「…ありがとう。産まれて来てくれて、ホンマにありがとう」 君がいなかったら、こんな想いをすることもなかった。 君がいなかったら、こんな想いができることもなかった。 財前光の痕跡 「…なんや、これ…」 時差にも馴れて、食文化や言葉の違いといった色々なモンに馴れて。やっと自分らしいテニスが出来るようになった頃のことだった。 練習を終えてロッカーを開けて見ると、一枚の紙切れがひらひらと、降って来る。 ルーズリーフを破っただけのソレは、お世辞にも綺麗とは言えなかった。だけどワイはそれを、取らなければいけない気がした。 「…え、これ…」 見間違えるはずがない。 そこに書かれていたのは、確かに光の文字で。 ―――今日が何の日か、わかっとるやろが。 たったそれだけ、書かれていた。 でも、どうして、何で。 アメリカに来てから両親や友達とは電話や手紙でやりとりをしていた。だけど光からコンタクトがあったことは一度もなかったし、ワイから光に接触しようとしたことも、一度もなかった。 だって、あんな別れ方、してしまったんだから。今更顔を合わせるなんてこと、出来っこない。 「キンタロー。さっき日本人の子どもから、君に渡して欲しいって。これ、預かったんだ」 そんなことを考えながらも、手にした紙をじっと見つめていたワイにチームメイトが差し出してきた紙は、自分の手の中にあるものと同じルーズリーフの切れ端。 ―――近くにあったハンバーガーショップにおる。 「ちょ、キンタロー!?ミーティングがまだだぞ!?」 チームメイトたちの叫ぶような声が聞こえた。 だけどその文字を読んでしまった瞬間、光の言葉を受け取った瞬間。 練習後とは思えないほど軽やかに、ワイの足は地面を蹴りあげた。 ひかるがここにいる。 ひかるが近くにいる。 それだけがワイの頭の中を、支配していた。 「キンタロー!全く何なんだあの子どもは!うちのメニューにゼンザイ?がないと、文句を付けて来た」 「そんなんよりおっちゃん!ひかるは?ひかるは何処や!?」 「ヒカル…?あぁ、あの子どもか?お前にこれを渡してどっか行っちまったよ」 いつもの半分以下の時間しか掛けずに辿り着いたハンバーガーショップ。いつもはにこにこしているマスターの怒気を含んだ言葉に、益々ここに光がいることを確信する。 そんな彼がワイの言葉に、ひらひらと示した紙切れををひったくる様に奪う。 ―――ぜんざい置いてないなん、使えん店や。向こうの通りにあったレストラン行く。 彼はここが、アメリカだということを忘れているのだろうか。それよりも、ぜんざいがハンバーガーショップにあるわけないじゃないか。 日本にいた頃とちっとも変わらないもの言いに、思わず破顔してしまう。 あんな別れ方をしてしまったのに、きっと何度も泣かせてしまったというのに。 光は変わらないでいてくれる。そんなことを勝手に思った。 「おいキンタロー!あの子ども見つけたらな、そのゼンザイってヤツを作ってやるからレシピ教えろって、言っておけ」 マスターの言葉に頷くと、ワイの足は再び地面を蹴りあげた。 あの日、アメリカに行くと決めたことも。そして光のことを遠ざけたことも。光と別れたことも。総て光の為だと、ずっと言い聞かせていた。 だけどホンマは、ワイの為やなかったのか? これ以上、光のことを好きになってしまうことが、これ以上光を大切に思うようになってしまうことが、怖かったんじゃないのか? 光がワイのことを好きでいてくれることは、わかっていた。ずっと一緒に育って来た小春たちや、彼にとって一番頼れる存在であったオトン以上に、ワイを大切にしてくれていることもわかっていた。 だけど、気付いてしまった。ワイの“好き”と光の“好き”が、違うことを。 ワイは、光の全部が欲しい。光を独占したい。どっかに閉じ込めてワイだけしか見えないようにしてしまいたい。こういうこと、普通は女のヒトに対して抱かなアカン感情だってことくらい、わかっている。オサムちゃんと千歳に対して嫌悪感を抱いたことはないけど、それが“普通”じゃないってことくらい、わかっている。 だけどワイは、そういった意味で光のことを“好き”になってしまった。光の“好き”は、家族としての“好き”なのに。 光がずっと、家族を欲していたことをワイは知っている。だってワイだってそうだったから。光のことはきょうだいだと、ずっと思っていた。それが庇護の対象になって、それから愛するべきたった一人になるのに、そんなに時間は掛からなかった。 そして思った。このままじゃいられないって。このまま一緒にいたら、きっと光を傷つけてしまうって。 離れれば、この気持ちは鎮まると思った。忘れられると思った。ちゃんと光が望む“家族”になれるって、思っていた。 それなのに。 「キンタロー。あの子は君の、何なんだい?」 「…ひかるは。ワイが世界で一番好きで、一番大切な人や!!」 やっぱりワイは、光が好きなんだ。 誰よりも、光が大切なんだ。 街中を走り回りながら、光がいた痕跡を辿る。 そうしながらもワイの中は、ずっとふたをして閉じ込めていた光への想いと、そして二年にも満たない二人で過ごした時間が、溢れかえっていた。 ―――この街で、空に一番近い場所におる。 何軒かの店や施設を走り回って、そして手に入れた言葉たち。 今までの紙片を組み合わせると、それは予想していた通り一枚のルーズリーフに姿を戻す。 この街で一番空に近い場所…それは教会がある丘だ。クリスチャンでもなければ、神様に縋りたいとも思ったことがないから、一度も訪れたことがないけど、噂だけは聞いていたから。この街の人が、一番美しい場所だと誇る所だったから。だから、その場所はすぐに分かった。 教会と続く路を、しっかりと踏みしめながら歩く。そうしながらもワイは、本当にそこに行っていいのか、光に会っていいのかと、問い続けていた。 会うことが、今の自分たちにとって最善なのかは分からない。また光を傷つけてしまうかもしれない。 だけど、ワイは光に、会いたかった。それが、答えだ。 「…ひか、る…」 辿り着いた教会。人々が揃って誇りにしているだけあって、この小さな街には不釣り合いなほど美しい建物の前に、彼はいた。 相変わらず、ワックスで固められた黒髪に小さな身体。肩にメッセンジャーバックを引っ掛けて。耳のピアスは少し減ったようだ。 ワイの声にこちらを向いた光は、無表情のまま。口を開く。 「…今日、何の日か知っとるやろが」 「え…なに、の日て…」 いきなり発せられた言葉に、必死になって頭の中のカレンダーを捲る。だけど日付なんて気にしない生活が続いていたせいか、ちっとも答えは出て来ない。せっかく光に会えたのに、彼の求める言葉を発せない自分が情けない。 「ばーか。今日は俺の誕生日や。やから、プレゼント貰いに来た」 「プレゼントて…ワイ、何も用意なんしとらんし」 明らかに狼狽えるワイに対して、光はちょっとだけ笑う。この笑顔は子どもの頃から変わらないんだって教えてくれたのは、誰だっただろうか。そしてこの笑顔を見せるのは、光が一番嬉しい時だって気付いたのは、いつだっただろうか。 ぼんやりと、その笑顔を眺めていると。ワイよりも頭一つは小さなその身体が、とても同い年とは思えない小さな身体が少しずつ、こちらに近づいて来て。 「…金太郎が俺のこと嫌いでも、俺は金太郎のことが好きや。やから、一緒に居させて欲しいねん…他には何もいらんから。ずっと、俺と一緒に居て欲しいねん」 ワイの身体を、思い切り抱き締めた。抱き締めた、というよりも抱き付いた、といった方が正しいかもしれない。胸のあたりに埋められた顔は、どんな表情を浮かべているのかは分からない。 だけどその身体が小さく震えていることは、その心臓がワイのと同じくらい早く脈打っていることは、わかった。 そして光の“好き”も、ワイの“好き”と一緒だったってことも。 「ワイも、ひかるが好きや。やから…ずっとずっと、一緒に居てください」 宙ぶらりんだった腕を、光の背中に回す。最初は恐る恐るといった風にしか力を籠められなかったが、ワイを抱き締めていた腕に力が籠められたことを感じて、自分も力一杯に、光を抱き締めた。 暫くそうしていて、その間言葉なんてなくて。ずっとずっと、こうしていたくて。もう二度と、光を離したくなくて。 だけどゆっくりと、身体は離れて行く。ゆっくりと上げられた顔には、今まで見たことがないほどの笑顔が溢れていた。 その笑顔を目にした瞬間。ワイはもう一度、その身体を抱き締めた。 「もう、絶対離れたない…ずっと、ずっと一緒やで」 腕の中に光が、頷いたのが分かった。 教会の鐘が鳴る。 今まで神様なんて信じたこともなかったし、縋ったことも感謝したこともなかったけど。 今日だけは、本気で感謝する。 光と同じ世界に産まれて来られたことに、光と出会えたことに、こうやって光と結び付けたことに。 そして十八年前の今日、光が産まれてきてくれたことに。 もしその全てが、神様が決めていることだったら。本当に感謝するよ。 そして、腕の中にいる光にも。 ワイを選んでくれた、光にも。 「…ありがとう。産まれて来てくれて、ホンマにありがとう」 胸いっぱいの感謝と、それからここから先はずっと離れないで守っていくっていう、決意を力に変えて。 ワイは光を強く強く、抱き締めた。 彼彼。 |