかあざとさというか、分かっててこういうことをしているんだろうかと思う気持ちのほうが強く感じてしまう。へなへなと身体に力が入らなくなり、自然と巻島くんにもたれかかるような形になる。




「……譲?」



 すぐそばでわたしを呼ぶやさしい声、触れた場所から伝わるぬくもり。もっとと擦り寄ってくる甘えたな猫のような仕草、髪を梳かすようにして頭を撫でてくる手のひら。その全部があまくて熱くて仕方がない。巻島くんのことだからたぶん意図的なんかじゃない、無自覚でこれをやってのけているのだろうから恐ろしい。


「譲、へいきか? 気分悪りィ? ……それとも、こういうのイヤだった、か?」


 あやすように背を撫でて心配そうにわたしの顔を覗き込む。真っ赤になった顔がバレてしまうからやめてほしいのに、そう言い返せるだけの余裕もいまのわたしには残されていない。あと決して嫌なんかじゃない、スキンシップを図るのが苦手だと思っていた彼氏さまにこんなことされて嬉しくないわけがない。ただ、それを伝えられる手立ても気力もないだけだ。脱力と言えばいいのか骨抜きと言えばいいのか、どちらにせよのろけには変わりがないような気がする。



「ヤ、とかじゃない、けど、」
「けど、何ショ?」
「……は、ずかしい」



 再び巻島くんの身体がこらえた笑いのせいで揺れる。くっついているから必然的にわたしも一緒に揺られることになる。安っぽいパイプ椅子もぎしぎし一緒に音を立ててちょっとだけ怖い。笑ってることなんて丸わかりなのだからいっそこらえずに笑い飛ばしてくれたらいいのに、巻島くんはぷるぷると腹筋を震わせて耐えている。それがさらに居たたまれなさを誘って、身体がどんどん縮こまっていく。巻島くんはそんなこと気にも留めずに背に回した腕の力を強くする。


 なんていうか、ギャップが激しすぎて戸惑ってしまうのだ。部活にこういったことを持ちこまないとふたりで決めたから余計に。ふたりきりのときに触れ合ったとしても、こんな長時間にわたってべったりと密着したことはないから、余計に。恋人といちゃいちゃ初心者のわたしにはハードルが高すぎた、心臓からオーバーワークで訴えられそうな気がする。いまからこんな状態じゃあこれ以上なんてもっとままならない、とは思うけれどこればっかりはどうしようもない。慣れろと言われても無理だ、恥ずかしすぎる。呼吸をするにもいっぱいいっぱい。しかもただ呼吸するだけでも巻島くんのにおいが鼻先にかすめるて熱が上がるし、恥ずかしいと言ったすぐあとにさらに密着度が増したからもう、本当にだめだ。頭のなかがふわふわして、なにも考えられなくなる。



「まっ、き、巻島くん」
「……何ショ」
「も、もう、かんべんして」



 盛大に噛んだし若干声も裏返った。それも確かに恥ずかしいことなのだけれどそれ以上にいつまでも巻島くんの膝に乗せられていたら心臓がおかしくなってしまいそうだ。そんなわたしの気持ちなんてきっと勘の鋭い巻島くんには筒抜けなんだろうと思うのに、巻島くんはニヤッと意地悪そうに笑って、わたしが頑張って勇気を出して胸板に腕を突っぱねてなんとかあけた距離をもう一度ゼロにした。




「譲」
「な、に」
「もうちょっと」



 優しく頭を撫でられて耳元で囁きこまれたってほだされるわけがない、と思うけれどもはや抵抗の術がないわたしにとっては頷くしかなかった。そんな甘い声でのおねだりなんて、ずるい以外になんて言えばいいのか。嬉しそうな顔をしている恋人を見るのは、わたしだって嬉しい。嬉しいけれど、



「……どきどきでしんじゃう、」


 いまにも消え入りそうな小さな声で呟いたわたしに、巻島くんはクハッといかにも楽しそうに笑って背を撫でる。いっしょう、巻島くんに敵う気がしないと思った。



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巻ちゃんに甘えられる。普段甘えないひとだと厄介そう。

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