怠惰のあらわれ




 珍しく何かを企んでいるようなニヤニヤ笑いをしていないな、とぼんやり整った顔を眺めていた。黙っていれば、それと口をいやらしく歪めなければいい男である。わたしの不躾な視線に気づいたのか手元のバレーボール雑誌から視線を上げて、なにと視線で問われる。わたしを捉えた瞬間から始まるニヤニヤ笑いはチェシャ猫のようで、その裏にある感情を容易に読ませようとはしない。別になにも、と言うように首を横に振っても、目の前の男は何か面白いものを見つけたかのように目を輝かせてついに机に雑誌を置いた。読むのはいいの、と問いかけようと口を開く。いや、開こうとした。



 視界いっぱいに広がるぼやけてもなお端整な顔立ち、唇に当たる柔らかだけれど少しかさついた感触、出口を失った声、頬のあたりをくすぐる少し硬いなにか。強制的に止められた呼吸が許された頃、目の前の男、クロこと黒尾鉄朗のいやに腹の立つニヤニヤ笑いは形を潜めていた。はあ、と吐き出された溜め息にも似た吐息が唇をかすめる。事態を呑み込みきれなくてぱちぱちと間抜けに瞬きを繰り返せば、クロは悪びれもせずに「無反応は傷つくんだけど」といつもの調子で言った。へらへらしてるけど、いま何をしてくれたこの寝癖男。



「……質問をいいですか」


 思わず敬語だ。覆い隠すように確かめるように自分の唇に触れる、柔らかくてあたたかい。そして心なしかわずかにしっとりとしている、気がする。ねえ、いま確かに。



「それ自体が既に質問だけど、どーぞ」



 クロの揚げ足を取るような言い草に若干の苛立ちを覚える。ほんと嫌味なやつだなコイツ、顔立ちが整ってるだけまだ救いようはあるのだろうが。こんなんでも女子には大人っぽいだか高い身長が格好いいだか頼りがいがあるだかでわりとモテるらしい。そういう女子にはぜひとも眼科の受診をおすすめしたい。わたしはどちらかと言わずともクロよりも同じクラスの夜久のほうがタイプだ。男子のなかでは小さいのかもしれないけどわたしより背は高いし優しいし気遣い屋さんだし男前だしとことん大切にしてもらえそう、付き合ったら楽しそうだし幸せになれそうだ。……話がだいぶ逸れた、たぶんいろいろと混乱してる。まだずいぶんと近い距離もわたしの混乱状態を助長させるばかりだ。むかつく顔を押しのけたいのに身体は動かないから困ったものだ。頭ではごちゃごちゃ考えられても何もできない。茹だったように顔も頭もひたすら熱い。



「……何で、わたしいまキスされたんですか」
「オレがしたかったから」



 さらりと当たり前のように返されても困る。だってわたしたち付き合ってない。単なるクラスメイト、はちょっと言い過ぎだけど。クラスメイトっていうよりは友達、しかも悪ふざけしてちょっとじゃれあうような、ノリは男友達みたいな色気のないやつ。なのに、何でいきなりキスしたの。なんなのバカなの欲求不満なの。全くもって意味が分からなくて頭の上にいくつも疑問符が浮かぶ。クロは照れも何もしてなくて、いつもみたいに余裕綽々に見える。おまえ勝手にひとの唇奪っておいて何なのその顔、もうちょっと悪いとか思わないの。というか何でわたしにしたし、クロとちゅーなんかもっと喜ぶ女子いるんだからその子とすればいいじゃん。自分で考えたくせに妙にもやもやして不快だ。相変わらず首から上が沸騰してるみたいにあつくて、そのせいでまともなこと考えられないんだと言い訳した。



「わたし、許可しましたか」
「いいや何にも。オレが衝動的にやらかしました」



 衝動的にキスなんて、誰彼かまわずやってるんだろうか。今回は近くにいたのがわたしだったから、わたしとキスしたんだろうか。だとしたらとんだ尻軽である。あれ男に尻軽って使い方あってたっけ。





「クロって、誰にでもこういうふうにキス、するの。今回はたまたまわたしがそばにいたから?」



 じゃあ近くにいたのが男の子だったらどうする気だったんだろう。例えば夜久とかクロの幼なじみの研磨くんとかだったら、それでもしたんだろうか。すごい顔で全力で嫌がりそうなふたりが簡単に想像できた。なんとなく申し訳なくて想像とは言えごめん、と心のなかでふたりに謝っておいた。




「んなわけねーだろ。オレそんなに軽くないですぅー。譲ちゃんったらひどいわー、オレのことそんなふうに見てたんだ」


 傷つくぅー、なんて言いながらクロはようやくわたしから視線を逸らして、心底疲弊したようにぐったりと机の上に身体を投げ出した。クロの何かを含んだような強い視線から逃れたわたしも自然と身体に入っていた力を抜く。軽くない、なんて説得力のかけらもない。いまその軽くない行為をぬけぬけとやってのけたのは誰だ。誰にでもしないんだったら、何でわざわざわたしに? 眉をひそめて首を傾げるとクロは大きな手のひらでわたしの頬を包んだかと思うと苦笑がちにわらった。



「なあ、まだ分かんねえの?」



 一体なにがまだなのかも分からないのですが、と素直に言ったら怒られるだろうか。頬に触れた手のひらは優しく撫でるように動き、それが妙にむずがゆい。くすぐったいからやめて、と言おうとして今度は自発的に口を閉ざした、ふさがれたせいではない。あんまりにも穏やかな笑みを浮かべながらわたしの頬を楽しそうに触っているクロに制止をかけるのが憚られたのだ。普段は、そんな顔しないくせに。触れては離れる手は優しくて、バレーの選手らしく指が長くて少し節ばっている。でも、きれいだと思った。努力しているひとの手だ。何かを求めるわけでもなく毒気なく触れられているとまるで恋人の戯れのようで、勘違いをしそうだ。



「こういうことされると、勘違いしちゃうよ?」
「していーよ。もっと譲ちゃんは自惚れて?」



 へ、と間抜けな声がこぼれた。クロはふわふわと意味深なことを言うばかりで明確な答えをくれない、たぶんわざとだ。答えのかけらをちらつかせてほのめかして、そしてわたしに見つけさせる。自分からは言葉にしないそれがひどくずるいと思っている、いつも、いまも。


 勘違いしてもいいって自惚れてもいいって言葉の意味をそのまま呑み込んでしまうのは、あんまりにも危険な気がした。いつの間にか口の端に浮かべられているニヤニヤ笑いを、わたしはどこまで信じるべきなのか分からない。それでも曖昧なままにはしておきたくなかった。深く息を吸って吐いて、わたしを真っ直ぐ見据えているクロを見つめ返す。




「あの、えっと、自意識過剰だったらごめん。……その、クロ、わたしのこと、好きなんですか」
「そうだって言ったら?」



 はあ、と再び間抜けな声がこぼれた。突然キスしたり、いろんなことを吹っ掛けたわりにはずいぶんあっさりとした返事だ。思わず嘘をついてるのかと疑うけれど爛々と輝く黒目は珍しく子供のように無邪気で、素直に喜んでいるのかはたまた楽しんでいるのか判断がつかない。「で、感想は?」と弾んだ声で尋ねられうろたえる、感想ってなんだ。



「えと……その、びっくり、した」
「おまえ鈍すぎだろ」
「えっ」



 鈍すぎってなに、と問いかけるより先にクロは聞いてもないことを話し出す。やれ幼なじみの研磨くんがいい加減に飽きて話を聞いてくれないだとか、やれクラスメイトがいろいろ気を回してくれたのに効果なしでへこんだとか、やれ夜久にうじうじすんなウゼェと背中を盛大に叩かれただとか。何の話かさっぱりすぎて説明係がほしいところだ。できれば冷静で公平な海あたりにお願いしたい。研磨くんにしたら絶対面倒くさがられて話を端折られるし夜久に任せてもロクな説明を期待できそうにない、山本くんやリエーフくんは論外だ。



「長期戦になるのは覚悟してたけどさすがに二年はねーわ。長すぎ」「もう待てねぇよ。むしろここまで我慢したオレを褒めてほしいくらい、」



 やーよかったよかった、と心底安心したように嬉しそうに笑うクロの笑顔は見慣れないのもあってか、まあ可愛いと思うけれど。おそらく肝心の、わたしの気持ちというのはお構いなしなのだろうか。戸惑いながらクロを見上げれば、また穏やかに目を細めてわたしを見ているから心臓に悪い。



「クロ、」
「譲もオレのこと好きだろ?」
「なにその自信……」
「譲、嫌なことはちゃんと嫌って言える子だもんな」



 わしゃわしゃと容赦のない手つきに髪を乱される。慌ててやめてバカ、と言ってもクロは取り合ってくれなかった。唇も頬も髪も、本当に嫌ならば振り払うなり突き放すなり出来るだろうことを、クロはきっとわたしよりよく知っている。つまり、えっと、そういうことなわけで。……ああ、だから動揺こそすれ嫌じゃなかったのか、とぼんやり唇に触れて思った。遅れてじわじわと顔に熱が上がってくる、触れているクロの手のひらを冷たく感じるほどに。ここまで気づかない自分にも呆れ返るが、鈍いわたしにわざわざ言わせようとしたクロも相当だ。互いに遠回りをしすぎだと思う、自覚があったクロは特に。はあ、と溜め息を吐き出すと瞬きすらぼやけそうなほど近くに整った顔。反射的に仰け反ろうとしたのを腰と顎を捕まれて止められる。



「ちょっとクロ、」
「なあ譲、好きだ」




 それなら二年も勝手に待たずに、もっと早く言ってよばか。言いたかった言葉は触れるだけの優しい口づけによって声になることはない。なんというか、はめられた感がすごい。確信犯でわたしに触れたクロにもそうだけど、話を聞く限り焚きつけた夜久に。




「これは散々オレのこと待たせたぶんな?」



 そう鼻先の触れそうな距離で言い放ったあとに硬く結んでいた唇をこじ開けられる。言ってほしいならひとに求める前に自分から動け、へたれめ。伝えたかった言葉は熱い舌先に絡め取られ、呼吸ごと呑み込まれて消えてしまった。




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誕生日のフォロワーさんへ。クロと押し問答。

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