ゲルトルート




「……姉チャン」
「なあに、やすくん」
「外、もう暗いし……送るからァ」


 嘘のように優しい荒北の声が耳慣れなくて気持ち悪い。いつもどこか不機嫌そうな低い声か荒げた怒鳴り声のほうが聞く機会が多いせいか、普通に気持ち悪い。背筋がぞっとする、とまでは言い過ぎだが鳥肌は立った。新開は見ろよ尽八面白いぜ、と粟立つ両腕をさするオレに先ほど目を逸らしたふたりのほうを指差した。



「昔みたいに手、つないでくれる?」


 サイクルジャージの上着の裾を指先で引っ張り、確かめるような試すような声で問いかける譲さんは文句なしに可愛らしい。少しのあざとさも感じられないところがなんとも恐ろしい。これが素とは荒北もたいそう苦労が多そうだ。その証拠に、自身の手のひらを顔に押しつけ隠すようにして薄っぺらな肩を震わせている。隠しきれない口元は頑張ってへの字の形を取ろうとしているが緩みそうなのをなんとか抑えているばかりだし、顔どころか耳まで赤くしてひたすら悶えているだけだとすぐ分かる。オレも姉を持つというのは大変だと知っているが、これはまたずいぶんとタイプが違うな。



「ッ服、着替えてくっから、大人しくそこで待ってろ!」
「はぁい」


 あ、逃げた。新開とふたり高見の見物をしていると荒北が部室に飛び込んだ。可哀想な悲鳴を上げるドア、ゆがんでやしないか心配だがそれを咎めることはせずににやにやと笑うだけで留めておく。いまのはね、いいよって返事なの、と難解な弟の言葉を解説する譲さんは傍目から見ても上機嫌だ。


「靖友面白ぇな」
「だな。しばらくはネタに尽きんね」
「新開、東堂、あまり荒北をからかうな」


 フクのなだめる声も右から左へと流れていく。あの荒北が実の姉にめっぽう弱いなどとこんなに面白いことはあるだろうか! 腹を抱えて笑い出したいくらいである。譲さんは荒北が飛び込んでいった部室のドアをさながら慈愛の女神のような眼差しでしばし眺め、やがてこらえきれぬように小さく笑みを漏らした。



「やすくん、本当に素直じゃないでしょう? でもね、かわいい弟なのよ」




 ああ、これはかなわないな、と思った。荒北の逃げ出した気持ちが分からないでもない。無性に照れくさくて面映ゆい。


 少しして部室から飛び出してきた荒北は姉を待たすまいとしたのか、ベタにも制服のボタンが数個留められていなかった。すぐさま気づいた譲さんがそれをそっと直す。照れを隠すように荒北がそっぽを向いて譲さんの荷物を奪い手をつかんだ。とても優しいとは言えないその手つきに注意しようかとも思ったがやめた。当の譲さんが幸せそうに笑っていたからだ。




「今日はいろいろとごめんなさい。今度見学に来たときは、お詫びもかねて差し入れ持ってきますね」
「いや、オレたちは何も、」
「それじゃあわたしの気が収まりません。福富くんには特にお世話になったし、東堂くんと新開くんに背中を押してもらわなかったら今日仲直り出来てなかったかもしれないから、せめて、ね」


 ですが、となおも言い募ろうとしたフクにいいじゃないか寿一もらっておこうぜ、となだめるように肩を叩いたのは新開だ。それについてはオレも同感であるのでうんうんと頷いておく。



「差し入れももちろんありがたいけど、何より譲先輩が見学に来てくれるのがデカいよな」
「新開くんは口がお上手ね。わたしなんかでいいならいつでも、」


 そこではたと譲さんの言葉が途切れる、と同時にさっと顔色が曇った。どうかしたのかと内心不思議に思っていると、譲さんは荒北を見上げ、いくらか迷ったあとに口を開いた。



「やすくん、わたし、見学に来てもいい? い、嫌じゃない……?」



 恐る恐るといったふうな、消え入りそうな声。よほど弟に黙って見学に来ていたことが後ろめたかったのか、眉尻を下げて申し訳なさそうにしながら問いかけるさまはいじらしい。だめ? と小首を傾げられれば、それが例えどんなお願い事であっても頷いてしまいそうである。


「ッ勝手にすればァ?! いーからもう帰っぞ!」


 強がってはいるものの語尾は間抜けに裏返っているし顔は真っ赤だしで、照れも嬉しさもなにひとつ隠せていない。分かりやすすぎて笑いをこらえるのにひと苦労だ。荒北に手を引っ張られながらも譲さんは控えめにオレたちに手を振り、小走り気味に歩き出す。すぐに荒北が歩調を落とし譲さんの歩幅に合わせるようにしたのを見て、思わずニンマリと笑ってしまうのも仕方あるまい。あの荒北が、なんとも微笑ましい光景じゃないか。




 それにしても、まるで嵐のような時間だった。短時間にいろんなことが起こりすぎて、自主トレ後なのもあってか疲れが一気に肩にのしかかってきたような気がする、その大半は笑い疲れだろうが。まず第一に荒北に姉がいること自体がなかなか重要なカミングアウトだったし、その姉が最近噂になっていた女の子だったのも衝撃的だった。そこからは譲さんが泣き出したり、仲直りしたり、荒北がシスコンなのが発覚したりと忙しかった。そして何より驚いたのは実姉である譲さんの荒北との似てなさである。なまじオレと姉が瓜二つの顔立ちをしてあるだけあってなかなか信じがたい。




「譲先輩、可愛かったな」


 新開の言葉に全くだと深く頷く。雰囲気も仕草も愛らしいひとだったが特に笑顔が花がほころぶような風情だった。


 春の夜風が吹き抜けその冷たさに身体を震わせる。肌に浮かんでいた汗もすっかり引いて肌寒いほどだし、空はもう星が瞬いている。ひとつくしゃみをすると風邪を引く前に引き上げるぞ、とフクが部室へと入った。早く帰ろうぜ尽八とオレの肩を押す新開と目を合わせて含み笑いをする。

 ああ、寮に帰って荒北の顔を見るのが楽しみだ!



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ゲルトルート=春嵐。
ゆるふわ姉、箱学チャリ部と遭遇。

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