初めまして、


 もう春とはいえ夜に近い時間帯はまだ冷え込む。額に浮かんだ汗を手のひらで拭って残り少ないボトルを飲み干す。首筋を撫でる風は汗ばんだ身体には心地よく感じたが、あまり長居はよくない。体調管理も出来ないだなんて最近新たに部に入った元ヤンに示しがつかないではないか。

 いつものように自主トレをこなしたあと、リドレーを片手で押しながら部室に戻ろうとすればドアの前に見慣れない背中があった。無骨な男のものでも、マネージャーのものでもない小さな背中。



「うちの部室に何か用かね?」



 ノックをしようか迷う手に所在なさげに佇む足、何か困りごとだろうかと声をかけると小さな背中が分かりやすいほど跳ねてゆっくりと振り返る。その拍子に肩甲骨のあたりをくすぐっていた髪がさらりと揺れた。


「え、えっと、その……」



 困ったように眉根を寄せる、その顔には覚えがあった。ここ最近よく部活を見に来ている女の子、それもオレや新開というような誰か特定のファンではなさそうだと部活終わりの部室でちょっとした噂になっていた可愛い子、だ。


 艶のある黒髪に光に透けそうな白い肌。長いまつげに縁取られた瞳はやはり困っているようで、見下ろした華奢な肩も些か強張っているように見えた。柔らかなカーブを描いたらたいそう愛らしいだろう桃色の唇はきゅっと引き結ばれていて、間近で見るのは今日が初めてだというのにその難しそうな顔に何故だか見覚えがある。もう少し機嫌と人相を悪くすれば誰かに似ているような、でも知り合いに似た顔がいるかと言えば残念ながら記憶にはない。リボンの色から察するにオレより一つ年上で、そのわりにはあどけない印象を受けるひとだった。


 誰か特定のファンではなさそう、というのは女好きの先輩方の見解だけれどあながち間違ってはいないと思っていた。応援をするでも差し入れをするでもなく、ただ背筋を伸ばして真っ直ぐ何かを見ている。ファン特有の憧れや恋愛感情を含んだ熱っぽさよりも、見守るような柔らかさとあたたかさを宿した瞳が、普段から黄色い声援や熱視線を受ける身としては少し異質でくすぐったくて、だからこそ気にかかっていた。あの可愛らしい二年生は誰なのか、と。




「誰かに用事か? それとも、」


 一拍置いてオレを見上げる大きな瞳を覗き込みながら不敵に笑ってみせる。ぱちりと瞬きひとつ、まぁるい黒の瞳に映り込むオレの顔はほんの少し機嫌が良さそうに見えた。

「オレのファンか?」



 びしりといつものポーズ付きでからかうような調子を装って問いかければ、眉尻を少し下げ引き結んでいた唇がそっと開いた。


「いや、その……ふ、福富くん、いらっしゃいます、か」
「フクのファンか! ファンがつくようになったとは、あいつも隅には置けないな!」
「ファン、とかではないんですけど……ちょっと、福富くんにはお世話になりまして」


 お礼を言いたくて、と控えめに微笑んだ彼女の可憐なことと言ったら、年上という事実をうっかり忘れてしまいそうになるほどだった。思わず情けなく緩みそうになった口元を引き締めて、自分の後方へと視線をやる。確かフクは新開と一緒に出たはずだから、もうそろそろ戻ってくる頃じゃないだろうか。だいぶ陽も落ちて薄暗くなってきている。二人がライトを持っていったかは定かではないがフクなら恐らくこのあたりで切り上げるだろう。それより、


「……もう暗いですけど、帰りは平気なんですか」


 先ほどの微笑みの威力は強く、正直まだ後を引いていたがなんとか気を落ち着かせる。少し舞い上がっていたせいで抜けていた敬語がようやく戻ってきたけれど、それも妙にぎこちない。彼女もそれがおかしかったのか目を丸くしたあとに、口元に手を添えくすくすと小さく笑った。



「敬語、苦手なら使わなくてもいいですよ。それにわたし寮生ですから、近いし大丈夫です」
「それならい、よくはないが……寮生とはいえ女性なのだから暗くならないうちに帰らないと危ない、でしょう」


 また敬語が抜けそうになって語尾が変なふうにつまづいた。彼女はそれに言及することなく、お気遣いありがとうございます、とお手本のようにきれいなお辞儀のあとにきょろきょろと視線をさまよわせた。そこで彼女はフクを探していたのだと思い出す。


「フクならいま外周中で、たぶんもうそろそろ帰ってくると思いますよ」


 噂をすれば何とやら、聞こえてくる音は確実に近づいてきてオレたちの目の前で止まった。いくらか遅れてその隣に並んだやつにかそれともロードのスピードにか、彼女は大きく目を見開いた。オレの後ろにいる彼女に気づくとフクはロードから降りて会釈をし、新開は二人を見比べてたれ気味の目を見開きヒュウと呟いた。




「先輩来ていらしたんですね」
「うん、見学させていただきました。福富くんも、えっと……お疲れさまです」


 お疲れさまでした、とオレと新開へ向けた労りの言葉にでれっとしそうになる口元を手のひらで隠した。見ると新開も同じことをしていて慌てて手を離す。彼女がオレの隣へちょこんと並び、フクがロードをバーへ預けたあとに真正面へと立つ。興味の色を隠し切れてない新開がフクの後ろから顔を覗かせると目があったのか彼女が小さく会釈をした。隣に並んでよく分かるがやはり小柄だ。真正面に立っているのがオレたちのなかでは一際背の高いフクなのもあってか、余計に小さく見える。


「見学されて、どう、でしたか」
「……とても良かったです。元気そうだったし、髪も変じゃなくなったし。それに、」


 一度ためらうように伏せられた瞳、頬に影を落とすまつげが落ちかけの夕陽に照らされきれいだと思った。頬をすべる風の冷たさが熱を帯びた顔にはありがたい。やけに慎重な口振りのフクと彼女の接点が分からず新開と顔を見合わせると、新開は俺も分からないとばかりに肩をすくめてみせた。

 うつむいていた顔を上げた彼女は安心したようなどこか悔しがっているような、なんとも複雑な表情をしていた。すん、と小さく鼻を鳴らしフクを見上げたあと、張り詰めていた瞳を柔く緩ませる。




「すごく、一生懸命だった。あの子のあんな姿、わたし久しぶりに見ました。……わたし、あの子がつらいときも苦しいときも何も出来なかったから、だからね、すっごく嬉しかったし安心した。また本気になれるものを見つけられたんだって、」


 わずかに目元が滲んでいるように見えてそれをどうにか拭ってあげたいのに、何も出来ないことがひどくもどかしい。


 それにしても、彼女は誰のことを言っているのだろうか。元気そうで、変な髪をやめて、一生懸命。本入部が済んでから妙に間を空けたこの時期の見学。……いや、まさかな。浮かび上がった仮説を頭を振って打ち消し、有り得ないだろうと結論付けた。こんな可憐なひとが、そんな、まさか。



「会ってはいかれないんですか」
「……会いたいけど、会う資格なんてないです。あの子にきっと嫌われてるし、わたし、お姉ちゃん失格だから」


 そんなこと! とオレが口を開くより先に、いつもよりいくらか遠慮がちな声色で新開が声を上げた。彼女がぐっと首を持ち上げて新開を見上げる。水を含んだ瞳に見上げられたからか新開は息を呑んで、ややためらいがちに厚い唇を開いた。



「その、オレは事情も全く知らないし状況を飲み込めてもなくて悪いんですけど……きょうだいで会うのに資格とか理由とか、そういうのいるんですか」
「そう、ですけど……」



 涙目で、色を失うほど強く唇を噛んでうつむく彼女に、オレも新開もフクでさえ慌てた。男三人がみっともなく取り乱しても泣きそうな女の子ひとり慰められない。先の発言をした新開が当然ながら一番おろおろしていて「悪い! 出過ぎたこと言った!」となんとか顔を上げさせようとしていた。



「ううんごめんなさい、あなたのほうが正しいんです。……わたし本当は、会うのが怖いだけなの。これ以上、嫌われたくない、だけ」


 苦笑に近い泣き笑いが痛々しくて震える肩が弱々しくて、無力な自分が情けない。黙り込んでしまった彼女に気の利いた一言でも言えればいいのに、何を言っても気休めになりそうで傷つけてしまいそうで怖かった。



「今日はもう、帰りますね。変なことを言って、困らせてごめんなさい。福富くん、見学させてくれてありがとう。よければまた、見に来てもいいかな」
「……もちろんです。いつでもいらしてください」


 フクの言葉にありがとう、と頬を緩めて踵を返そうとする彼女。ふと気がつけば陽はとっくに落ちて、橙よりも藍が空を彩っていた。いくら寮が近いとはいえ、こんなに暗いのにたったひとりで帰させるわけにはいかない。幸いなことに三人とも寮生だ。オレが彼女を呼び止めようと声をかけるより早く、新開が口を開いた。新開よ、おまえさっきからオレの言葉を遮りすぎではないか。



「あのー……気になってたんすけど、いっこ先輩、ですよね? オレ、一年の新開隼人です」
「あっずるいぞ新開! 一年の東堂尽八です!」
「新開くんに、東堂くんね。申し遅れました、わたしは二年のあら……」


 紡がれるはずだった名前が不意に途切れる、というよりかは遮られた。突如背後から響いたけたたましい音に小動物のようにビクつくのが面白いな、と隣の彼女を見て呑気に思った。

[ 1/40 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -