人間誰にだって間違いはある。
認めたくなくても、間違えることはあるんだ。




Selfish




「…なにを、しとったと?」

「えと…ライターいじっとった?」

「もう一度聞くったい…なにを、しとったと?」



禁煙生活を開始して早三か月。
俺…四天宝寺中学男子テニス部顧問・渡邊オサムは。




「……煙草を、吸っていました……」



禁煙に失敗、してしまいました。




目の前に仁王立ちになっているのは、俺の可愛い恋人の千歳千里。その手には俺が先ほど彼の姿が見えると同時にポケットにねじり込んだはずの、まだ真新しい(そりゃそうだ、さっき買ったばかりなのだから)煙草の箱が握られていて。
中身が一本しか減っていないはずのそれは、彼の握力によってすっかりその姿を変えてしまっている…口から飛び出している煙草が、何となく痛々しい。あれ一本いくらするか、こいつは分かっているのだろうか。

そんな千歳の前に正座させられた俺は、さっきからこちらをものすごい形相で見降ろしている恋人の目から少しでも逃れようと、顔を斜めに向ける。



今日は朝から、苛々していた。

目覚まし時計は電池切れでその機能を果たさず、急いで靴下を履いたら思いきりこけた、その上靴下は左右で違っていたし。顔を洗おうと蛇口を捻れば勢いよく飛び出した水がせっかく着替えたばかりのシャツを濡らす。鏡を覗き込めば寝癖だらけの頭が飛び込んで来て。急いでいるはずなのに、すべてが空回り上手くいかず、結局支度だけでもいつもの倍は、時間を食ってしまった。

そんなこんなでようやく辿り着いた職場では、朝から部員のことでお局様に小言を言われる。そんなもん本人に言えやと、思わず叫びそうになるのを引きつった笑顔で堪えて。向かった一限の教室では、ドアに挟まれた黒板消しが頭に落ちると言う、なんともベタな展開。

そんなまるで一生分の不運が一度に訪れたかのような状態に、昼休みの頃にはへとへとになってしまって。昼休みも昼休みで、主任に仕事を押し付けられて…

やっと雑務から解放されたと思った放課後。またしてもお局様と主任に捕まり、今の今まで生徒指導と言う名の見回りを押し付けられて。

ふと、目に入った自動販売機。今が職務中だということも、そして今俺は禁煙していることも、分かっている、分かっているけれども。



気が付けば、学生時代から吸い馴れた銘柄の箱が手に握られていた。
気が付けば、ポケットに入っていたライターで火をおこすと、口に咥えた煙草へとその火を近付けていた。



気が付けば、肺いっぱいに煙を吸い込んでいた。


三か月ぶりに吸いこんだ煙を吐き出すと、俺の苛々も一緒に吐き出されていくようだった。誰だ、久しぶりに吸うとむせるなんて言ったのは。何ともないじゃないか。



ただこの苛々を吐き出す手段。
ただ煙草一本を吸っただけ。
ただコインを三枚ほど、消費しただけ。


そのはずだった。




「…オサムちゃん、禁煙ばするって、言っとったとよね?」

「…せやったっけ?」

「オサムちゃん!」

「…はい、言いました」



相変わらずここは外だというのに、公共の場だというのに。地べたに正座をさせられた体勢で俺は、目の前に立つ千歳に説教をされている…色々おかしくないか?この状況。


三か月前、千歳が禁煙指導だかで“煙草の害”という知識を手に入れて。俺を心配する彼の必死さに胸を打たれて禁煙を決意。その後、白石曰く“えぇこと”だった禁煙方法を実施し、一か月前くらいからは別に、口寂しいなんて思わなくなっていた(が、千歳の反応が面白くてつい“えぇこと”は続けていたのだが)。

そんな中、ついつい調子に乗った俺はこのまま禁煙したる!と、全部員の前で宣言してしまったわけで。勿論その場には、俺に煙草を止めるようにと言いだした千歳も、いたわけで。

その時の彼の喜びようと言ったら、どう形容していいのか分らないくらいに、嬉しそうで。嬉しい、なんてありふれた言葉で表現してとは思えない様子だったのだけど。


そんな千歳が今は、眉間に深く皺を刻み、両目を吊り上げて俺を睨みつけている。あ、煙草が箱から零れ落ちた…勿体ないわ。


鬼の様な形相を崩さないまま、くどくど文句を言い続ける千歳の言う事を、悪いことをしたという思いがある手前、暫くは大人しく聞いていたが。段々と、煙に乗せて吐き出したはずの苛々が、蘇ってきて。




「別に、俺が煙草吸ったってえぇやんけー大人にはなぁ、煙草吸ったり酒飲んだりせな、やってられん日かてあるんやで?それを、ちくちくちくちく…自分は小姑かっちゅーねん。大体なぁ、俺の身体んことは俺がいっちゃんよぉ分かっとるねんから…」


「ばかぁ!!」



思わず、俺のリラックスタイムをぶち壊した千歳に当たってしまったら。


べちん。なんて可愛らしい音じゃない。バキ、とかメキ、とか、そういう物騒な音がした。
千歳に殴り飛ばされたのだと気が付いたのは、ずっとお友達だった地面と一旦別れて、今度は身体全体で再会してから。そんな身体を千歳によって掴まれてから。



「喫煙は喫煙病という全身疾患なんやで!喫煙者は自分が患者であるっちゅー認識が必要なんや!」


…あれ?千歳、自分いつの間に関西弁喋るようになってん?


「煙草の煙には4000種類を超える科学物質が含まれとる。その内200種類は以前習った通り致死性有害化学物質なんや!特に有名なんがニコチンやな。これ過剰摂取するとなぁ、下痢嘔吐、縮瞳っちゅー末梢神経症状から妄想幻覚、錯乱っちゅー中枢神経症状まで出てしまうんやで!!妄想やでも・う・そ・う。あのオッサンが妄想見て道頓堀にでも飛び込みよったら、大爆笑もんやな!!」


いつもののんびりした口調はどこへやら。捲し立てるようにガンガン関西弁を繰り出しながら。掴んだ胸元を起点に俺の半身をぐらぐらと揺らす。


正直に言う。気持ち悪くて何も頭の中に入って来ない。
だけど。



「そんなん嫌ったい!…そんなオサムちゃん見たくなかよ!!…オサムちゃんには、いつまでも元気でいて欲しか。いつまでも今のままの、オサムちゃんでいて欲しか…」


千歳の、本来の口調で紡がれた悲痛な叫びだけはちゃんと、俺の心の底まで届いた。



しっかりと掴まれていた手が離されたかと思ったら、次の瞬間には俺より大きな、だけどどこかまだ頼りない身体にすっぽりと、包まれていて。背中に回された腕は、俺に覆いかぶさる身体は、小刻みに震えていて。



「…堪忍、堪忍な、千歳…俺がどうかしとったわ…苛々に負けてまうなんて、ホンマ駄目なオッサンやなぁ…」

「ん…今度こそ、ちゃんと禁煙、するっちゃ」

「おー約束や、約束」



差し出された小指に、自分の小指を絡めると。

千歳が次に見せてくれたのは、綺麗な笑顔だった。






「…ところで。今度は誰に聞いたんや?あの説明…」

「あぁ、白石が教えてくれたと。オサムちゃんが禁煙したるーて、言った日に」

「……あいつ、こうなること、見越しとったんか?恐ろしい奴や…」



煙草はそのまま、近くにあったゴミ箱に捨てた。今度はポケットに入っていた、ライターも一緒に。あと、財布に入っていたタスポも千歳に預けた。これで多分、大丈夫だろう。


あとは俺の意思次第。




「なんか、また次のネタ仕入れといたるからなーて、言うとった」

「白石め…次のネタなん、使わせてたまるか…今度は絶対、禁煙したるで!」



本数を減らす所からスタートした俺の禁煙。三日三か月三年、三が付く時にはご用心。これは恋愛だっただろうか、見事三のトラップに嵌った俺の禁煙生活は、今日から新たにスタートする。



「オサムちゃん、頑張っるったい。俺、応援しとっとよ」

「おー千歳の応援があれば、百人力やな」



にこにこと、俺が以前禁煙を宣言した時以上に嬉しそうに笑う千歳を見て。この笑顔をずっと見ていきたいと思った。


その為にもこの宣言が今度こそ、現実になるといいなと思った。現実にしてやろうと、決心出来た。
白石の仕入れてくる知識なんかを、これ以上千歳に植えつけられても困るしな。


「よっしゃ!やったるで!」


何年かぶりに、己の拳を力強く天に向かって振り上げた。



そんな、秋の日の出来事。



End.





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