耳のとろけるような内緒話



 お風呂から上がって着替えやら化粧水やら一通りのことを済ます。肩甲骨よりも少し伸びた髪も乾かしてようやくひと息ついた。夏だからといって油断しているとすぐに夏風邪を引いてしまう。わたしもあまり身体が強いとは言えないけれど、ひとつ下の弟は季節の変わり目は必ずと言っていいほど体調を崩す。体力がないわけではなくあまり脂肪の付きにくい体質からか気温の変化にも敏感で、いまでもたびたび熱を出している。小さな頃はわたしもやすくんもお風呂から出ると身体を冷やさないようにか、さっさと髪を乾かされていた気がする。濡れた髪とか放置してないといいけれど、あと自然乾燥も髪にとってはあまりよくないらしい。ああ見えて結構几帳面な子だからたぶん大丈夫だろうとは思うけれど、やっぱり心配だったりする。くるくると人差し指で髪をひと房もてあそんでいると甘い花の香りがした。先日新しく買ったヘアオイルを試してみたのだけれど慣れないせいか少し鼻に残る感じがする。


 箱根学園の寮に備えつけられているお風呂が温泉なのはちょっとした自慢でとても好きなのだけれど、人数の関係上あまり長湯ができないのが残念だ。まあ日常的に温泉に入れる時点で贅沢なのだからあまり文句は言えないのだけれど、たまにはゆっくり満喫したいのも本音。夏休みに入れば帰省するひともいるからそのときなら長湯ができるかもしれない、それはちょっと楽しみだ。


 パジャマにしようと思って買った淡い桜色のTシャツは背中に白い天使の羽がプリントされてるのもあって、わたしのお気に入りだ。寝るときは楽なほうがいいよね、と大きめのサイズを選んだせいか少しだぼっとしているけれど、開いた襟元から風が通って気持ちいい。膝上丈のネイビーのショートパンツもこの時期には涼しくてとても快適で、セット売りしていたわけではないけれどなかなか可愛い組み合わせにできたと口元を緩めた。



 まだ寝る時間としては早すぎる。壁にかけられた可愛らしい猫の絵がプリントされた時計を見ると九時を少し過ぎたところだった。提出しなければいけない課題や予習の必要な授業はあったかなと机に目を向けると、充電しっぱなしだった携帯のランプがちかちかと点滅していた。



『今からロビー、出れる?』


 絵文字も顔文字もひとつの装飾もない白黒のメール、それでもメールをあまり得意としない弟が打ったものだと思うと頬が緩んでしまうのを止められない。短く返信をして、部屋の鍵と携帯を持ってあまり人気のない廊下を早歩きで進んでいく。それにしても何かあったのかな、わざわざメールで呼び出すなんて珍しい。最近では学校内でもわりと話しかけてくれるようになったから用があるなら学校で会って話すほうが早いのに、こんな時間に呼び出しなんて何か急を要することでも起こったのだろうか。多少心配を覚えつつも、ぱたぱたと足音を立てて男女共同ロビーへ急いだ。






「やすくん!」


 申し訳程度のロビーの照明と煌々とした自動販売機の明かりに照らされている薄く見える背中。ソファーにもたれかかりながらもなにやらそわそわと落ち着きのないその背に声をかけると、途端にびくりと跳ね上がる様に目を瞬かせる。そんなに驚かせるほど声大きかったかな、と首を傾げるとやすくんは何でもないとひたすら首を横に振った。やすくんもお風呂上がりなのか黒のタンクトップにグレーのハーフパンツ、首にはタオルとラフな格好だ。髪は濡れてはいないようだけど、その頬は少し赤く色づいている。振り向いてわたしの姿を目にしたひどく驚いた顔をし、それからきょろきょろと忙しなくロビーを見回した。


「ばっ……姉チャン!」
「どうかしたの? あ、どこか勉強で分からないところとかあった?」


 それならお姉ちゃんに任せて、と小さく胸を張ろうとすると「ちっげェよ!」と頬を赤く染めながらも即座に否定の言葉が降ってきてちょっぴり寂しい。もっと昔みたいに頼ってくれたっていいのに。少しだけ唇を尖らせながら分からないところがあったらお姉ちゃんいつでも教えるからね、と念を押すように言い含めて、それじゃあどうかしたのと問いかけながらやすくんの隣に腰を下ろす。考え込むように眉間にしわを寄せながらなぜだか言いづらそうに唇をぐにぐに噛んでいるやすくんを見上げた。本人としては少し考え事をしているだけなのに、ちょっぴり目つきが悪いせいかこの顔が不機嫌に取られたりするんだよなあ、とぼんやり勘違いされやすい弟のことを考えていると目の前にずずいとスマホが突き出される。


「これ、ババ……お袋から」
「お母さんから? えっ、そんなメールわたしのところに来てないよ?」
「アー、うん、Ccのとこにねーから姉チャンとこには行ってねェんだと思った」


 やすくんが見せてくれたメールにはわたしとやすくんの体調を心配する言葉と、今年はいつ頃に帰省するのか日程を知らせてほしい旨が書いてあった。去年のわたしはお盆より早めの、あまり混み合わない時期に帰ったのだが、今年はやすくんもいる。箱根から横浜までのあまり長くない帰路だがどうせなら一緒に帰りたい。


「ええと、わたしはわりといつでも平気だけど、やすくん部活あるよね? いつまでとか分かる?」
「少なからず八月の頭まであって、たぶん盆前には休みになんだろ。……姉チャン、一緒に帰ンのォ?」
「……だ、だめ?」


 思わず眉尻が下がってそろりと窺うように見上げてしまうのは仕方のないことだと思う。あとにきちんと仲直りをしたといっても、断りなしに見学に行ってやすくんを怒らせたことはまだ記憶に新しい。嫌だと言われるのは傷つくが弟の意に添わないことはしたくない。きゅっと唇を引き結んで不安の拭い去れないままやすくんを見上げれば、やすくんは小さな黒目を丸くしお風呂上がりで火照っていた顔をさらに赤くした。


「い、嫌とかじゃねェ、けど……オレに合わせてると、姉チャン帰ンの、遅くなるだろ」


 そっぽを向いて頭をガシガシと乱暴にかき混ぜながら告げられた言葉に、胸がきゅんと締め付けられる。油断すると口元がにやけて止まらなくなりそうで、そんな情けない表情は見せたくないのに満たされていく気持ちは素直にあらわれてしまう。ふふ、と思わずこぼしてしまった笑い声にやすくんが思いきり顔を逸らす。けれど髪の隙間から覗く耳が赤くて隣に寄り添った体温は先ほどよりあつくて、照れているだけだとすぐに分かる。




「いいの、わたしがやすくんと一緒に帰りたいんだから」



 まだ口元に笑みを残したまま隣の肩に寄りかかるようにしながら言えば、素っ気ないながらも小さな返事が返ってきてそれがまた照れが隠し切れていなくて微笑ましさが込み上げる。素直じゃない弟の、こういう素直な反応がかわいくて愛しくて大好きだった。ふにゃりと情けなく緩んだ口元はわたしの意志だけではどうにか出来るものじゃなくて、ゆるゆると際限なくふやけていってしまう。決してこちらを向こうとはしないけれど黒髪の隙間から覗く耳は分かりやすく色づいている。預けた身体をぎこちなく支えようとする腕が優しくて、胸の奥に光が灯されたようにほっこりとあたたかくなる。わたしの弟はこんなにかわいくていい子なんだと自慢したいような、ひとりでこの幸せを噛みしめたいような複雑な気分になった。




「……ちょっと気になってたんだけれど、やすくんまた痩せた? んー、引き締まったのかな?」

 寄りかかっていた身体を一度離してから腕を広げてぎゅうっと抱きしめる。体格差から抱きつくといったほうが正しくなってしまったことが嬉しくて、少しさみしかった。同じ部活の男の子と比べても細く見える身体、でも筋肉がないわけじゃなくてわたしの頼りない身体とは違ってしっかりがっしりしている。肩幅も身長も手のひらの大きさも、いつだってそばで見てきたはずなのにいつの間にか追い越されてしまった。ふわりと香る清潔な石鹸の香りにやすくんらしいな、と懐かしさとともに安心感を覚える。抱きしめたときにびくんと一際大きく跳ねたあと、硬直したまま動かないやすくんをいいことにさらに抱きしめる力を強くする。普段は照れて突っぱねられてしまうこともいまなら平気かもしれない。見上げた顔はのぼせ上がったのかと思うほどに赤くて、可愛い弟の反応に自然と口角が持ち上がった。



「やすくん、たくましくなったね。肌も白かったのに腕とかすごく焼けた……すっかり、男の子だね」


 桜色のTシャツから覗く貧相な腕と黒のタンクトップから惜しげもなくさらされる腕の太さ、不健康な青白さを持った肌と二の腕半ばから健康的に日焼けした肌、触れ合う太腿の柔らかさの違い。ぜんぶ幼い頃から知っているはずのそれが、気がつけばこんなにも変わっていた。胸元にすり寄って頭を預ければ、ぎこちないながらも背中に腕が回ってぽんぽんと赤ちゃんにするみたいになだめられる。声に滲むさみしさもやすくんはきっと分かってる、その上で優しくしてくれている。それが心地よくて安心して、互いにお風呂上がりであたたまった肌から伝わる体温のせいもあってかとろんと瞼が重くなる。このまま眠ってしまえたらとっても幸せだけれど、やすくん困るかな。ああでも、ちょっとだけ、困らせてみたい。やすくんの焦った顔や必死な顔は結構好きだったりする。わたしに関しては特に反応が顕著だから面白いぜ、と新開くんが耳打ちで教えてくれたけれどそれが本当なのかはよく分からない。でも一生懸命の顔はすごく好き、だなあ。そう思いながら無抵抗の身体にくっついていると、背中に触れていた手が頭に移動しゆるゆると髪を梳かした。



「……オレもちょっと、気になってたんだけどォ、」
「なあに?」
「姉チャン、シャンプーかなんか変えたァ? いつものうまそうなはちみつの他に、やけに甘ったりィ花みてーなにおいがする」


 手のひらでさらさらとこぼれる髪をもてあそびながらわたしの頭に鼻先を寄せて、そこですんと鼻を利かせる。アキちゃんがよくしている仕草で、それがおかしくてついついくすりと笑ってしまう。不思議そうな表情を浮かべるやすくんに何でもないよと言って、甘い花のにおいを吸い込んだ。


「新しいヘアオイルなの。わたしもちょっと甘いかなって思うんだけど……やすくん、気になる? ちょっときつい?」
「ンー、まあ甘ェけど姉チャンならいーヨ」
「ほんとう? それならよかった」


 やすくんはひとよりも鼻がよくて、あまり匂いの強いものをつけているとすぐに気持ち悪くなってしまうから少し不安だったのだ。でも自ら鼻先を髪に埋めて、じゃれつくようにぐりぐりと押し付けているくらいだから平気なのだろう。いつになく甘えたな弟が可愛くてそれに応えてあげたくて、わたしも胸元に顔を埋めつつぎゅうっと抱きつく腕の力を強めた。



「やすくん、やすくん、あのね」
「ナァニ、姉チャン」
「福富くんから聞いたんだけどね、またタイムがよくなったって。おめでとやすくん」


 やすくんを見上げながら幸せで緩む顔のまま言えば照れくさそうに唇を噛むのがよく見えて、また口元が情けなくでれっとしてしまう。薄い唇に傷が付いてしまうから止めたほうがいいのは分かっているけれど、その仕草が何を示しているのか知っているからあまり無理に止めるのもためらわれてしまう。



「あー、うん……あんがとネ、姉チャン」


 照れをごまかすように髪を梳く手のひらがあたたかくて気持ちがいい。わたしの友だちも自転車競技部のお友だちも、やすくんのこんな姿を見たらきっとすごくびっくりするんだろうな。元ヤンだけれど根はいい子でちょっと無愛想で口が悪くて、誤解を受けやすいとても不器用で優しいわたしの弟。わたしに触れる手はまるで壊れ物を扱うようで、それがむずがゆくて嬉しい。乱暴じゃないのか、声を荒げられたりしないのか、とこわごわ心配してくる友人たちに慈しむように触れるさまを見せてあげたいほどだ。




「ねえやすくん、わたし、明日も練習見に行っていい?」
「またァ? 姉チャンも飽きねェよなあ」


 少し呆れたふうに言いながらも、普段よりもわずかに上がった口角に気づかないわけがない。たぶんやすくんは気づかれてないと思ってるんだろう、そういうところも可愛いからやすくんはずるい。教えてあげないわたしも大概ずるいけれど。



 まるで当然のように許される見学に、わたしがどれだけ喜んでいるのかをたぶんやすくんは知らないし知らなくてもいいと思う。


 野球のときより熱心なんじゃナァイ、とからかい混じりに言ってくるやすくんに思わずふふ、と笑みがこぼれる。野球をしていたときだって練習は見に行ったし一緒に野球観戦もしたしテレビ中継をやすくんの解説付きで見たけれど、確かにここまで頻繁に通いつめることはなかったかもしれない。やすくんに詳しくルールを聞いたり、やすくんにはナイショでルールブックを買ったり新開くんに教わったりはしていない。だからやすくんの言っていることもあながち間違ってはいない、けれど。いったい何を勘違いしているのだろうか。わたしが本当に好きで見に行ってるのは、野球でもロードでもないのに。




「飽きるわけないよ。――だって、他でもないやすくんを見に行くんだもん」



 きちんとわたしの言葉を噛み砕いて理解して、のぼせたように真っ赤になるやすくんのなんて愛おしいこと。照れ隠しに胸板に顔を押しつけられて、真っ赤に染まった頬を見るのを全力で阻止される。ちょっと力加減が下手っぴだけれどそれもたいして気にならない。鼻先をかすめる石鹸の香りに、胸があたたかく満たされていく幸せに、そうっと目をつむった。



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お風呂上がりゆるふわ姉と弟北。

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