「…ひかるのこと、頼む」 迂闊だった。 いつも通りにしているからって、安心しきっていた。 そんな簡単に、あの子が抜けてしまった穴が埋まるはずないって、わかっていたのに。 財前光の切望 金太郎君が渡米してから、早いモンでもう、三か月が経った。 最初の頃こそ、元気のない様子を見せていた光だったが、流石に彼の不在に馴れたのか。 相変わらず憎まれ口は叩くし、甘いモンばっかり食べているし、一部の人間としか関わろうとはしないけれど。だけど、それが今まで通りの光だ。 今もいつも通りに屋上で弁当を広げて、謙也クンたちと笑顔で会話を交わしている姿を見てそう思った。 『…ホンマ、ひかるがどうかなってまわないように、様子見たって欲しいねん…ワイがこないなこと言うんは、勝手やってわかっとる…やけど…ひかるが、心配やから…やから、お願いします。ひかるのこと、頼む』 あれは、金太郎君が渡米する数日前だったと思う。 うちら全員の前で彼は深々と頭を下げ、何度も光のことを頼むと、言っていった。 久しぶりに見た彼は、出会ったばかりの頃からは随分と大きくなっていたけれど、だけど本質的な部分はちっとも変わっていないことが、すぐにわかった。 実際、金太郎君がいなくなってしまうことが光にとってどれだけマイナスかってことに、うちは気付いていた。そしてユウ君も。 まだまだ付き合いの浅い蔵リンたちはきっと、金太郎君がいなくなるということが光にとって、ただ仲のいい友達が一人、いなくなってしまう程度のことだと思っているのだろうけれど。 そんなの、違う。 光にとって金太郎君はもう、替えが効かない存在になってしまっているのだ。 うちらみんなを束にしたって、金太郎君には敵いはしない。この一年半でそれくらい、彼は光の中で大きな存在になってしまった。 それはきっと、お互い同じ時間を過ごしてきたから。同じ苦しみを味わってきたから。家族以上に家族であり、きょうだい以上にきょうだいなんだ。 光にとってやっと出来た、本当に自分のことをわかってくれる人間、それが金太郎君だ。 そんな相手と離れること、それがどんなに辛いか。 光がそれに耐えられるのか、うちらは不安だった。 だけど同時に、彼が光の傍を離れる利点にも気付いていた。金太郎君もそれに気付いたから、そうした方が光の為になるからと、渡米を選んだのだろう。彼の目を見たら何となく、そう思った。 これ以上、誰かに依存し続けることは光の為にならない。 もううちらも、高校三年だ。来年の今頃は、クラスメートの何人かは社会に出ている。大学という場所で自分の進路に向かった勉強をはじめる者もいる。そんな時期。 そんな時にいつまでも、誰かに…金太郎君に依存し続けることは、光の為にもならなければ、金太郎君の為にもならない。 光はもう、自分の足で立たなきゃいけないんだ。 何だかんだ言ってずっと甘やかして来てしまった自分が言えた台詞じゃないってこと、分かっているけれど。 でもだから、金太郎君の意志は尊重したいって思った。 そして彼が安心してアメリカでテニスに…自分の夢に打ち込めるように、うちらに出来ることはしようと決めた。 そんなこともあって、最初の間こそ休み時間はこまめに光のクラスへと通い、登下校一緒、放課後も一緒に過ごしていた。 なるべく光を一人にしないように、金太郎君の不在を強く感じないようにと、過ごしてきた。 だけどもう、大丈夫。 うちらが教室に行かなくても、蔵リンたちと一緒に楽しそうに過ごしている光を見て、そう思った。 どうやら光は、うちらが思っていたよりもしっかりしていたらしい。思っていたよりもずっと早く、光は本来の姿に戻っていた。 もう光は大丈夫。うちらがいなくても、金太郎君がいなくても大丈夫なんだ。 そう、思っていた。 「そういや光、進路希望どうするんや?俺、一応美大進学にしてるんやけど」 他愛のない話をしながら、みんなが弁当を平らげてしまった頃。紙パックのジュースを啜りながら、謙也クンが何でもないことのように聞く。 そう言えば先日、進路希望調査票なんてモンが配られたっけ。それを元に、夏休みに三者面談をするんだって、担任は言っていた。 「…まだ、決まっとらん」 「財前だけっちゃろ、うちのクラスで進路希望表、出してなかの。いい加減出さんと、先生困っとっとね」 その言葉に、光は途端表情を曖昧なものに変えると歯切れの悪い返事をする。そんな光に、正面に座っていた千歳君が小さい子を窘めるように言った。 その時、うちの中でかちりと、何かが外れたような音がした。 同時に湧いてくるのは、いくつかの疑問。 うちはちゃんと、光のことを見ていたのか? 本当に金太郎君がいなくても大丈夫だなんて、思っていいのか? 光は、何か隠していないか? 「だって俺。別になりたいモンないし。行きたい学校もないし…別に、このままでいたいねん。ずっとこのまんまで、えぇねん」 光はぷいっと、千歳君から顔を背ける。それはどう見ても、目の前まで来ている決断の時から逃げているようにしか見えない。 それに益々、うちの中で芽生えてしまった疑惑は大きくなる。 それからも、進路の話は進んでいく。誰がどの学部に行きたいだとか、クラスの誰が予備校に通い始めただとか。そんな中も光は顔を背けたまま。 それは全身で、自分が今置かれている状況どころか、このままでいたら、今後訪れるのであろう未来までも、拒んでいるように見えた。 ねぇ光。アンタ、ひょっとしなくても…… そう口を開きかけた時だった。 「ちゅーか財前くん。ホンマはアメリカ行きたいんやないんか?なんちって」 「そんなわけないやろが!!」 どういう話の流れでそんな言葉が出て来たのか、なんて把握していない。 蔵リンが明るい調子で紡いだ言葉に、それまでだんまりを決め込んでいた光が、吠えた。 「行きたいわけないやろが!あんな…あんな奴の居る所、俺が行きたいなん思うわけ、ないやろ!!」 自分が泣きそうな顔をしているってことに、この子は気付いているのだろうか。 本当は行きたくて仕方ないって、金太郎君に会いたくて仕方ないって、顔をしていることにも。 あぁやっぱり。この子には彼が、必要なんだ。 依存とか甘えとか、そんなモンじゃなく。もっと深い部分で、彼を必要としているんだ。 だけど…だから、きっと気付いたのだろう。 どうして彼が別れという道を選んだのか。彼が自分に、何を求めているのか。 そしてそれに、応えようとしたのだろう。それは、表面上はとてもうまくいっていた。だってうちらはもう、光は一人でも大丈夫なんだって、思っていたのだから。そう一番傍にいたうちらにまで、思わせていたのだから。 あぁもう、本当にこの子は… 「…光、行きたいんやろ?アメリカに。会いたいんやろ?金太郎君に…やって自分、金太郎君のこと、大好きやもんな。大切なんやもんな…やから、ずっと我慢しとったんやろ?金太郎君に…それからうちらにも、迷惑掛けんようにて、我慢しとったんやろ?」 「ちゃう…そんなんちゃうわ!だって金太郎、俺のこと嫌いって言うた!俺んことなん、金太郎はもういらんのや!…お母ちゃんと一緒や。俺に嘘ついて、俺んこと、置いてってまったんや!……そんな奴、俺もう、会いたない。俺はそんな奴、嫌いや!!」 ずっと、我慢していたのに。 それでも尚、金太郎君の想いに応えようとしている。彼が望む人間であろうと、している。 本当は好きなのに。金太郎君のことも、そして自分を置いていってしまった母親のことも。好きで、大好きで仕方ないのに。 一体いつからだ。光がこんな聞きわけのいい子になってしまったのは。 こんなの、光らしくないじゃない。 そりゃ、大人になったんだって喜ぶべきことだろう。うちかてこうなってくれることを、望んでいたじゃないか。 でも、だけど。 「えぇ加減にしぃ!…嘘吐いとるんは…自分やろ?金太郎君に嘘吐くなって言う前に、自分が嘘吐くんやない。自分の気持ちにやって、嘘なんか吐くんやない…正直になり、光。ホンマはどうしたいん?ホンマは、どこに行きたいん?…嘘吐く子は、嫌いやで?」 やっぱりこの子には、我慢なんて似合わない。この子はちゃんと、幸せにならなきゃならない。 嘘なんて、この子には一番似合わないものを吐き続けるなんてこと、絶対にあっちゃいけないんだ。 思わず出そうになった手を引っ込めて、言葉だけをぶつける。真っ直ぐにぶつける。ユウ君たちもじっと、光の方を見ていた。 光がちゃんと、自分自身の言葉を紡ぐことを、待っていた。 「……行きたい。金太郎の傍に行きたい…金太郎と、一緒に居りたい…」 蚊の鳴くように、小さな声だったけど。 暫く時間が経ってから紡がれたそれは紛れもない光の本心。ずっと、この子には似合わない我慢をし続けて、隠し続けてきた本心。 涙と一緒に溢れ出したそれを拭うのは、叶えるのは、光自身だ。だからね。 「やったら、行ってらっしゃい。一度きりの人生や。後悔したら、負けやで」 こくんと頷き、乱暴に涙が拭い去られた光の目にはもう、迷いがなかった。 まっすぐに、自分で勝ち取らねばならない未来を、見つめていた。 行っておいで、光。 ちゃんと自分の気持ちに正直になって。そして自分の気持ち、ちゃんと伝えておいで。 大丈夫。 もしダメでも、うちらが待っているから。ここでちゃんと、光のこと待っているからね。 走り出した小さな背中を見送りながら、ちょっと涙が出そうになったのは内緒。 そんな涙も、隣でわんわん声を上げて泣き出した蔵リンと謙也クンの顔を見たら引っ込んでしまったのも、内緒。 その数分後。 アメリカってどうやって行くんだと、すっとぼけた事を言いに戻ってきた光を、 今度は容赦なく、殴ってやった。 ごめんね、金太郎君。 うちら、金太郎君に頼まれたことも大事やけど。やっぱり光が幸せになることのんが、大事なんや。 空は世界中どことでも繋がっているから、きっとこの気持ちも届いたであろう。真っ青な空を見上げて、そう思った。 End. Thanks 30000HIT |