「面接前に、身なりくらいちゃんとして来ぃ」

その担任の一言が、ワイの人生を大きく変えた。




美容師




高校三年生の夏。ワイは10日後に迫った大学受験の面接に向け、身なりをきちんとすべく、“美容院”っちゅーところにやってきた。

スポーツ推薦で受験する体育大は、過去の成績(勿論テニスの)から、よっぽどのことがない限り落ちない(と信じている)だろうが。担任曰く、やはり印象は大事、だとのことで。


「あーそういや駅前でクーポン貰うたんや。これ使うて、日曜にでも整えて貰って来ぃや」


そう、スラックスのポケットからレシートやらゴミ屑と一緒に、ぐしゃぐしゃになった名刺大の紙を差し出したのだった。


そして迎えた、日曜日。
昼からテニスをしていた為、美容院に辿り着いた頃にはもう、陽が大分落ちていた。店名やら30%オフの文字やらが書かれている面の裏、わりと丁寧に書かれた地図を見ながら進めば、簡単に辿り着いた場所。ガラス張りのその店は、いかにもオシャレっていう感じで。今まで17年の人生の中で、最も入りにくい場所でもあって。


「…やっぱ、近所の床屋にしとこうかなぁ…」


と、少し尻込みしていると、開かれたガラス扉。中から綺麗なお姉さんと、ありがとうございましたと腰を折る黒髪。
満足そうな笑顔を浮かべるお姉さんを見送ると、丁度顔を上げた黒髪と、目が合って。


「…お客さん、ですか?」
「あ……はい」


黒髪はワイが手にしたクーポンを見ると、いらっしゃいませと、また腰を折った。





店内に入れば、普段全く縁のないような音楽と、コンビニで並んでいるのを視界の隅に留める程度の雑誌、それから観葉植物や大きな鏡といったモンが、綺麗に配置されていて。


「どうぞ、こちらへ」


中まで促していた黒髪に、鏡の一つの前に座らされる。普段そんなに身なりを気にしないワイだったが、鏡いっぱいに映った自分の姿に、担任の言葉も頷けた。


「今日は、どんな風に?」


鏡越しに微笑む黒髪が、好き勝手に伸び、ろくに櫛も通していない髪を触る。そんな姿に、ワイの赤毛と違って鏡に映る黒髪は、指通りも良さそうだし、綺麗な形に整えられている。


「あー…なんちゅーか、しゃんとした感じに」
「しゃんと、というと?」
「今度、大学受験の面接あるんです。やから、しゃんと」
「なるほど、ね」


やったらこの辺を切って、こっちはすいて、と、多分ワイに話しかけているんであろうけど。何のことか全然わからなかったワイはただ、お任せします、といか言えなかった。


それからシャンプー台に移動して(シャンプーするのに別の席に座るなんて、初めての経験だった。こう考えると、一つの席で全てが終わる床屋は実に合理的である)、しゃかしゃかと小気味よい音を立てながら、黒髪はワイの髪を洗う。それは繊細な動きであったけれど、流石男というべきか、どこか力強さも感じるもので。
あまりの気持ちのよさに、段々と眠気が襲ってくる。



「どこかおかゆい所は、ございませんか?」


うとうと始めたところで、投げかけられた疑問。言われてみれば、つむじの辺りがかゆい気がする。
それを素直に伝えると、ブッと声を噴き出すような音が降ってきた。程良い熱さのタオルで覆われた目では、黒髪がどんな表情をしているのか分からない。だけど、わかりました、と言いながらワイが示した通りの場所を、さっきより少し強めの力で洗ってくれて。


「あーなんや、すっきりしたわぁ…」
「それはよかった」


タオルを取られれば、やけに軽い頭と。先ほどより表情の柔らかくなった黒髪が、お疲れ様でした、と紡ぐ姿が見えた。





「…さっき、何で吹き出しとったんです?」
「さっき?」
「シャンプーしとった時」
「あぁ、あの時」


それから再び鏡の前に戻って。何か雑誌読まれますか?と尋ねられたが、素直によくわからんからえぇです、と答えて。その言葉にまた表情を柔らかくした黒髪は、では、と一つ言葉を置いてからワイの背後に周り、ちょきちょきと、ハサミを動かす。鏡越しにその姿を、ワイはずっと眺めて。

半分くらい切ったのであろうか。床に散らばる赤の量が、大分増えて来た頃。そういえばと思い出した疑問を、投げかけてみた。すると黒髪は、少し思案するような顔をみせてから。



「かゆい所を聞いて、正直に答えられたの、初めてだったので」



聞けばこの黒髪、つい先週まで関東の美容院で働いていたそうで(道理で標準語を話すわけだ)。東京ではいくらかゆい所を聞いても、そこを示す客はいなかったそうだ。
そして今。
実家の近くであるこの店に移動になって。関西の客はかゆい所を聞かれたら、正直に答えると他の美容師には言われていたが、実際に言ったのはワイがはじめてだった、とのことで。


「何か、あぁ、大阪に帰ってきたんだなぁって、思ったんですよ」


はい、おしまい。


被せられていた布を外されれば、沢山の赤が床に落ちる。そんな床を見てから顔を上げると、床に広がる赤と反比例するかのように、軽く、そして整った頭があった。


「…めっちゃ凄いやん。何や、ワイやないみたい」
「これだったら、面接での印象もいいはずですよ」


それから髪を梳かしたり服に付いていた毛を取られたりして、ワイの初美容院体験は終わって。



「面接、うまくいくことを祈ってますよ」



よかったら結果、教えてくださいね。



にっこりという言葉が似合う笑顔と共に差し出された紙は、クーポン券ではなく本当の名刺。次にご来店の際は、是非ご指名を。なんて言いながら渡された紙を、ぼんやり眺めながら。ワイは来た時同様に黒髪が開けたガラスの扉から、外へ出る。
途端に蒸し返すような熱気が顔に当たったが、それほど不快感はない。



「ありがとうございました」



振り返れば、腰を折った黒髪。重力に従って落ちたその間から見えた耳は、色取り取りのピアスで彩られていた。



「財前、光。かぁ…」


貰った名刺に書かれた名前。指名というシステムがよくわからないが。結果が出たらまたあの店に、行ってみよう。そして彼の名を、呼んでみよう。



頭と同様に軽い足取りで、ワイは夏の夜道を歩き続けた。





End.






ひかたん2011


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