「…本間に自分は、その子のことを守れる言うんか?」



時間が戻せるのならば、あの時に戻りたい。
何度願っても、叶うことのない願いを祈り続けるくらいならば。
今できることを、していきたい。



今目の前にいる子と、向きあいたい。





石田銀の早計





「…義父さん、今日仕事、早う終わる?」


朝出掛けようとしたところ、恐る恐ると言った風に掛けられた声。
振り返れば数か月前、戸籍上も「親子」となった健二郎が少し照れくさそうな顔をして、こちらの様子を窺っていた。
その言葉に答えるべく、頭の中に収まっている今日の予定を、思い起こす。


「…今日は月曜やさかい、週末に何もなかったら、そない遅くはならんはずやが…」


大した会議も外部との会合も今日はない。ならば社内で何かなければ、早い…とは言えないが。それなりに早く帰って来られるはずだ。
だが、何故だろう。健二郎がそのようなことを尋ねるのは。


「や、やったら今日は!なるべく早う帰ってきて、欲しいねんけど…」


浮かんできた疑問を口にするよりも早く、先ほどよりも恐る恐る紡がれた言葉。リビングから身体半分だけ覗かせて紡がれたそれはまるで、幼子が親に休日の遠出をねだるような、そんな風であって。


「あぁ。なるべく早う帰れるように、するわ」


何となくではあるが。この言葉に応えられなければ健二郎の親などとは名乗れない。そう思えた。
そう思いながら返した言葉に見せてくれた笑顔は、ここ数か月で見られるようになった、彼が本当に嬉しいときに見せる表情。そう、白石君たち友人の前ではよく見せている、表情。

それを裏切らないためにも、今日は定時に仕事を終えられるようにしようと、小さく決心して、家を出た。
背中にはいつもより数段トーンの高い「いってらっしゃい」の声が、掛けられた。





しかし、本当に何故健二郎は、ワシの予定など尋ねてきたのだろう。そして何故、早く帰ってきて欲しいなどと、言ったのだろう。

幸いにも週末に気になる案件は上がっておらず、このままでいればいつも通りの仕事をこなせば、定時には帰れるだろう。
それだというのに、健二郎の真意が気になってしまい。キーを打つ手もいつもより、遅くなる。書類に目を通す時間も、いつもより長くなる。
このままのろのろと進めていては、定時になど到底上がれない。そう思ったワシは自分用の部屋を出ると、社員たちの様子を見て来るという名目で、社内を歩き始めた。


何人かのすれ違う部下たちと挨拶を交わしたり、会話を楽しんだりしているうちに、段々と健二郎の真意を探ろうという思いは、薄れていく。それよりも今は、彼に言った言葉を真実にするために動くべきだと、そう思えるようになっていた。


と。給湯室から高い声が聴こえて来る。恐らくは女子社員たちが談笑しているのだろう。そう言えばこの部署を任せている部下から、給湯室に行った女子社員たちがなかなかデスクに戻らないと、苦情に似た言葉を聞かされたばかりだ。
あまり人を注意することには慣れていないが、これも社員教育の一環だと。こほんと咳払いをしてから、給湯室に足を踏み入れようとした。
その瞬間。タイミングを見計らったように黄色い悲鳴が上がる。続けられた言葉は入口で固まってしまったワシの耳にも、しっかりと飛び込んできた。



「私な…この前の土曜日に、彼の実家に挨拶に行って来たん!」
「きゃーおめでとう!ホンマもう、結婚秒読みやね!」
「うん!」
「あーあ、うちの彼氏も、早うご両親に紹介してくれへんのかなー」
「えーそんなんすぐやって!一遍覚悟決めたら、行動にするんは早いわよ、きっと。それよりなぁ…」


給湯室の中にいた女子社員たちは互いに手を取り合い、喜びあったかと思うと。もう次の話題に華を咲かせている。
しかしワシはその中へ足を踏み入れることも、その場から立ち去ることも出来ずにいた。




結局女子社員たちに注意することも出来ず、どうにか自室に戻ったワシは、座り心地のよい椅子にどかりと、身を預ける。
頭の中で何度も再生されているのは、先ほど盗み聞くように耳に入れてしまった会話。そして今朝、照れくさそうな表情をした健二郎から言われた言葉。



まさか。



健二郎にも、結婚を考える相手ができたのか?その相手をワシに紹介したいから、早く帰って来られるか、尋ねたのだろうか?
いやしかし、健二郎はまだ高校生だ。いくらなんでも早過ぎる。


有り得ないと頭を振ると。
一つの影が、頭をよぎった。



『兄貴。オレな、ガキ出来たさかい、結婚するわ』



健二郎によく似た顔で、健二郎よりも屈託なく笑うその人物は、その時まだ十八で。今の健二郎と二歳しか違わなくて。
それでもしっかりと、父親を名乗って。しっかりと、父親であろうとしていた。
しっかりと、家族を守ろうとしていた。



それを壊したのは、自分たちだ。



若いから、未成年だから、よそから来た子どもだから。
そんな理由でワシたちは、彼を否定し、彼の家族を壊して。


『…なぁ、お父ちゃんとお母ちゃんは、どこに行ってもうたん?』


結果として遺された健二郎は、彼を否定した親族をたらい回しにされた。
見ないフリをし続けることは、出来た。だがそれをしなかったのは、彼に対する償いの気持ちと。


『…ホンマは誰も、俺んこといらんのやろ』


やけに冷めた目で静かに言い放った、一人の幼子に対するひとつの気持ちから。
この子から奪ってしまったものを、少しでも埋めてやりたいという、気持ちから。


結果からして、それを成し遂げたのはワシではなく、健二郎の友人たちなのだが。
それでも彼がまだ幼かった頃のように…そう、彼の両腕に抱かれていた頃のように、笑う姿を見られるようになったのだから。


そんな健二郎が、紹介したい人がいるというのなら、今度はもう、否定はしない。
そんな健二郎が、新しい家族をもちたいというのなら、今度は必ず、受け入れたい。


『兄貴だけは、俺のこと分かってくれる、思うとったんに』


あんな目を健二郎には、させたくないから。




そう決心した途端、先ほどまでの緩慢な動きが嘘のように、自分の手が、目が、身体の全てが、素早く動くことがわかった。
一刻も早く健二郎に…ワシの家族に、会いに行くために。
そして新しく家族になる、人に会うために。
その為だけに自分の身体は、いつもの倍の早さで仕事を片付けていった。しかしそれまでの時間が、いつもの半分以下の処理能力しか発揮していなかったせいで、結局全ての仕事が終わったのは、当初予定していた通りの、定時であって。
残業してくれている部下たちにすまないと思いながら、パソコンの電源を落とすとカバンとコートを掴み、走るように部屋を飛び出した。



途中、きっと甘いものが好きであろう新しい家族への手土産として、小さめのホールケーキを買って行くことを、忘れずに。






「お誕生日おめでとう、義父さん…て、自分でケーキ買うてきたんか?」



健二郎の真意が全く違うところにあることも、知らずに。







彼彼。



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